分類

  • 2022年04月12日(火)

    部活動紹介が行われました。

    4月11日(月)の5・6時間目に部活動紹介が行われました。

    実演や映像を使った紹介があり,1年生は興味津々!

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    「生徒会長」

    たくさんの1年生が入部し,活気のある頴娃高校にしましょう!

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    「弓道部」凜とした表情で俵とハートを射貫きます。

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    「卓球部」正確なフォアでボールを打ち返します。

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    「ソフトテニス部」強烈なサーブやボレーで会場が盛り上がりました。

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    「サッカー部」つかみはOK? 映像も交え,日頃の練習風景を伝えてくれました。

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    「バスケットボール部」正確な3ポイントで観客を魅了。

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    「野球部」これまでの実績と今後の目標について映像を交えて熱く話してくれました。

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    「陸上競技部」練習用の槍(ジャベボール)が1年生の頭上を超えていきました。(危険には十分注意しております)

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    「女子バレー部」元気に明るく活動している様子が伝わってきます。

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    「機械部」昨年に続き,ものづくりコンテストや各種大会での入賞を目指します。

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    「バドミントン部」細かなテクニックと,強烈なスマッシュを披露してくれました。

     

     

     

    その他にも,アート部,吹奏楽部,男子バレー部があります。

    たくさんの1年生が入部し,頴娃高校を盛り上げていきましょう。

     

  • 2022年04月11日(月)

    集団指導がありました

    本日4限目に集団指導がありました。

    集団指導では,行事や儀式時の整列指導の他,挨拶の指導などが行われました。指導中は,指導してくださる先生に体を向け,真剣に話を聞いていました。

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    間隔をとり,綺麗に整列していますね!!素晴らしいです!

    礼もお互いに向き合いながら確認を行いました。行事・儀式の際は,今日のことを思い出しながら行動しましょう。

  • 2022年04月11日(月)

    対面式が行われました

    4月8日(金)に対面式が行われ,在校生より歓迎のことばと,学科紹介がありました。

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       【 生徒会長の上村天音さんが,歓迎のことばを述べました 】

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       【 続いて,新入生代表の挨拶を述べる粟ヶ窪こころさん 】

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              【 普通科の紹介をする3年生 】

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            【 機械電気科の紹介をする3年生 】

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    【 頴娃高校の紹介VTRです。学校生活のイメージはできましたか? 】

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    1年生の皆さん,本校の2・3年生は優しく思いやりのある生徒ばかりです。声をかけたら優しく教えてくれる,頼りがいのある先輩方がいますので安心して学校生活を送ってください。そして,これからの学校行事,部活動,資格取得などを一緒に頑張っていきましょう!!

  • 2022年04月07日(木)

    入学式の舞台裏!お見せします!

    いよいよ本日,令和4年度 入学式を迎えました!

    昨日,普通科・機械電気科2年生が中心になって,体育館の設営など新入生を迎える準備をしました。

    さらに・・・教室では!

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    【設営をバッチリ済ませた普通科1年生の教室】

     

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    【自分たちの入学式を思い出しながら・・・】

     

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    【普通科2年生の先輩たちが書いてくれました】

     

    新入生の皆さん

    頴娃高校 生徒・職員一同 皆さんの入学を心待ちにしておりました!

    一緒に熱い高校生活を送りましょう!

    「掴む栄光 叶える頴娃高」(頴娃高スローガン)

     

  • 2022年03月28日(月)

    普通科「総合的な探究の時間」発表会!

    今年度,普通科は地域の皆さんにご協力いただきながら,地域協働活動してきました。

    地域の方から,地域が抱える課題を聞き取り,私たち高校生ができる課題解決方法について考えました。

    ご協力くださった皆さんに感謝の気持ちを込めて,いよいよ発表します!

     

    各班の発表は,図のような構成で作りました。

    探究イメージ

    では,発表会の様子をご覧ください(^o^)丿

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    【今年度の取り組みを振り返り】

     

    【発表1】SDGs12「つくる責任 つかう責任」 7名

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    2年生は「動物愛護」について,猫を中心に,多頭飼育やノネコ・野良猫へのエサやりを減らすための啓発活動を考える。

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    1年生は「空き家」について,空き家バンクに注目し,南九州市の空き家を利用してくれる人が増える方法を考える。

     

    【発表2】SDGs3「すべての人に 健康と福祉を」 3名

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    高齢者や認知症の方の見守りについて,高校生との交流会や,南九州市で開催されている様々な認知症カフェなどの啓発について考える。

     

    【発表3】SDGs6「安全な水とトイレを 世界中に」 3名

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    頴娃町の水資源について,池田湖に注目し,昭和の大規模灌漑事業について学んだことを報告し,その学びを次世代へ出前授業することを提案する。

     

    【発表4】SDGs8「働きがいも 経済成長も」 10名

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    『各世代への情報共有』,『高齢者への情報の拡散』,『空き店舗の活用』について,Instagramを利用した情報の拡散や高齢者の憩いの場の設置,マルシェの開催など,頴娃町が活性化する方法を考える。

     

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    【地域の皆さんも私たちの発表のために来校され,大勢が見守ります】

     

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    【活発な質疑応答もおこなわれ,新たな気付きが沢山ありました】

     

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    【最後に,長い間 ご協力くださった地域の皆さんに全員で感謝の挨拶】

     

    総合的な探究の時間を通して,私たちの母校がある頴娃町について深く考える機会となりました。

    そして,自分自身で課題を見つけ,考え,相手に伝えることの難しさと大切さに気付きました。

    地域の想いを受け継ぎ,今回の活動を引き続き活かせるよう,私たち 頴娃高生は頑張ります!

    ご協力くださった地域の皆さん,本当にありがとうございました!

     

     

     

     

     

     

  • 2020年10月19日(月)

    令和2年10月19日全校朝礼に代えて 「読書週間によせて」

    読書週間によせて               校長 林 匡

    おはようございます。

    10月16日からは,いよいよ3年生の民間企業就職試験も始まりました。たとえ厳しい状況でも負けないで,是非目標を実現されるよう,今までの取組の成果を挙げられることを願っております。また,進路先が既に決まった人も,それぞれの時間を更に生かしていくように,考え行動しましょう。

     この秋,新型コロナウイルス感染症対応を図りながらも,資格・検定試験や各部活動の地区大会,県大会が続いています。学校では文化祭という大きな行事もありますが,これも感染予防とともに,できうる方策を検討しながら,生徒会を中心に皆さんが取り組んでいることを,頼もしく思います。

    何をするのか自ら考える習慣を持ち,よりよい方向を見いだし,行動に移しましょう。

     

     さて,今日から本校では,11月6日までを校内読書週間に設定していますね。読書週間について少し触れておきます。

     読書週間は,アジア太平洋戦争後間もない,1947年に「読書の力によって,平和な文化国家を作ろう」という決意のもと,出版社・取次会社・書店,公共図書館,新聞・放送のマスコミ機関が連携して第1回が開催されました。翌年の第2回から,期間が10月27日~11月9日の,文化の日を中心とした2週間に定められ,全国にこの運動が広がっていった歴史があります。

     

     「ラストページまで駆け抜けて」が今年の読書週間の標語です。また本校では,特別活動で「本のポップを作ろう」にも取り組むことになっています。文化祭で展示されますので,今から楽しみにしています。

     

     本を読みましょう。

     先人の切り拓いてきた,広い視野,深い洞察と豊かな感性とその表現にふれてください。閲覧や検索の履歴から,自分の関心のある,好きなもの,好ましいものばかりを提示されることに慣らされないように。短い単語の掛け合いだけではなく,文章の中から本質を見いだすように。

     

     自分の知らない世界に入っていくことも,この秋に,是非試みてください。気楽に読めるものばかりではなく,少し背伸びをしたものにもトライして,「何だろう」「どうなっているのかな」「なるほど」といった,疑問と思考を深める機会をもってください。

     

     私たちの脳は,生きていくために絶対に必要な器官ですね。これ無しでは,心臓の働きや呼吸をはじめ,生命活動を支える機能が停止してしまいますから。

     ただ,脳の働きはそれだけにとどまりません。記憶し,感動し,思考し,時に決心し,行動する。言葉を話し,抽象的なことを考える。経験を通して生きる意味を考える。これらも,脳あってのことです。

     

     脳内では,複雑で巨大な神経細胞のネットワークが張り巡らされています。

     この脳の働きをよくする方法には,適度な運動や睡眠,食事などがありますが,これらとともに,皆さんに特に勧めたいのが読書です。(なんだ,そこか,と思った人もいるでしょう。)

     10代後半の皆さんの時代こそ,特に神経細胞が発達して,秩序だった神経回路がつくられて,認知,運動,感情などの高度な情報処理を実現する,情報の伝達がより効率的になるのです。今だからこそ,です。

     

     映像や音声といった,瞬時に感覚として受け入れられるものとは違い,読書では文字から言葉を読み取り,自分の脳を使って解釈し,理解しなければなりません。分からないことがあれば,読み返し,辞書を引くこともあります。自分の生き方,その他,形のないもの,在り方なども考えることにもなるでしょう。

     こうした活動や,理解に至るまでの行動,思考,想像などが,脳内の神経細胞を発達させ,更に精密さを増す中で,知的な力量を高めます。

     

     ともあれ,まず皆さんには手に本をとって,昼休みや放課後,ちょっとした時間を利用して,読書の喜びを味わい,生きる世界を,より広く深く捉えてほしいと願います。

     

  • 2020年09月28日(月)

