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2020年08月04日(火)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)-
校長 林 匡
今回は,創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次,第5代久木田実,第6代武政治先生の回顧録を紹介します。アジア太平洋戦争直後の困難な状況,関係者の方々の苦労や熱意などが伝わります。
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
3 頴娃工業時代の思い出(榎田栄次校長,昭和21(1946)年1月31日~昭和22(1947)年3月30日在職)
(前略)私は昭和21(1946)年1月末で頴娃工業学校長(※1)として赴任を命ぜられたのですが(中略)赴任してみると教室は戦災で焼け土台のみ,乾蚕倉庫だった3階の建築は白蟻の巣,台風で瓦はふきとばされ青天井の見える講堂を区切って仮の教室,隣りの講義が聞こえて生徒も大迷惑だった筈,職員室は3階建物付属の廊下(※2),全く惨憺たるものです。そのような惨状のもとに生徒諸君は何か知ら戦後の不安を感じつつ勉強したものです。しかし復興は急がねばなりません。
仮の校舎を建てるため頴娃町(※3)から間伐材を貰い受け数里の山奥まで全員切り出しに行って平木を作ってかついで来たこともある。食糧増産にため藷作りもやった。焼校舎の土台のあい間あい間に南瓜を作ったのもその頃である。そのように働きつつ学ぶという学校の姿も悪いものではないと考えます。(中略)あの時代の頴娃工業の先生は本当によく協力してくれました。ただ校舎も校具もないあの時代は学校の一致結束のみでその苦難を切り抜ける以外に途はないのですから仕方ないようなものの私常に感謝するのみでした。(後略)
4 思い出(久木田実校長,昭和22(1947)年3月31日~昭和23(1948)年3月31日在職)
私は昭和21(1946)年4月頴娃工業学校に転任を命ぜられ,終戦直後のこんとんたる世相の中を家族は加治木に残して(中略)加治木駅から汽車に乗った。山川駅(※4)につくと人々が一生懸命走るので自分も走ってみると,トラックは既に満員,仕方がないので次のトラックを待ちようやく乗車,荒むしろを敷いた木炭車で上り坂になると,乗客はみな降りてトラックの後押しをせねばならぬボロ自動車で,お客か人夫かわからないような仕事を何回かくり返し,ようやく頴娃に着いた。終戦の年の秋,薩摩半島に上陸した台風の被害は余りにも甚大で,その復旧作業は殆んど出来ておらず,倒壊家屋の残骸がいたる所に転がっていた。
牧の内の頴娃工業学校に着いてみると,ここも同様で校舎は空襲と台風のため,見るかげもなく,職員室は建物の横に取り付けた,さしかけ屋根で,硝子窓もなく吹き通しで,その中に板の長腰掛に十数人の職員が雑居しているという状態であった。生徒は頴娃を中心として近隣の町村から集まり,純朴で非常に元気のある生徒たちばかりでたのもしい限りであった。(中略)榎田校長を中心として授業の傍ら倒壊校舎の片付けや,バラック校舎の新築等目まぐるしいうちに一年が過ぎ,昭和22(1947)年4月,新制中学校発足(※5)に伴い,榎田校長は川内北中学校に転任され,私がその後任校長を命ぜられて責任の重さを感じた次第であった。(中略)愈々(いよいよ)校舎本建築の計画が進み(中略)焼失校舎の基礎の上にそのまま新築され,竣工式も無事終わったと思う間もなく,今度は昭和23(1948)年4月から新制高等学校として発足することになり,高校設立準備の仕事が始まった。
(中略)工業学校と女学校を統合して全日制とし,青年学校を定時制とする新制高校を設立し,設置学科としては普通科,電気,土木科の外に家庭科,農業科を置くこととに村当局とも意見の一致を得て着々と準備を進めていたが,県の設置科に対する方針が変更になり,普通科の外に実業科は二科しか設置出来ないことになった。