    令和2年9月28日全校朝礼に代えて 「日々の選択と生き方」

     

    日々の選択と生き方          校長 林  匡

     

    おはようございます。

     さて,私は今日,家を出るまでに,朝食をどうしようかと考え,時間が惜しいから簡単に済ませようと考えて済ませました。また,どの柄のネクタイにしようか,ストライプはシャツにかぶっていないかなどと考え,選びました。これらは日常の何でもない営みの一つです。

     以前,NHK教育番組に,ピース又吉さんが出演する「今日の選択」がありました。着ていく服,歩くコース,行き先,読む本の内容,食べるもの,などなどを選んでいく番組です。

     

    皆さんも毎日,選んでいますね。

     選択する際に,決定する基準は,それぞれの価値観で異なります。

     あれにしようか,これにしようかなど,楽しい選択だけならばいいですが,悩みながら選択せざるを得ないこともあります。

     それでも,皆さんが何らかの選択をしたとき,そこには必ず「得たい結果,未来」がある。それを,是非わくわくするものにする,と考えていきましょう。

     問題,困難,課題。それも,その先にある,自分の未来への扉です。

     

     3年生で,民間企業への就職を選んだ人は,10月16日からの就職試験を迎えます。

     面接や作文,適性検査等に取り組んできた就職希望の皆さんが,全力をつくして希望を叶えられることを念じています。

     その他の3年生の皆さんも,大事な時期を過ごしていますね。また,2年生・1年生の皆さんも,今の自分をみつめながら,自分の生活リズムをどうするか,また,進学や就職,必要な資格取得などへの取組,選択を迫られているはずです。

     どのような状況でも,選択を迫られても,「豊かに生きていくために,何をしたいか」「何のため,誰のためにそれをするのか」という,生き方の基準を持てば,納得し,決意して進んでいけます。

     

     本校の『進路の手引き』表紙裏に記されている言葉。

     「思考に気をつけなさい,それはいつか言葉になるから。

      言葉に気をつけなさい,それはいつか行動になるから。

      行動に気をつけなさい,それはいつか習慣になるから。

      習慣に気をつけなさい,それはいつか性格になるから。

      性格に気をつけなさい,それはいつか運命になるから。」というのがありますね。

     学習や部活動,家庭・学校での過ごし方の中で,「良い習慣が良い心,良い考え方を育む」ことを,心がけましょう。

     今,大きな目標が仮になくても,今の自分から成長したい,豊かにしていきたい,という思いを大事にしましょう。小さな取組を始めてみる。大きな結果になる,ならないを考えてから,やる気を待ってからではなく,ルーティンとしてやっていく。

    勿論,目標がある人は,そこを目指していけばいい。

     

    余談ですが,大リーグで活躍している菊池遊星・大谷翔平選手の母校である花巻東高校野球部では,一番苦しい坂道ダッシュでも,それを面白がることができるように工夫しているそうです。チームの雰囲気を作る生徒が,「このダッシュは8回裏3-1で負けている場面で,それでも「よっしゃいくぞー」と言う場面のダッシュだ!」などと言って取り組むそうです。

    この習慣が,苦しいときでも楽しめる心を作る。逆境でも,楽しむ言葉を使い,わくわくしながらやる。その全てが,チームの空気(雰囲気)を作っていくというのです。(ひすいこうたろう・大嶋啓介著『前祝いの法則』(フォレスト出版株式会社,2018年初版)という本に紹介されています) 

     

     「有明や 浅間の霧が膳をはふ」(一茶)。春の霞に対して,秋は霧です。

     気象観測の方では,1Km以上の遠くがぼんやりして見えない場合を霧,それ以上見える場合は靄(もや)と言います。

     進路決定に対する不安は当然大きなものでしょう。

     思い悩んで気のふさぐことを「心の霧」と言いますが,自分のやりたいことを考え,一歩一歩,実現に向かってください。小さなこと,日常の選択をしながら。その結果,悩みが解決した気持ち,「拭うように晴れ」ますように。

     

     ※ 本稿は,9月28日予定の全校朝礼が中止になりましたので,当日の講話に代えて掲載します。

  • 2020年08月12日(水)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(10)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(10)-

                             校長 林  匡

    最終号として,平成22(2010)年度,創立80周年記念誌から紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    VI 出典:『創立80周年記念誌』(平成23(2011)年3月発行)

    1 時代の流れと母校(濵﨑貢第23代校長,昭和41(1966)年普通科卒,平成17(2005)年4月~平成19(2007)年3月在職)

     (前略)昭和38(1963)年は本県の高校進学率が6割に達したばかりでしたが,団塊の世代の入学とあって,生徒の急増にどの高校も学級定員や学級数の増加,学科増設で対応しました。特にこの年は指宿枕崎線が全線開通したことと相まって,頴娃高校の生徒数は1,280名に達する勢いでした。牧之内の街角には生徒の笑顔が弾け,西頴娃駅の朝夕は列車通学生で溢れかえりました。頴娃の町が最も活気に包まれていた頃でした。

     東京オリンピックを契機とした我が国の目覚しい高度経済成長は,ブルーカラーの人気がホワイトカラーを凌いでいました。この様な社会志向が工業系学科の生徒の進路幅を著しく拡大させ,その入学倍率は上昇の一途を辿るばかりでした(※1)。進取の気鋭をもった頴娃高校の当時の工業系4学科(注・電気,土木,建築,機械科)は,官公庁,国鉄,電電公社をはじめ,我が国のメジャーな企業にあまたと卒業生を排出する名門でした。本県工業高校の四天王と呼ばれた所以です。

     質と量に富んだ技術力に担保された国の高度経済成長は,国民の価値観と生活スタイルに変化をもたらし,40(1965)年代後半には人々の職業意識にはブルーカラーからホワイトカラーからホワイトカラーへの逆のうねりが生じ,高校進学の志向を専門系学科から単独の普通科系高校へ転換させました。この社会事象が頴娃高校創立以来,輝かしい歴史と実績を誇る普通科に,向かい風を煽ることになったのです。さらに,道路交通網の整備(※2),少子化や学区の拡大(※3)などによって状況は一層厳しくなりました。

     私は昭和38(1964)年に普通科に入学し,42年ふりの平成17(2005)年に母校に帰ってきました。学科の構成は普通科2学級,電気,機械,設備工業科がそれぞれ1学級,生徒数は42年前の3分の1でした。赴任当時の私に,卒業生や地域の人々の声が怒濤のように押し寄せました。「母校の開拓精神はどこに消えたのか?」,「頴娃高校のかつての実績を取り戻せ!」,「再び国立大学の合格者を出せ!」などなどです。私にはこの声を理不尽な怒号と受け流すことは許されませんでした。地域を発展させ,遠く北は樺太や満州,南は東南アジア諸国の電源開発や国土整備に赴き,天地を動かした卒業生(※4)の切なる声であると受け止めたからです。頴娃高校出身の者として,この切なる声のたとえ一部でも応えることが私の命題であると認識しました。

     赴任当時,部活動は野球(※5),ソフトテニス,剣道,吹奏楽(※6),自動車(※7),図書の各部をはじめ多くの部活動がかなりの成果を挙げていました。資格取得や物づくり(※8)においても,県内優勝や九州大会出場を果たすなど他校に秀でた活躍を見せていました。したがって最大の課題は,生徒を国立大学に合格させることでした。「進学指導に求められるのは,生徒に自己実現の意欲を掻き立たせる教師の情熱である」,私が38年間貫いた単純な信念です。これを汲み取ってくれたのが,進路主任と3年の学級担任をはじめとする多くの職員でした(※9)。さっそく始まった課外授業は,大規模の普通科高校のそれとは異質の形態です。生徒一人ひとりに張り付いた職員は生徒の心に入り込むことから始め,人の在り方生き方を語り,学問の意義や価値についても議論してくれました。次第に意欲に目覚めた生徒たち,驚くほどの集中力を見せ膨大な学習量をこなしました。勿論,彼らに笑顔の日ばかりがあった筈はありません。学習が進むにつれ教師の要求の高さと指導の厳しさに涙を流す者も出ました。受験前夜は深夜に及ぶ学習も常でした。このような学校生活を日常として1年後,彼らの学力は確実に大学入試を制するまでになったのです。この集大成として平成18(2006)年の春には,九州内外の国立大学と名門私立大学にそれぞれ数名が合格しました。この実績を当時の生徒数から割り出せば,大規模の普通科高校のそれを十分に凌駕しているとして,県内外の高校からの学校訪問を受けるほどになりました。職員が誇りにしたのは実績としての数値や割合ではありません。生徒と教師の間に繰り広げられる瑞々しい人間模様こそ教育の本質であり,それが頴娃高校に蘇ったことを誇りにしたのです。(中略)頴娃高校はこれまで地域の発展に大きな役割を果たしてきた学校です。一方,地域において頴娃高校の存在とその果たす役割は一層大きくなるに違いありません。頴娃高校と地域はどのような相補関係を保持していくのか頴娃高校の課題ではありますが,むしろ同時にこれは地域にとっても喫緊にして最大の課題であるはずです。(中略)

     生徒として頴娃高校に学び教師の最後を母校で締め括った者として,私には母校の八十周年の歴史に感慨ひとしおのものを禁じえません。頴娃高校に活気が薄れてなどしていません。頴娃高校の日常に開拓精神は,今なお健在なのです。

     地域の全ての皆さんが,頴娃高校に繰り広げられる肌理(きめ)の細かい理想ともいえる教育を,地域の高い教育資産であると認識して,地域の生徒を地域の頴娃高校に学ばせて欲しいものです。

     

    ※1 集団就職列車,高度成長期の状況など 

     鹿児島県で初めて,全国でも初めてという試みだった集団就職臨時列車が鹿児島駅から発車したのは昭和31(1956)年3月30日だった。以後,昭和49(1974)年の最終便まで毎年編成され,計14万人以上が大阪・名古屋・東京方面へ運ばれた。背景には,敗戦後の経済復興から高度成長期を迎え,工業立国が図られる中で,その労働力として若年労働者が求められた。昭和35(1960)年の鹿児島県経済振興計画でも,県農業の体質改善が図られる。この中で,職業紹介活動の強化,県外労働市場の開拓,海外移民の促進などが進められた。この影響が学校教育にも影響を与え,産業教育の推進が図られ,高校へ進学する者も,就職率のよい工業系・商業系に進み,農村地区では普通科が敬遠されたという。

     なお,中学生の進学率が就職率を追い越したのは昭和33(1958)年で,同46(1971)年には80%を越える。また,集団就職者は昭和39(1964)年をピークに減少していく。県外就職者の多くは帰ってこなかったが,昭和30年代の県民所得からは,県民分配所得に比べて個人所得が常に上まわること,県外就職者からの送金などによる送金所得がその大部分を占めていた。

       (参考文献『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)

    ※2 道路交通網の整備

     例えば『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)には,「昭和から平成への架け橋,瀬平橋建設工事」の写真(昭和63(1988)年頃)が収められており,その解説には「かつての国道は,麓,鬼口集落を過ぎて開聞方向に進むと,大きく左に迂回していた。円滑な進行のために,昭和62(1987)年度から平成2(1990)年度にかけて瀬平橋の建設が始まった。」とある。なお,同書には,昭和40(1965)年代の頴娃町三俣商店街の風景も収められている。(三俣は,文字どおり,三差路交差点を中心にして,昭和以降発展した町。頴娃高校の前身である高等公民学校もこの地において,昭和6(1931)年創立された。三俣商店街は,昭和44(1969)年の町役場移転(8月新庁舎開庁)や県道の整備に伴い発展した。)昭和49(1974)年には,国道226号から頴娃小学校に向かう三差路に,歩行者の安全確保のため,手動交通信号機が設置され,神事が執り行われた時の写真もある。

    ※3 戦後,新制高校は,始め教育委員会法(1948-56年)に基づき,総合制と男女共学,学区制の導入が進められた。自治体(市町村)に一校とされていたので,例えば,鹿児島市にあった県立高校は,鹿児島工業・二高女・一高女・二中・一中を合併して鹿児島高等学校と称し,順に一部から五部までの部制であった。しかし卒業生を1回出した後,三部と五部,二部と四部が合併し,鶴丸高等学校,甲南高等学校に,一部は男子校の工業学校となる。           (参考文献『鹿児島県の近現代』)

     鹿児島県では「職業教育と普通教育を統合して,地域に根ざして総合的な教育を実施していこうとする地域総合高等学校という理念は実現しにくいものをもっていた」こと,地域総合制の理念に基づく学区制の実施は1950年度から実施(普通科課程は学校ごとに学区制をつくり,職業科課程は全県からとして学区制を設けなかった。)されたこと,一高等学校一学区制の方式は6年しか続かず,実施から間もなく撤廃の意見が出され,昭和31(1956)年4月から中学区制に変わっていたこと,学区制も実質的には市郡単位にしたものが多く,広域的なものであったこと,などが指摘されている(神田嘉延「町村立高校の形成と勤労青年の学習-鹿児島県の事例を中心として-」『鹿児島大学教育学部研究紀要』教育科学編第48巻,1997年)参照)が,通学区の広域化は,地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法,1956年制定)に基づき全国的に見ても,多くの県で進んだとされる。1960年代後半以降,普通科高校の増設により学区内の学校数が増加し,大学区化傾向が続く。1970年代にかけて,「高校進学率は一挙に90%を突破するところとなり,高校受験がすべての中学生を対象とするようになったのである。この時期の政策意図としては高卒の労働力養成機関として職業科の増設を望んだが,住民は大学進学に有利な普通科高校の増設を期待した。そうした軋轢の中で各県は高校増設に取り組み,主に普通科高校の量的拡大が図られた。その際に広域に設定された通学区内に多くの普通科高校が併存することになり,交通手段の発達とともに序列化が進み学校間格差が生まれていったのである。」(水上和夫・野﨑洋司「高校通学区制度に関する研究」『神戸大学発達科学部研究紀要』第6巻第1号,1998年)

    ※4 『創立80周年記念誌』及び『創立七十周年記念誌』(2001年3月発行)から,卒業生の活躍事例を以下に紹介する。

    (1) 海外

    ○ 企業就職・退職,大学卒業を経て建設コンサルタントに入社され,メコン河開発(国連と世界銀行が組んだナムグムダムプロジェクト)に参加,ジャングルの中,マラリヤに罹患された苦労もありながら技術支援に当たった経験を基に,海外に出て異文化に触れ友人をつくろうと寄稿された東望氏(昭和36(1961)年土木科卒,『創立80周年記念誌』所収「海外の仕事で学んだこと」)

    ○ 土木関係の仕事をされ,20代後半に青年海外協力隊に応募し,アフリカのタンザニアに2年余の間,土木施工の隊員として派遣され道路建設プロジェクトに参加された,和田賢志氏(昭和51(1976)年土木科卒,『創立80周年記念誌』所収「世界へはばたけ」)

    (2) 国内

    ○ 戦前,華北電信電話株式会社に就職され天津で勤務,戦後,厚生省(現・厚労省の前身)本省の採用試験に合格し,以後,頴娃工業学校の校訓「誠と熱」(いかなる問題に直面しようとも誠意と熱意を持って対処すれば必ず道は開ける)を道標に,福祉行政で老人福祉法制定や老人医療制度の制定に携わり,身体障害者福祉法改正では提案責任者として取り組まれたほか,国民年金法による障害基礎年金適用の課題解決に当たったことなどの御経験を寄稿された池堂政満氏(昭和18(1943)年電気科卒,『創立七十周年記念誌』所収「母校の教訓を心の支えに福祉に取り組み五十年」。池堂氏は『創立六十周年記念誌』(1991年3月発行)にも「在学時代の思い出」として寄稿されている。)

    ○ 頴娃高校吹奏楽部創部時の生徒で,映画・放送・演劇界から大学教授となり,作曲家,芸術情報研究で活躍され,三州倶楽部監事や関東鹿児島県人会連合会副会長なども歴任された新徳盛史氏(昭和31(1956)年普通科卒,『創立80周年記念誌』所収「母校の傘寿で思うこと」)

    ○ 企業の研究所で海水淡水化装置や各種電池など新製品開発,石炭の利用技術や排ガスからの窒素酸化物除去などのエネルギーや環境関係などにも当たられた西昭雄氏(昭和36(1961)年普通科卒,『創立80周年記念誌』所収「回顧50年とこれからを思う」)

    ○ 企業就職後,学士資格を取得し国鉄に採用され,大型プロジェクト工事や民営化(JR),その後も鉄道電気設備を中心に様々な企画運営等に当たられた齊藤功氏(昭和38(1963)年電気科卒,『創立80周年記念誌』所収「記憶・実践・期待」)

    ○ この他にも,県外企業,公務員など様々な方々が活躍されています。

    (3) 県内

    ○ 警察署使丁から教員検定試験を受け小学校教員,校長の道を歩まれた電気科第1回卒業生の園田實則氏(昭和8(1933)年卒,『創立80周年記念誌』所収「創立80周年に思う」)をはじめ,この他にも教職に就き,本校を始め活躍された方や公務員として実績を挙げられた方々

    ○ 小児科医として活躍され,鹿児島県小児科医会会長も務められた鮫島信一氏(昭和29(1954)年普通科卒,『創立七十周年記念誌』所収「只今65歳「子育て支援」に頑張っています」)

    ○ 九州電力を経て,昭和54(1979)年,40歳で県議会議員に当選され,以後5期20年県政に関わり,平成11(1999)年退任された後,高齢者福祉事業に取り組まれた松村武久氏(昭和34(1959)年電気科卒,『創立80周年記念誌』所収「人生はドラマなり!」)

    ○ たばこ・米・甘藷等の農業経営と自動車学校勤務について寄稿された福留順一氏(昭和36(1961)年農業科卒)

     このように,周年記念誌からだけでも,挫折や逆境にも負けず各方面で,活躍された先輩達が確認できます。皆さんは思いを込めて,後輩たちへのエールを送ってくださいました。

     例えば,高校時代からマンガを描き始め,2年生の時に新人賞,3年生の時にマンガ賞を受賞し,星のカービィなどの作品で活躍されているマンガ家の川上ゆーき氏(平成21(2009)年設備工業科卒)からは,「やりたいことをやってやろうじゃありませんか。ただ,前だけを見て生きていけばいい」との励ましをいただいています。(『創立80周年記念誌』所収「マンガ」から)

    ※5 野球部

     塗木哲哉氏(平成11(1999)年4月~平成18(2006)年3月数学科在職)指導のもとでの頴娃高校野球部の活躍は,同監督の「7年間の軌跡」(『創立80周年記念誌』所収)に詳しく書かれている。塗木監督は「自分の可能性を信じ,決してあきらめないで人生を過ごしてほしい」という思いから,部日誌表紙に「可能性への挑戦」と書かれ(これは御自身にも言い聞かせていたのだと後に回顧されている。),平成12年度から監督となり,生徒の感情と意識を高めようと,初めの関西遠征で甲子園を生徒に体感させたという。