村当局は土木科を廃止して農業科を設置したいとの希望であった。(中略)私は終戦後のわが国の復旧や,その他の面から考え,どうしても土木科は設置すべきである,今ここで土木科を廃止したら土木科の備品は他の同科設置校に保管転換となり,将来再び本校に土木科を設置することは困難であることを思い,万難を排して土木科存置を主張し(中略)県における最終審議の結果,全日制には普通科,電気,土木科をおき,青年学校の設置科を定時制とし,農業科は必要ならば後日設置することに決定した時は中村後援会長と手を取り合って喜んだ。そして愈々昭和23(1948)年4月から鹿児島県立頴娃高等学校として開校することになり(※6),ここに画期的学制改革が行われることになった。(後略)
5 回顧(武政治校長,昭和23(1948)年4月1日~昭和26(1951)年3月31日在職)
(前略)当時の憶い出として,最も印象に残っていることは,卒業生の職場開拓と,電気主任技術者第三種免状を獲得した運動である。
現今では電気主任技術者の資格は国家資格に合格しなければ得られないが,当時は商工省(※7)の指定学校であり,我が頴娃工業の卒業生には資格が認められていなかった。この不合理は就職に大きなハンディキャップとなっていたので,何とかして指定学校に昇格させねばならないと思った。色々苦心をし(※8),鹿児島工業に協力を求めて1年がかりで目的を達成し,(中略)盛大に祝賀大運動会を催したものだった。
当時の職員,生徒は校舎こそ貧弱であったが,協力一致しよく働らき,よく勉強し,真に学校が一丸となって向上の意気に燃えていた。(中略)現役から毎年東大や一橋大などに合格者を出したことも,本人の素質のよさもさることながら,やはり学校の意気が旺んであったことにもよると思う。
又,本校の前身である高等公民学校や,頴娃工業の卒業生は戦時中に巣立ったために,その大部分が満洲に就職したものである。従って内地に同窓生の地盤を全くもっていない。それらの関係から北九州,阪神,京浜工業地帯への就職開拓には並々ならぬ苦労があった。頴娃高校に工業課程があることをほとんどの会社が知らない,それよりも頴娃という字をそのまま読める人事課長が一人もいなかったのである。殊に朝鮮戦争前までは,我が国の会社工場は殆ど戦災で壊滅に瀕したまま虚脱状態にあって,復員者の受入れもままならず,新規採用など全く考えてもいなかった時代であった。大阪の桜島にある住友電気で断られ,あの巨大な工場の残骸を見ながら日立造船所に向って炎天下をトボトボと歩いて行ったことを思うと,昨今の工業界の好況(※9)と思い合わせ全く隔世の感がする。
就職斡旋の旅費もなかった。(中略)三週間の就職運動日程に,村当局に融資してもらった2万円を懐にして出かけていったが,宿費が足りなく駅のベンチを野宿みたいにして歩き廻ったことを憶い出す。北九州,阪神をまわって漸く東京までたどりつき,当時好況にあった郷土の大先輩アポロ商会の大迫社長の御厚意に接した時は,今考えても涙が出るほど嬉しかった。 色々次々に追憶の種はつきないが,日本の目醒しい復興と共に,本校もその面目を一新し,現在では,内容外観共に県下の高校中屈指の高校に発展したことは誠に喜びに堪えない。(後略)
※1 頴娃工業学校
昭和16(1941)年4月1日に村立頴娃青年学校から電気科・土木科が村立鹿児島県頴娃工業学校として独立。昭和19(1944)年4月県立移管。
平川常彦第2代校長(昭和16年6月14日~昭和18年12月9日在職)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行)には,「当時村立の甲種工業学校はおそらく全国で始めてのこと」とある。当時の状況は「青年学校の二三教室を拝借して職員数名,第一回生徒電気,土木各四十名位というわけでした。(中略)物資は大変窮屈で実習設備など不十分であり,職員組織も不完全でした。土木科には青年学校時代使用した測量機械が若干ありましたが,電気科においてはモーター一台さえもないという有様」だったという。