     塗木氏の尽力と生徒の意識向上により,野球部は平成13(2001)年に3年ぶりのベスト16入り,翌14(2002)年第110回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選では8年ぶりの県大会ベスト8,5月の第44回NHK旗大会でもベスト8(準々決勝の樟南戦では全校応援実施),10月の第111回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選では,優勝した平成5(1993)年以来,9年半ぶりの県大会ベスト4(秋季大会初)という成果を挙げる。

     これらの結果,第75回記念選抜高等学校野球大会21世紀枠の鹿児島県推薦校に選出される。平成15(2003)年の,第112回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選もベスト4,10年ぶりの九州大会に出場し,県勢唯一のベスト8となる。部員数は増加し,最大時70名に及んだ(全校男子生徒の5分の1)という。

     なお,塗木氏は,進学指導についても記載されている。2回目の1年生普通科担任時,国立大学合格者を出したいという思いを深くされ,生徒・教職員に働きかけたこと,結果,4名の合格者を出したこと,御自身がされたことは「受験する気持ちを作ってあげること」であり,職員が「みんなで学校を良くしよう,盛り上げようと思っていたと思います」と記されている。

    ※6 吹奏楽部

     脇兼光氏(平成11(1999)年4月~平成19(2007)年3月芸術科(音楽)在職)は,「私が赴任した時には吹奏楽部員はほんの数人で,ほとんど休部状態でした。楽器も古いものが少ししかなく,部活動としてはできない状態でした。(中略)その後平成14(2002)年から吹奏楽部経験者が入部してきて,吹奏楽部が10人ほどで再スタートしました。楽器も順次購入していただきました。それまでテープをながしていた入学式や卒業式,そして体育祭等の学校行事,さらには鴨池球場での野球の全校応援で吹奏楽の生演奏ができるようになりました。その後老人ホームや保育園で訪問演奏も行い,施設の方々に喜んでいただきました。平成17(2005)年と18年には少人数でしたが定期演奏会を開催しました。(中略)終了後の反省会で生徒たちの本当に喜び満足げな表情を見た時,大変だったけれども開催して本当に良かったと思いました。多いときでも20人弱の部活動でしたが貴重な思い出の一つになりました。」と寄稿されている(『創立80周年記念誌』所収「思い出あれこれ」)。

    ※7 自動車

     機械部の活動である。『創立80周年記念誌』所収の,吉永和人第21代校長(平成12(2000)年4月~平成14(2002)年3月在職)「年年歳歳その2」に,「当時,本校は県下唯一,「エコカー」を研究・製作しておりました。権堀先生,吉元先生の指導のもと,毎年,全国大会で優秀な成績をおさめておりました。」とある。

     これは,権堀栄一郎氏(平成8(1996)年4月~平成13年(2001)年3月機械科在職)による「燃費1000km/リットルを目指して」(『創立80周年記念誌』所収)によれば,「「1リッターのガソリンでどこまで走れるか」という無限の可能性をテーマにしたエコノパワーレースへの挑戦」であったという。契機は,権堀氏が機械部顧問となったことと,県の「魅力ある高校生活づくり」事業への応募だったことが記されている。

     権堀氏が担任したクラスの生徒に声を掛けたところ「話が広がり機械科だけでなく,電気科と設備工業科の生徒も巻き込んで燃費1000km/リットルへの挑戦が始まりました」。1年目は車体製作で試行錯誤され,鹿児島市の自転車専門店の協力で,無料で車輪を作っていただいたこと,地元のバイク店では「レアな部品を無料で提供して頂いただけでなく,翌年には九州大会にまで応援に来て頂きました」という。

     この2年目の夏,熊本県で開催された九州大会に初出場し,参加52台中362km/リットルの記録で第7位という快挙を成し遂げ,翌年にはエンジンを改良,九州大会で457km/リットルの記録更新,栃木県で開催された全国大会に初出場し,479km/リットルの自己最高記録を出したものの,全国でのものづくりのレベルの高さもまた実感されたとある。

     4年目には新たな車体・エンジン製作に取り組み,毎週日曜日に知覧自動車学校の教習コース(無料で貸していただいた)で練習を重ね,平成13(2001)年の全国大会では634km/リットルの記録更新を果たした後も,機械部の取組は続き,翌年には800km/リットル以上の好記録を出したという。

    ※8 ものづくりについて

     福永勇二氏(平成11(1999)年4月~平成18(2006)年3月電気科在職)「在職時代の思い出」(『創立80周年記念誌』所収)には,「頴娃高生の底力を発揮する出来事」として,平成16(2004)・17年,高校生ものづくりコンテスト電子回路組立部門に2年連続優勝し,九州大会に出場できたこと,県大会に出場したもう一人の生徒も,2年連続3位入賞という快挙を成し遂げたことを挙げられ,この県大会は,平成15(2003)年に始まり「当初は難しいと敬遠されていた部門で取り組む生徒が少なく,我々指導する側も何もかも初めてで,回路の動作を理解したり電子部品の調達など苦労しました。また,コンテスト課題も平成17(2005)年から設計・製作する回路に加えて,制御対象回路を組み合わせたコンピュータシステムを作り,一つの動作をするプログラムを完成させるという新しい分野が取り入れられ,大幅な課題変更に戸惑いました。しかし,やると決めたら難しい課題でも果敢に挑戦する生徒達と,試行錯誤しながら放課後遅くまで取り組めたのも,共に開拓精神の頴娃高魂が宿っていたからだと思っています。」と記されている。

     小野通男氏(平成13(2001)年4月~平成17(2005)年3月機械科在職)「80周年おめでとうございます」(同)にも,「自分自身も機械部としてエコカーやロボット競技に参加させて頂きました。機械部の生徒は,特に優秀で,旋盤や溶接機など自由自在に使いこなす技術屋さんでした。大会等近づくと,工場に生徒と寝泊まりしてエコカーやロボットを製作していました。今想えば,頴娃の生徒の努力やがんばりは,すばらしいものだったと思います。自分たちで,いろいろなアイデアや工夫を出し合って,九州大会や全国大会に出場しました。(中略)先生方も研究熱心で,指導力の優れた方達ばかりでした。スターリングエンジンを作ったり,溶接でいろいろなものを作ったりしました。」と記されている。

    ※9 稲本麻里氏(平成12(2000)年4月~平成21(2009)年3月国語科在職)の「頴娃高校の思い出」(『創立80周年記念誌』所収)に「(9年間の在職期間)中でも印象深いことの一つは,長く途絶えていた国公立大学進学者をだすという悲願が達成されたことである。」として,この目標達成に,まず生徒指導と授業を大事にする雰囲気,学習に向かう姿勢づくりなど基本的なことに取り組み,長い時間を要しながらも,普通科の悲願として継続され,生徒・職員が「一つの目標に向かって一丸となって向かっていくチームのような雰囲気ができていた」結果,平成18(2006)年春に達成されたことが記されている。

    ※10(編集後記中)胸像-井上知治氏と池田清氏の胸像

     井上知治氏(明治19(1986)年7月~昭和37(1962)年9月)は,大正6(1917)年東京帝国大学法学科卒,昭和5(1930)年に衆議院議員に初当選以来,4期連続当選。昭和17(1942)年,大政翼賛会の推薦にもれ落選したが,同21年の総選挙で当選,以来3期連続当選。この間,昭和22(1947)年2月に,帝国議会最後の副議長に就任,同23年10月には国務大臣・賠償庁長官に就く。昭和28(1953)年4月に参議院議員当選,次回の同34年の参院選は老齢を理由に辞退する。

     井上氏の胸像は西頴娃駅前に建立された。このため,昭和40(1965)年10月に,旧頴娃町有地と県有学校敷地の交換がなされている(頴娃町牧之内中諏訪原)。現在,頴娃高校西門手前に池田清胸像と並んである。

     池田清氏(明治18(1985)年2月~昭和41(1966)年1月)は,大正2(1913)年東京帝国大学卒,警察官僚として警視庁警部,大阪府警察部長を歴任し,昭和11(1936)年北海道長官,大阪府知事を経て,同14年9月,第46代警視総監となる。後に海南島司政長官となり,昭和27(1952)年10月,衆議院議員に初当選,2期2年8か月,代議士として活躍した。

     池田氏の胸像は,昭和43(1968)4月,建設に当たって校地交換がなされ,頴娃高校正門東側(頴娃町牧之内三俣下)に建立された。その後移され,現在は西頴娃駅から頴娃高校西門に向かう途中,井上知治胸像の右側に並んで置かれている。

    (参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))

    【編集後記】

     令和2(2020)年4月,鹿児島県立頴娃高等学校に着任しました。新型コロナウイルス感染症対応での臨時休業明け,なんとか始業式,入学式を行うことができ,少し落ち着いた頃に,広い敷地の学校内外に現存する記念碑や胸像(※9)などについて,その来歴や意味に関心を持つようになりました。直接碑文などを確認しても,磨滅などで判読が難しいところもありましたが,過去に発刊された創立記念誌の各所に関係の文章が記載されていることや,既刊の『頴娃町郷土誌』などの書籍でも補足できると気付きました。

     今年度,頴娃高等学校では,創立90周年記念式典(11月)・事業等が予定されていました。しかし,新型コロナウイルス感染症対応として,4月下旬から再び本県公立高等学校の臨時休業が行われます。学校再開後,その後の全国的な状況を踏まえ,創立90周年記念事業実行委員会において,記念式典等の開催延期が決定されました(今年度予定されていた県内公立高校の記念式典関係は軒並み延期されました)。