頴娃工業学校の本館は,昭和16年12月起工,同17年12月上棟式を行う。平川校長によれば「青年学校の西隣りに敷地が定められ,その地ならしに取りかかることとなり,われらの校舎はわれらの手でとの気構えから生徒諸君は毎日モッコで土を運びました。青年学校の諸君,さては村役場の皆さん達までこれに参加して下さいました。」とある。昭和19(1944)年5月12日,新校舎で授業が開始されるが,翌年戦災に遭う。県立頴娃工業学校は昭和23(1948)年3月閉校。同年4月,電気・土木・普通科の全日制鹿児島県頴娃高等学校が開校認可される。
※2 戦災,青天井の見える講堂
昭和20(1945)年8月8日,空襲によって本館全焼。8月31日に寄宿舎を教室に利用して授業を開始することとなったが,9月17日の枕崎台風で乾繭倉庫と講堂の他は全壊した。この空襲前後や枕崎台風について,昭和22(1947)年3月土木科卒の中村三郎氏の「ありし日の学舎」【機種依存文字】と田中瑞穂氏の「「頴娃工業」の思い出」【機種依存文字】(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)記載),鶴田周文氏の「思い出」【機種依存文字】(『創立四十周年記念誌』記載)から以下引用する。
(1) (昭和19(1944)年入学)「今運動場の国道沿いで知覧街道の松の木で建設した木造2階建の素晴らしい校舎に入校出来た。(中略)2年生になってからは同級生も動員にかり出され学校には宮脇,頴娃,九玉校出身の生徒だけが学校に残り,本校の備品,大切な書類測量器械等何事でも背負って出られるように待機の日々が続いた。(中略。1度目の機銃掃射,2度目の爆撃で電気科生徒1名と校舎前に畑仕事に来ていた女児が亡くなったことなど記載)3回目の空襲を受けその時は,2人か3人位の生徒と女の先生が残っていた。たまたま事務室には,非常持出の書類等を置いてあることを先生が思いつき,2階は炎で燃え盛る中を生徒が勇敢にもその書類を持出した事を今でも覚えています。(中略)枕崎台風の襲来で校舎は雨もりし,隙間から入いる木枯の風は冷たく,それに教科書はお粗末なもの,字を書くにもノートはないし寄せ集め紙でノートを作ったものでした。」
(2) 「昭和19年4月県立頴娃工業学校土木科1年へ53名が,新築新装の木造2回建校舎に県立移管初の一期生として入学した。(中略,戦時下の状況,学徒動員などを記載されている。)忘れもしない8月8日,我々は2回目の学徒動員で赤崎部落(牧之内区)の県道沿いで兵隊とともに防空壕を掘さく中,異様な爆音と機銃の音とともに敵機来襲,その間7~8分位と思う。壕の中からようやく外に出ると,附近部落民より「頴娃工業が燃えている」との情報,急ぎ赤崎の岡の上に登る。確かに学校が燃えている。(中略)作業を終え急ぎ学校にたどり着くと,後片もなく全焼で同僚の留守班約10名が教職員とともに茫然と立ちすくんでいたことを記憶している。終戦とともに学徒動員の上級生も帰校し全校生徒はなお学校の後片付け等の作業が続く,頴娃村有林の示山で炭火(や)き,仮校舎建築用材の切出し,屋根葺用平木の原木を新牧の製材工場へ運搬,そして平木の製品を学校まで人肩運搬,又薩南工業建築科より授業用机,椅子の人肩運搬,そして仮校舎焼残りの旧講堂,倉庫等で戦時から戦後の学生生活が始まった。教科書はなく,正常な授業はできない毎日でした。そして昭和22(1947)年3月43名が土木科を卒業した。卒業時担任の先生が言われた。「皆さんは今,土木科3年を卒業するが戦時中のため2年の1学期課程の程度しか不幸にしてできていない。社会で努力してもらいたい」との言葉を覚えている。」
(3) 「昭和十九年大陸への就職を夢みて進学を立志,運よく入学出来ましたが(中略)戦雲急を告げる頃とあって,先輩諸氏の土木科は長崎川棚へ,電気科は佐世保へと学徒動員され,一年生の我々のみが留守番役として学校に残った。(中略)青戸飛行場の整地作業,そして赤崎高峰山での陣地構築へとすぐに動員された。(中略)この頃は,殆ど,授業らしき授業はなく軍事教練が主であった。そして二年の一学期終戦を迎え,二学期より,再び,学校生活が始まった。しかし,木造二階建の新校舎は,戦火のため灰と化し,基礎コンクリートの残がいだけが,見るも哀れな姿で残っていた。(中略)これからの授業が大変であった。幸いにして,隣接の旧青年学校の講堂が戦火から焼残り,全校生徒が衝立仕切りの仮教室で,授業が始まったのである。隣教室での授業が騒ぞうしく,とても落着いて勉強が出来るものではなかった。また,雨の日等は,雨漏りがひどく,授業中止の時もあった。