     このため,今年度入学した生徒,新たに着任した私を含む教職員をはじめ,在学生・教職員が,学校の歴史や,校是「開拓精神」の由来や,関係職員・卒業生等がどのような想いでこの場で過ごし,卒業後,本校での学びを基に,どのように活躍され,苦難を乗り越えたのかといったことなどを振り返り,知り得る機会も延期されることになります。

    この「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」シリーズをまとめようと考えた契機の一つは,現在本校に関わる生徒・教職員他多くの方々にとって,改めての参考になればと考えたからです。

     なお,私事ながら,記念誌の中に,頴娃高校で勤務された教職員に,私が初任校(錦江湾高校)社会科で御世話になった山田尚二先生(昭和28(1953)年4月~昭和38(1964)年3月社会科在職)の文章があり(『創立六十周年記念誌』所収「初任校・頴娃高校の思い出」と『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)所収「初任地の思い出」),懐かしく拝読しました。回顧には,当時の教員生活や生徒の指導,放課後の卓球や写真,囲碁にも打ち込んだこと,勤務10年目に小中学校の副教材用の頴娃沿革史の執筆を依頼され,この経験から郷土教育,文化財保護を考えるようになったこと,古文書による地域の歴史研究に関わっていかれたことなども書かれています。

     山田先生は,本校から大島高校,甲南高校に勤務され鹿児島県明治百年記念館(後の鹿児島県歴史資料センター黎明館)建設調査室勤務等を経て,研究者として,特に西郷隆盛研究で独自の位置を築かれました。私が,鹿児島県歴史資料センター黎明館にて学芸員として勤務した時期には,鹿児島市の西郷南洲顕彰館長として活躍されていました。頴娃町が編纂刊行した『頴娃郷土誌』,『頴娃郷土誌改訂版』の近世部門も執筆されています。

     さて,「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」は,この第10回で最終回とします。なるべく多くの方々の文章を紹介したいと考えましたが,十分に御紹介できないこともありましたこと,関係者の皆様には御海容を賜りますようお願い申し上げます。何らかのお役に立つことがあれば幸甚です。ありがとうございました。

  • 2020年08月12日(水)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(9)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(9)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立70周年記念誌記載の文章を中心に,学校の様々な行事,生徒の活動に関することなどを紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    V 出典:『創立七十周年記念誌』(平成13(2001)年3月発行)

     

    1 回想(雪丸重光氏,昭和42(1967)年機械科卒,昭和46(1971)年1月~昭和62(1987)年3月機械科在職)

     (前略)私の高校3年間の大きなウエートは,陸上部活動でした。3年間一生懸命取り組みましたが厳しいものでした。「足まめは練習で潰せ」の通り,足底にはいくつものまめができました。毎日ぐったり疲れて夜の坂道を1時間余り自転車を押して帰るのは,やはりきついでした。合宿も8月と10月に1週ずつ2回あり,8月は暑い中,10月は授業を受けながらでしたのでかなりハードでした。

     長距離部員が多く7名の駅伝メンバーに入るのは大変でしたが,何とか1年生の時から出走できました。市郡高校駅伝は,頴娃高から指宿商業高までの国道コースで行われ3年間とも優勝でした。県高校駅伝は,市営鴨池陸上競技場から喜入町までの国道を折り返すコースで行われ,55チーム中9位・9位・8位と公立高校の中ではだいぶ健闘していたと思います。

     赴任して早速陸上部顧問となり,転勤するまでの16年間部員と共に過ごし,その間に県大会・南九州大会で6位入賞して全国大会出場の選手も出てきました。夏合宿の最終日は,大野岳(※1)往復が慣例でした。(中略)

     校内マラソン大会は,創立記念日に合わせて5月に実施され,生徒時代は粟ヶ窪小学校グラウンドまでの折り返しコースでしたが,その後48(1973)年には11月実施に変わりコースも開聞町入野折り返しとなりました。更に52(1977)年には春向~木之元~九玉小裏から国道へ出る周回コースになりました。

     クラスマッチも盛んで,ソフト・サッカー・バレー・バスケット・テニス・ハンド・ラグビー・バドミントン・卓球・柔道・剣道・相撲・創作ダンス等多種目に渡り,(中略)中でもクラス対抗駅伝大会は,学校~物袋~水成川のコースで実施され,職員も2チーム作り対抗意識を燃やし(中略)盛況でした。その後57(1982)年に校内グラウンド中継の周回コースに変更になりました。

     体育大会は,科対抗から地域対抗となり東部・西部・北部対抗戦でしたが,殆どこの順位でした。49(1974)年度から学年対抗に変わり,3年生・2年生・1年生の順位でしたが,61(1986)年度は2年生が1位になりました。

     一日遠足は,花瀬海岸・大野岳・戸柱公園(※2)の順で実施され,全員徒歩遠行となり,各科毎の特徴ある自己紹介等があって就職してからの歓迎会等で応用したら喜ばれた話なども聞かれましたが,問題もあるとのことで衰退していきました。現地解散だったので,陸上部員は走って帰校するのが慣例でした。(中略。56(1981)年からPTAバレーが始まったこと,同窓会館建設・名簿作成の苦労などを記載されている。)

     現在私は夜間定時制高校に勤務し,昼間働き夜学ぶ様々な悩みを抱えた生徒たちと接しています。また先日は第1回車椅子駅伝大会に審判として参加しました。そして今シドニーでパラリンピックが開催されています。これらを眼にする時やはり頴娃高校生は恵まれている分,一人一人が学校構成者としての自覚を持ち,努力して学校全体を盛り上げより良い人生を送れるよう頑張って欲しいと思います。(後略)

     

    2 思い出の一コマ(原田勇氏,昭和39(1964)年電気科卒,昭和39年4月~昭和58(1983)年3月電気科在職)

     (前略)当時はまだ自家用車は数少なく,昭和三十六(1961)年四月入学した頃は,通学生は国鉄バスで通っていたような気がします。その頃は道路状態は悪く(中略)曲がりくねり未舗装のでこぼこ道でバスや車が通った後は砂ぼこりでした。また西方面では枕崎より遠くの坊津町方面から二時間もかけてバス通学し,知覧川辺や池田方面からは南鉄バス(現鹿児島交通)や自転車通学で朝早くから通学している生徒もいて,よく頑張っているなあと感心したものでした。その後国鉄のレールが枕崎まで敷設され(注・昭和38(1964)年10月開通),通学生が楽に通学出来るようになりました。(中略)

     三十六年頃西門近くの道路沿いに平行に平屋建て瓦葺きの電気科の実習室があり,運動会の頃は先輩から大声で怒鳴られながら校歌や応援練習の声だしをしたものです。また,運動会は当初科対抗で応援席も材木や竹などを使って階段状のやぐらを作り応援したものです。

     その実習室の隣の東側にモルタル作りの電気工事実習室,高圧受電室(当時は実習設備でした)大理石受電盤三千三百V受電と配電盤丸形計器,柱上変圧器,遮断機,大きなうなり音の直流電源用大型電動発電機等)があり,これが無ければ頴娃高校は動かないと言うほどの威厳さを誇っていた。またモルタル作り電気工事実習室はその後現在の電気機器実習室北側(当時は農業科の施設が有りました)までグラウンドを通って道板とコロやジャッキを使い移動され,現在も工作工事実習室として残っている。その後,産業教育予算が令達され見違えるように施設,設備が充実していきました。電気機器実習室や製図室,電子工学実習室などの施設が建てられて実習室の移動があった頃です。電気工事実習ではこの部屋の中に直径三十cm程の木柱の電柱が建てられてあり,その木柱に昇柱器と柱上安全帯を付けて登り,電柱の上で腕木や硝子と電線を取り付けて配線する,外線工事実技実習を行ったり,外庭の草むらに穴を掘り長さ五m程の電柱を建てる建柱実習を行った記憶があります。その他専門教科は電磁事象(いまの電気基礎)電子(真空管からトランジスタ全盛期),通信,発送配電,機器,材料,法規等があり,製図等は三時間,実習も四~五時間みっちり行われていました。現在のように工業数理や工業基礎,情報基礎等の教科名は無く,その時間は実習や製図時間に割り当ててありました。

     受電室は後ほど六千六百V受電となり,現在の位置県道青戸線沿いに移りました。ここには定時制農業科のガラス温室があり綺麗なサボテンや温室の観葉植物がありました。

     電気と言えば強電中心でしたが「開拓精神」のもと,先輩諸氏の勉強への意欲は強く当時(一学級)の先輩は大多数が電力会社勤務と大手の有名電気企業が就職先でありました。その頃県内の殆どの工業高校に電気科が設立され頴娃や鹿児島工業に追いつけとハッパをかけてきました。(中略)二千年の節目を迎えIT時代を担う生徒の皆さん,他の学校に追い越されぬよう日々奮闘して勉学,部活動,体力増強に励み,頴娃の伝統を引き継いで欲しい(※3)と思います。(後略)

     

    3 『我が青春』頴娃高校(永谷岩男氏,昭和44(1969)年土木科卒)

     (前略)その頃は,経済成長の真っ只中で,学校を卒業した者は,職と現金収入を求めて,都会へ都会へと就職し,上京,上阪して行った。頴娃高は,優秀な学校で,九大や鹿大などへ進学する者もおり,工業科にしても,東京都庁,石川島播磨重工,日産,トヨタ,大成建設,キャノン,などなど,そうそうたる就職先であった。神奈川県庁に勤めながら,関東学院大学へ進んだ私も,頴娃高卒であるという誇りをもって,仕事に学業に,励んだものである。(中略)

     当時は,瀬川文泉堂が東門のところにあり生徒たちにとっては,まさにたまり場であった(※4)。又,校内に購買部があり,休み時間には,にぎわったものである。校内食堂も,東門の近くにあったが,そこはおもに工業科の上級生が陣取っていて,女子生徒には,遠い存在だったのだそうである(注・永谷氏の御令室も頴娃高卒業生)。(中略)

     一年のときに,生徒会役員をすることになった私は,三年までかかわることになり,毎朝,汽車通学の生徒の交通整理と車内誘導を,眠さと戦いながらやり通し,後々自信につながっていった。(中略)三年連続,文化祭の実行委員長として,連日深夜まで,夢中でかけずり回ったことなど,やはり一番の思い出は,生徒会役員としての三年間のあれこれである。

     私の良き青春時代を育んでくれた土木科がなくなってしまい(※5),近くに存在するのに,訪れにくくなってしまった感のするのは,寂しい限りである。

     

    4 野球部九州大会初出場(森口 洋氏,平成元(1989)年4月~平成8(1996)年3月保健体育科在職)

     平成5(1993)年春,第92回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選準決勝戦は,県立鴨池球場において両校全校応援の大声援のもと鹿児島高校対頴娃高校の白熱した試合となっていた。この試合に勝てば決勝戦進出,さらに九州大会出場が決定する。

     振り返ると,平成元年,前任地加治木高校から中古のバッティングマシーンと共に赴任してきた。早速,電気科・機械科の先生方のご協力のもと,無事修理に成功してマシーンバッティングができるようになった。

     次はグラウンド作りだった。内野をスコップで掘り返し石ころを取り除く作業,慣れない手つきで手のひらには大きなマメを作りながら,部員全員で立派な内野グラウンドを作り上げた。グラウンドを見つめては,当時の先輩達に底知れぬ期待を感じたものだった。

     その年の秋の九州大会県予選でベスト8に進出。準々決勝では強豪の鹿児島商業に9回裏ヒットあと一本でサヨナラ勝ちという戦いだった。二年生は試合当日が修学旅行の出発日と重なったが,試合に全てをぶつけ見事な戦いをしてくれた。(中略)

     保護者の反省会はいつも大いに盛り上がり,子犬の名前まで“ベスト8とえいで,エイト君”と決めてもらった。現在エイト君は高校前のスポーツ店でのんびりと暮らしています。

     平成3(1991)年春,先輩達のおかげで頴娃という名前で相手と戦えるチームになっていた。投打のバランスのとれた新しい頴娃野球ができ,ベスト8に進出したが準々決勝戦ではまたしても鹿児島市内の鹿児島商工(注・現樟南高等学校)に,NHK選抜大会では出水中央に,夏の大会は二回戦で鹿児島実業に敗れてしまった。「選手個人の力は劣ってはいない」と思うが勝てない,当時の私を高校野球関係者は,エイト監督と呼んでいた。“鹿児島市内勢を倒す”このことが私の最大の課題となり,頴娃野球の打力と精神力を更に高めるために,保護者会にお願いをしてバッティングマシーンを購入していただいた。打力向上策としては,早朝の練習においてティバッティング200本を義務づけた。この時期には揖宿郡内・枕崎地区からも優秀な選手が頴娃に集まりだしていて部員数も増え戦う戦力が整いつつあった。

     平成4(1992)年春,ベスト16。NHK選抜大会出場。秋,ベスト16とチームが変わっても安定した成績が残せるようになっていった。

     いよいよ平成5(1993)年の春,初戦(注・二回戦。南種子高校)いきなりのピンチ,先発投手のエースがオーダー交換後に腰痛発覚。一球目にスローカーブを投げてデッドボールにして交代だこんな指示は初めて出した。ところが,その一球目は三塁打を打たれて交代,代わった投手が三塁ランナーを牽制でアウトにしてなんとか初戦突破。三回戦では,シード校鹿屋に1点差勝ち,四回戦では,めったにしないスクイズも決まり松陽に勝ち,準々決勝では打線が爆発して武岡台を破りベスト4に進み,いよいよ準決勝戦。全校生徒の応援(※6)のもと,4対4で迎えた延長11回表,代打には腰痛の回復したエース。投げられない悔しさをバットにぶつけタイムリー二塁打,1点勝ち越し,その裏を抑え,鹿児島を破って決勝進出,悲願の九州大会出場決定。決勝戦では,鹿児島玉龍を6対1で破り,高野連創設以来初めて郡部からの優勝を勝ち取ることができた。

     この年の3年生25名は,入部後一人の落伍者もなく先輩達から引き継いだ伝統を後輩達に指導しながら新しい頴娃野球を作ってくれた。特に,試合にはほとんど出番がなく三塁コーチャーの役割をみごとにこなし,部員63名を素晴らしいチームにまとめてくれた主将の外薗勝君には感謝したい。

     学校関係者,保護者会,地域の方々,全校生徒の温かい励ましのもとで頴娃高校野球部が九州大会に初出場(※7)することができたこと,また,私自身の課題の鹿児島市内勢を倒すことができたことに深く感謝しております。(後略)

     

    ※1 大野岳(465.9m)はトロイデ型の火山で頂上まで登山道路がある。自然観察,植物採集,ハイキング,キャンプ場として格好の場所とされ,山頂一帯には灌木群,クマ ザサなどが自生する。タムラソウ,ヒゴスミレは北方植物自生の南限とされている。昭和63(1988)年度には,生活環境保全林整備事業が実施され,植樹をはじめ遊歩道の整備がなされた。  (参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行)1990年)

    ※2 頴娃町域東南部の海岸平野前面は小規模な浜堤になっており,防潮林が植林されている。かつては地曳き網業が盛んだった。砂鉄の鉱床を胚胎しているので,江戸時代末頃から明治時代,製鉄業の原料として採取された。昭和27(1952)年,原口金属鉱業・東邦金属頴娃鉱業所が進出して,前原海岸・高取海岸・馬渡海岸で機械採取を始めた。頴娃高校電気科を昭和29(1954)年に卒業された坂元喜久治氏「授業料500円の時代」(『創立80周年記念誌』(2011年)所収)には,「頴娃の周辺の様子ですが,昭和33(1958)年から36年まで鳥(ママ)取浜周辺で東邦金属の砂鉄の採取が始まり,私も電気係で入社しました。従業員が60人でした。当時,砂鉄の売上高は頴娃町の予算より高かったです。(中略)電気使用量も当時,揖宿郡の家庭電気使用量を上回っていたのです」とある。昭和36(1961)年,旧頴娃町は海岸線の保全計画を立て平成6(1994)年までに防波堤を完工している。

     瀬平海岸は海食崖や岩礁がある。大正5(1916)年,頴娃・山川間の県道が開道するまでは「瀬平渡り」といい,海に突き出た岩と岩の間隙を,波しぶきを浴びながら跳んで渡る交通の難所だったという。また,別府海岸の海岸線は屈曲に富み奇岩・岩礁が散在している佳勝地で,戸柱・番所鼻からの景観が素晴らしい。(参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行)1990年)

    ※3 同じ創立70周年記念誌に寄稿された,鹿原徳子氏(旧姓祝迫,昭和41(1966)年普通科卒)は,この当時北海道登別市市議会議員(三期目)。市議会議員出馬が新聞報道された日に夫を亡くされ,その後,初当選をされた。以来10年間,男性中心の社会で努力活動を重ねられ,三人の娘さんを社会人として育てたことを記された上で,

     「振り返って思えば,私は就職も,結婚も,議員になる時も,全て,人生の選択の時,自分の意志で決めてきました。自分で決めた事は,全て自分の責任ですから,目的に向かって全力投球あるのみです。「運命」は自分自身で切り拓いていくものだと思います。まさに,頴娃高校の「開拓精神」そのものです。大切なのはプラス指向です。いつまでも過去を引きずらないことです。今は,女性も男性と同じように,実力さえあれば社会的に重要な立場になれる時代です。在校生の,特に女生徒の皆さん,人生はあなた自身のものです。積極的に,自分の意思で運命を切り拓いて行って下さい!!」とのエールを送っていただいた。

    ※4 社会に出てからの悩み,苦しみの中で「自分にいつも勇気をくれたのは,頴娃高校の『開拓精神』の4文字であった」という斉藤耕太郎氏「わが人生に頴娃高あり」(『創立80周年記念誌』(2011年)所収)(昭和50(1975)年普通科卒)の同文中にも,「頴娃高校といえば,切っても切り離せないのが瀬川文泉堂。当時は頴娃高の裏門のところにあったが,今は正門前に移った。(中略)そしてもうひとつ,西頴娃駅前のあさつゆ食堂のチャンポンが美味しくて,今でも定期的に食べに行っている。」と,頴娃高校周辺の生徒にゆかりのある店舗について記されている。

    ※5 土木科は,昭和51(1976)年募集停止となる。(第6回注7参照)

    ※6 「4月13日,花瀬海岸への一日遠足を急遽変更,バス十台を連ねての鴨池球場での全校応援となりました。鹿児島高校は全校生徒二千四百人,対するわが頴娃高校は七百人,しかし,試合も応援も負けません。」(『創立七十周年記念誌』所収,第17代校長(平成3(1991)年~同6年在職)上床光弘氏「伯楽と千里の馬」)。全校応援はこの翌日の決勝戦でも行われ,千名を越える鹿児島玉龍高校相手に生徒達が「校歌を思い切り歌い,腹の底から声を張り上げてエールを交換し,即席の応援のウェーブも実に見事」だった。