やっと三年の卒業年次に落着いた教室が町立乾繭倉庫のボイラー室である。これがまたひどい,土ほこりのする土間教室で,教室の中央には大きなボイラー管が突き出ており,時折り頭を打つ人もいた。机は,四・五名宛の長机であった。また実習用の測量器械は戦火で焼け,古びた器械が,二・三台しか残っていなかった。(中略。鹿児島市復興部に就職され連日測量をされたことなど記載)このような学校生活を送った私等に社会人として何が出来るであろうか何も解らなかった。基礎知識の足りない私は,只々一生懸命頑張った。校訓であった「誠と熱」をもって…。」
枕崎台風後の講堂の状況については,昭和21(1946)年から36(1961)年まで在職された土木科担当の鮫島宗起氏も「講堂は倒れなかったが,屋根瓦が吹き飛んでいても,教室がないので,それを四つに仕切って教室に使用していた。雨の時には漏るので机を移動してしのいでいた。」(『創立四十周年記念誌』)と記されている。
また,薩南工業からの机・椅子の提供一件は,中村一平元PTA会長によれば「(榎田)校長と私が机を作ってもらうつもりで,薩南工業に相談にまいりましたところ,幸いに枕崎水産のために作ってあった机,いすがありました。その机といすを懇望して譲ってもらいました。それで全生徒を徒歩で知覧までやり,知覧から机,いすをかつがせて持ってきました。」という。(回顧座談会『創立四十周年記念誌』昭和46(1971)年3月発行)
※3 昭和25(1950)年に頴娃村から町制施行し頴娃町となる。
※4 国鉄指宿線は,昭和5(1930)年に西鹿児島(現鹿児島中央)駅-五位野駅間で開業,同9年(1934)年12月に指宿駅まで延伸され,翌年に指宿-枕崎間の国鉄バスが運行された。鉄道が昭和11(1936)年3月に山川駅まで延伸されると,バスも山川港-枕崎間となる。昭和32(1957)年に枕崎線起工,翌年に成川トンネルが開通し,同35(1960)年3月に指宿線山川駅-西頴娃駅間が開通した。昭和37(1962)年3月には水成川まで完成,山川から枕崎駅まで全線開通したのは昭和38(1963)年10月である(西鹿児島-枕崎駅,指宿枕崎線と線名改称)。
頴娃村(町)では,大正末から期成同盟会も結成されたように,早くから鉄道敷設の要望は強かった。全面開通の祝賀会は頴娃高校体育館で行われている。
(参考文献『目で見る南薩の100年』(郷土出版社,2004年),『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年))
※5 新制中学校発足
山内廣行氏(昭和27(1952)年4月頴娃高校入学,昭和31(1956)年普通科卒)によれば「入学式のため正門をくぐったのは2回目です。(中略)最初は,昭和24(1949)年に頴娃中学校に入学した時でした。当時は新制中学校として発足間もない頃で校舎が整備されていなかったため,我々1年生は頴娃高校の校舎を借りて授業が始まったからです。当時の高校は,学制改革等で旧制中学からの編入生も多く,我々中学生も加わり,とても賑やかな学校風景でありました。そして,二度目は晴れて頴娃高校生として正門をくぐりました。」とのこと(「80年の歴史に光を!」『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。頴娃中学校は,昭和22(1947)年5月,開校式を行い頴娃・宮脇・九玉・粟ヶ窪(一部)の各小学校を校区として分校授業を行い,同年10月,用地買収を始め,同23年10月から順次校舎が落成していく。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※6 昭和23(1948)年4月,普通科・電気科・土木科3科の全日制県立頴娃高等学校として開校,県立頴娃工業学校と村立頴娃高等家政女学校(昭和15(1940)年4月,村立頴娃青年学校家庭科が村立頴娃青年学校から独立)の敷地を合併。青年学校は昭和22(1947)年度末をもって完全廃止となったが,頴娃青年学校の設置科は定時制とされ,昭和24(1949)年4月,農業科を本科,家庭科・建築科を別科とする村立(翌年県立移管)定時制高等学校が併置された。全日制を第1部,定時制を第2部と称した。