    ※7 九州大会では,1回戦で長崎の島原高校に勝利し,2回戦で熊本の城北高校に敗退したものの,九州地区ベスト8に入る。

     

     いかがでしたか。この70周年記念誌には,これまで紹介してきたような,先生方や先輩諸氏の,かつての御苦労や,70周年記念式典の行われた平成12(2000)年当時の御活躍の記録が多数掲載されています。

     この他,篠原信幸氏(昭和53(1978)年~同61(1986)年建築科在職)は,「思い出」として,在職中の悲しい出来事として,生徒の単車交通事故があり,そのために学校では,毎月1回のノーカーデー(その日は生徒も職員も単車や車に乗らない日と決められた)に取り組まれたこと,そして「今でも,あの頃と同じ緑色のヘルメットをかぶって単車にまたがっている頴娃高校生を見ると,あの頃を思い出します。」と記されています。

     生徒の安全と安心を願う気持ちは,以後も変わらず本校に受け継がれています。

     

     さて,次回でこの「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」シリーズも10回に及びます。最終号として,平成22(2010)年度,創立80周年を記念して平成23年3月に発行された記念誌から紹介します。お楽しみに。

  • 2020年08月11日(火)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(8)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(8)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に,部活動のことなども紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    IV 出典:『創立六十周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)

    4 回想(京田薩夫氏,昭和23(1948)年4月~昭和36(1961)年3月電気科在職)

     (前略)着任当時学校は敷地内に頴娃高校,頴娃工業高校,家政女学校,今和泉高校分教場となった家具科,村立定時制高校としての農業科,家庭科,建築科それに頴娃中学校の一部と雑居の状態でした。工業科は工業学校が戦災で焼失し,その跡地に木造平屋造りで廊下は板張りでなく土間で,内側の窓は障子,教室の出入り口も障子張りの引き戸で出来ており,学期毎に障子の張り替えをしていました。電気科の実験室は使わなくなった村立の乾繭倉庫(※1)をそのまま一階を強電,二階を弱電関係の実験室,三階を製図室にしていました。三年生は工業学校を卒業して高校三年に編入した者,戦場に征き,終戦で復学した者と年齢も様々で,私より年上の生徒もいました。普通科は普通科を誘致するため,当時旧制の指宿中・指宿女学校に入っていた頴娃村内の子弟を郷土の高校に普通科を作るため転校させ発足させたのです。普通校として伝統ある指宿高より帰してまで普通科を作りたいという郷土愛に燃える人々の努力は,現在の有名校指向の親達には考えられないことではないでしょうか。高校初代校長は武政治先生で,先生も県立女子専門学校(注・第一高女専攻科を基にする。現鹿児島県立短期大学の前身)の教頭の要職より郷里の子女を教育するため,あえてその当時頴娃国といわれていた僻地だったこの学校に赴任されたのです。軍国主義教育から民主主義教育への脱皮,アメリカ軍政下(※2)の教育と私共の知らない苦労があられたことと思います。二十四(1949年)には電気科は電気主任技術者三種免許認定校になりましたが,認定を受けるには戦災で焼失し設備が基準に足らないため,基準に引き上げるのに,学校は勿論生徒の勤労奉仕による資金作りと生徒達も必死で頑張りました。村有林の示山(現在スカイラインの頴娃インターの手前)にキャンプを張り,薪の切り出しに汗みどろの毎日でした。土木科も最終日応援に来てもらい嬉しかったことを今でもはっきり覚えています。

     (中略)二十三・四(1948・49)年当時の通学についてふれてみます。生徒も先生も,まともな靴を持っておらず,運動靴は年数回の配給で,それも抽選でクラス数名ずつしかわたらない状態で,男女生徒とも下駄か裸足通学でした。私も自分で作ったわらじをはいて実家の開聞町から徒歩で通っていました。(中略)鉄道は三十六年頃(注・山川駅までは昭和11(1936)年に延伸され山川港から枕崎までバスが走った。西頴娃駅は同35(1960)年3月,枕崎までは同38年10月)開通したわけで,バスも国鉄の省営バスといっていた木炭を燃やして走るバスで故障も多く,バス通学生も朝は何とかバスで登校しても帰りは歩くことが常識となっており,舗装のない石ころとほこりの道路を教師生徒わいわい話しながら通学したものでした。青戸・別府・川尻ぐらいまではほとんど徒歩通学でした。自転車は万年タイヤといって空気の入ったチューブはなく,硬質ゴムだけで作ったもので,石だらけの道で尻は痛いし,スピードはでない大変な代物でした。遠くは指宿・知覧町松ヶ浦,浮辺あたりから通っていました。この通学による体力と精神力こそ卒業生が大いに社会で活躍している源になっているのではないでしょうか。

     (中略)三十五(1960)年までは県内に電気のある高校は鹿児島工業高校と二校だけでした。それだけに南薩地方全域から優秀な人材が集まってきていて競争試験には絶対に負けないといった自負心を皆持っていました。

     土木科も伝統を誇る県内有数の科であっただけに科がなくなったことは残念でなりません。普通科の進学は四回生ぐらいまでは,東大,一橋大,京都大,九大医学部,鹿大医学部など一流大学を始め相当数が大学進学していました。図書館もなく,参考書を買うにも本屋らしい本屋もなく学校の授業だけで合格していたわけです。それに田植,稲刈時期には農業休暇が一週間ぐらいあり家に帰れば大きな労働力であり大変だったことと思いますが,普通科に限らず工業科の生徒も南薩の雄としての誇りを持って勉強していたと思います。(中略)

     私が着任した頃はバレー部が頑張っていました。野球部はアメリカにいる在留邦人からの寄贈(※3)で道具一式が送ってき発足したようでした。陸上部発足より顧問をしていた陸上部についてですが,二十五(1950)年の県大会で土木科の坂元君が1500mで決勝に残った時のことです。彼は決勝では最下位で,私と応援をしていた武校長が「京田君負けたのは力でなくスパイクの差だね」といわれた言葉が今でも残っています。一人だけ裸足でした。何しろスパイクなんて高価なもので,当時私の一カ月の給料全額はたいても買えないぐらいの金額でした。翌年から二・三足学校で買って,足にあったのをはいて出場していました。女子は短距離に投てきにと,三十年代前半までは県代表として常に出場していました。次にボクシング部の活躍ですが,私が学生時代やっていたボクシングは県連盟ができて,競技が正式にできるようになった三十(1955)年より指導を始めましたが,部員達は農作業で鍛えた足腰と南薩地区独特のねばりと闘争心で,数年にして九州の強豪といわれるまでになり,全日本高校ランキングに名を連ねる選手も続出し,国体でも団体入賞を果たしました。(後略)

    5 生徒が輝いていた思い出(田村俊一郎氏,昭和38(1963)年4月~昭和49(1974)年3月,同52(1977)年4月~同63(1988)年3月31日電気科在職)

     (前略)私が赴任した当時は,まだ古い校舎がたくさん残っていましたし,校庭も今よりずっと狭いでした。今の西門近くに電気科の実習室,変電室がありましたし,第三棟のあたりには家庭科の和裁室,そして機械科の実習室のあたりに,農業科のふ卵室,教室等。当時の建物で今でも残っているのは第一棟と第二体育館だけのようです。昭和四十(1965)年当初は建物の建築の連続で,毎年のように工事,工事で,騒音の中での授業でした。またこの間,科の改廃も目まぐるしくありました。特に実業系の学科は産業構造に合わせて(※4),高校教育を見直してゆく教育制度の影響を受けて,その波をもろに被った地方校の悲哀とも言えます。(中略)

     就学児童生徒数の減少により,頴娃高校の生徒数も,最も多かった頃の千二百名から現在は約半数になっておりますが,生徒の気質にも変化が見られます。二十年前は,粗野ではあるが元気で,活気がありました。(中略)

     振り返ってみますと,生徒が何かをしようと,活発に行動していた時代は学校の雰囲気もいきいきしていたようです。そんな思い出を二,三あげてみたいと思います。

     私が赴任した当時,指宿枕崎線が西頴娃駅まで開通したばかりで,今和泉,指宿,山川,開聞方面の生徒はほとんど列車通学でした。客車も一輌か二輌で,すし詰めもいいところでした。ところが生徒達は「シート上げ運動」を行って,座席をあげて中まで詰めました。皆立ちっぱなしの通学でしたが,誰も文句を言う者はいません。また車内では三年生が率先して本をひろげ,下級生の指導もしていました。学年毎の乗車区分もありませんので,勉強なども教えたりして,上級生と下級生の中もよく,つながりも強かったようです。

     生徒手帳にのっている「交通安全宣言」(※5)がなされたのは昭和四十一(1966)年で,当時の生徒会が会長の本門君を中心に全生徒に呼びかけて,運動をおこし,執行部や交通委員が先進校の訪問,他校との情報交換等,こまめに走り回り,代議員会,交通委員会を頻繁に持って,宣言にこぎつけたわけです。準備に一年位かかったと思います。確か,公立高校では県下で初めてだったと記憶しています。この運動のきかっけは当時バイクが急に流行しだして,この前の年,生徒の交通事故が七件位発生し,この中には他人に大怪我をさせたものも含まれていました。それで事故撲滅を目指して,生徒会が立ち上がったのです。宣言してから何年かは事故,違反とも激減しました。交通安全が叫ばれますが,生徒一人一人が自分の事として真剣に考えなければ目的は達せられないと思います。

     もう一つの思い出が「長髪問題」です。それまで生徒総会でたびたび要求が出されていた長髪許可の問題を,昭和四十六(1971)年に坂元君等の生徒会執行部が積極的に取り上げ,どうしたら学校の許可が貰えるかと,代議員会,風紀委員会を何回も開き,案を作って,学校側と話し合いを繰り返しながら,ついに「長髪自由規制」を作り上げて,長髪の許可を得たものです。これも半年以上かけて成し遂げたもので,彼等の粘りと努力のたまものでした。(後略)

    6 あの日,あの頃(寺田幸一氏,昭和38(1963)年4月~昭和43(1968)年3月国語科在職)

    (前略)あれは確か二年目だったと思う。土木科の担任として私は初めてクラスを受け持った。二学期か三学期か定かではないがロングホームルームの時に「空手部をつくってほしい」という生徒たちからの要望があった。私自身学生時代空手道を通して青春を模索した体験もあり,早速,久保校長に相談にいった。しかし「空手は危ないし,後々の指導者にも困る。他にポピュラーなスポーツは知らないか」と言われた。そこで「サッカーなら少々」と申し出たところ,「それがいい」ということになり,サッカー部が誕生することになったのである。

     当初は同好会という形でスタートし,昭和四十(1965)年四月から部として発足。当時,サッカー部のある高校は薩摩半島では頴娃一校だけであった。(中略。基礎練習の々,高取浜での走り込みや一年目の失敗談などを記されている。)創部二年目の夏にはベスト4入り。続いて昭和四十二年(1967)秋の全国高校サッカー選手権鹿児島大会の準決勝では鹿商を倒し,見事に決勝進出を成し遂げた。優勝戦では鹿実に0-1で惜敗したものの,堂々たるゲーム内容であった。技術的にはもう一歩だったが,グラウンドいっぱい走りまくり,「負けてたまるか!」というすさまじきファイティングスピリットを持った頴娃イレブンの活躍はすばらしかった。(中略)更に嬉しかったことは,伝統校の鹿商と公式戦で二度対戦して二勝したことである。当時のサッカー専門誌に「頴娃高校の台頭」という記事を掲載されるなど,サッカー部(※6)創成期の頴娃の選手たちの頑張りは目を見張るものがあった。(後略)

    ※1 乾繭倉庫

     養蚕・製糸業は近代日本の輸出産業の中心であった。この倉庫の工事竣工は昭和6(1931)年,頴娃高校前身の頴娃村立高等公民学校創立の年である。倉庫は3階建て約1,993平方メートル(うち乾燥倉庫約505平方メートル)だった。この「乾繭組合の集繭所」が高等公民学校開校式場となる(第2回の2,多田初代校長「開校当時の思い出」参照)。

     乾繭倉庫前に建てられていた「乾繭倉庫設立記念碑」(当時の山内廣助組合長書)は,現在,正門から入って左側にある「亡師亡友の碑」の奥,国道沿いの体育館側に遺されている。『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年)には,国・県の乾繭(かんきん)取引奨励策を背景に,頴娃村の関係者が村会の援助を受け,三俣の地に「揖宿郡を一円とする鹿児島県南薩東部乾繭共同組合販売利用組合」を設立,主務省の認可を得て施設完了に至ったとの,碑文の内容が記録されている。なお,頴娃町の養蚕は,昭和四十(1965)年頃に姿を消したという。

     頴娃の三俣商店街は,高等公民学校創立,南薩東部乾繭倉庫の開設を機に周辺集落の人々の移住により開発された。本校の発展,交通機関の充実,町役場や銀行の移転などにより発展した。

               (参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年),『頴娃町商工業史』(頴娃町商工会発行,1990年))

    ※2 アメリカ軍政下

     武政治第6代校長の「回顧」(『同窓会誌 創立30周年記念号』(1960年)所収)の中に,戦後の就職開拓の苦労談(第3回記載の5参照)とともに「就職斡旋の旅費もなかった。折角PTAの就職運動費として工業課程の生徒から一人当り月30円宛集めようという議決も,このことが軍政官の耳に誤り伝えられ,私は自宅からジープで鹿児島まで連行されるという破目になった。然し実情を説明するとよく了解されかえって激励された。この結末は,県立学校の就職斡旋旅費は県が支出すべきであるということになり(後略)」とある。

     牛垣卓郎氏(昭和23(1948)年4月から同37(1962)年3月社会科在職)の書かれた「青春の譜」(『創立五十周年記念誌』(1981年)所収)中には「軍政官ストッカー氏の学校訪問。戦後の民主教育をすすめるために鹿児島に進駐していたストッカー(数学の教師)が調査のため来校するということで緊張したのは父兄への寄付行為が問題となった時である。高校のスタートにあたって教育条件の整備に力を注いでいたPTAの発議が誤解されて投書されたからである。武政治校長,中村一平会長の熱意と誠意を知った軍政官は労をねぎらい激励のうえ引揚げていった。」と記されている。

    ※3 野球部はアメリカにいる在留邦人からの寄贈

     ※2に取り上げた牛垣卓郎氏「青春の譜」中,スポーツ関係について触れた箇所に野球部草創期のエピソードがあるので以下抜粋する。

     「山村暢洋(東大へ進学,注・昭和25(1950)年普通科卒),長野昭夫(教育大へ進学,注・同27年普通科卒)らは同好の者を集めて野球チームを結成したが,道具が手に入らなかったので思いあまって私は在米頴娃村人会(ロサンゼルス)に寄贈を依頼した。数ヶ月後岡村さん(大川出身)から「汗を流して稼いだ1日2ドルから4ドルの日給から割いて故国の子弟のため皆んなが協力してくれた。大事に使ってほしい」との手紙と真新しい野球道具一式が送られてきた。この時の歓び感激は現在でも忘れられない。一回りも二回りも大きなプロテクター,レガース,グローブで大笑いになった。これが野球部のはじまりである。」(以下,女子ソフト部やボクシングの活躍を記載されている。)

     この時期を経た野球部について,川平睦氏(昭和40(1965)年建築科卒)は,3年生引退後レギュラーポジションをかけた,1・2年生による「野球で始まり野球で終わったと言っても言い過ぎではなかった」夏休みの練習について「野球部の思い出」を寄稿されている(『創立四十周年記念誌』(1971年)所収)。

    ※4 高度成長期,1950年代後半から1970年始めにかけて,産業構造や国民の生活水準が大きく変化した。この時期の資本と労働の投入増加を産業別に見て,「第1次産業より非第1次産業の方が,資本ストックと労働投入の増加率はともに高」かったことが指摘されている。また,第一次世界大戦(1914-18年)から現代までの,日本のサービス経済化については3つの局面があり,1920年頃から70年代初めまでは「工業化の進展と並行してサービス業のシェアも拡大した時期」で「産業構造変化の表舞台は製造業であり,その背後で緩やかにサービス経済化が進行した」と指摘されている。

          (参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5現代1 日中戦争期から高度成長(1937-1972)』(岩波書店,2018年)

    ※5 東門から入って右側に,頴娃高等学校生徒会による交通安全宣言が掲げられている。

         交通安全宣言

         宣言

           私たちはよりよき社会を築くため 交通事故の絶滅を計り 交通道徳を守ることを誓います

           遵守事項

           一 無免許運転はしません

           一 免許取得者は交通法規を厳守します

           一 自転車は必ず一列進行を実行します

           一 歩行者は必ず右側通行を実行します

           一 踏み切り及び横断歩道では安全を確認し敏速に渡ります

                鹿児島県立頴娃高等学校生徒会

    ※6 サッカー部の活躍について,長嶺一夫氏(昭和44(1969)年4月から49(1974)年3月,保健体育科在職)の「頴娃高校サッカーは私の青春」(『創立六十周年記念誌』所収)を以下に記載する。

     「揖宿地区は,高校は四校(注・指宿,指宿商業,頴娃,山川高校)しかないがどの学校も県大会では優勝する競技をもっており,活気のある地区であった。千三百人近くいる頴娃高校も活発で,放課後はにぎわっていた。どの部も県大会でベスト8以上の成績をあげていた。スポーツと勉強を両立させていたように思う。そんな中で,サッカー部も中心的なクラブであった。指宿や枕崎からの生徒が多かった。高校からサッカーを始める彼らは素直な性格で,練習熱心ですぐ上手になっていった。(中略)「鹿児島市内のチームに技術で負けるなら体力で勝とう」を合言葉で,走ることを中心にした練習だった。夏の合宿では,高取浜に良く行った。生徒はランニングと相撲で足腰を鍛え,(中略)この走るサッカーで,県大会ではほとんどの大会をベスト4まで勝ち進んだ。二回ほど決勝に進み,鹿商に挑戦したがついに優勝はできなかった。鹿商には頴娃高サッカー部を生み育てた寺田先生が監督をされていた。(中略)当時は,鹿児島国体前で,土・日曜はほとんど鹿児島に出て選抜チームの指導をしていたので,頴娃高校の練習を満足に見てやれないのが,悔しかった。そんな留守の時でも部員は私の与えた課題を良くやってくれていた。(中略)監督がいなくても,それほど素直でまじめに練習に取り組む生徒達であった。試合でいつも持てる力を十分発揮してくれていたので,負けた時でも実にさわやかであったように思う。」

     

     次回は,平成12(2000)年度,創立70周年記念誌から主に紹介する予定です。お楽しみに。