※7 商工省は大正14(1925)年設立。商工業の奨励や統制を担う。昭和18(1943)年,軍需省・農商省に改組,戦後間もない昭和20(1945)年8月,商工省再設置。昭和24(1949)年,通商産業省改組,平成13(2001)年に現在の経済産業省へ移行した。
(参考文献 百瀬孝著『事典昭和戦後の日本』(吉川弘文館,1995年)等)
※8 昭和23(1948)年に電気科教職員として赴任された京田薩男氏は「電気科の実習室は乾繭倉庫跡で焼け残った計器とモーターが少々というあわれな状態だった。しかし電気科は鹿児島県で最も歴史が古く,県下に鹿児島工業高校と二校しかなく,優秀な人材が集まり,戦場より復員してきた年配者もいたが,みなファイト満々で,先生と生徒の間も兄弟のような仲で,(中略)職員,生徒,父兄が一体となって学校を建設するのだという意気と連帯感があったからだと思う。(中略)24年4月に電気科卒業生に電気事業主任技術者資格第三種免許が下附されたが,それまでが大変で設備を規準にあうよう充実するため,父兄に寄附をお願いするとともに,生徒も青戸の先の「しめじ山」の町有林を伐採して薪にして資金作りをしたが,電気科職員生徒全員が山に泊りこんで汗みどろになって働いたことなど懐かしく思い出される」と当時のことを記されている(『創立五十周年記念誌』)。
※9 昨今の工業界の好況
敗戦後戦前の1935年までに到達していた状況からはるかに後退した工業化について,朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)の特需を経て50年代半ばに高度成長が始まる。1930(昭和5)年代後半から1970(昭和45)年代初頭に至る時期の,日本の産業化の王者は機械器具産業であったこと,戦時を超えて高度成長期を経過する時期において,機械産業と金属産業が全産出額中上位を占めることが多かったこと,しかもその趨勢は時とともに増す勢いにあり、これら2者のリーダーシップを握ったのが機械産業であったこと,また建築・土木もこれら両産業ほどではないが,占有率の上昇が目立ったことなどが指摘されている。
(参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5 現代1 日中戦争期から高度成長期(1937-1972)』岩波書店,2018年)
次回は,注でも引用してきました,創立40周年記念誌から紹介します。今から50年(半世紀)前のものです。南薩特有の土壌で水に苦労されたお話なども関連して掲載予定です。お楽しみに。
2020年08月03日(月)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)-
校長 林 匡
今回は,同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を掲載します。
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
2 開校当時の思出(多田茂校長,昭和6(1931)年4月1日~昭和16(1941)年6月13日,頴娃村立高等公民学校,頴娃村立青年学校,村立鹿児島県頴娃工業学校在職)
頴娃の公民学校が全村民の殿堂として創設されたのは昭和6(1931)年(※1)4月のことでした。それに先だって当時の頴娃村長樋渡盛広氏は学校長の推薦を鹿児島農林専門学校(※2)長吉村清尚先生に委嘱された。それで私の母校では何人を其の初代校長として推薦するかにつき種々と協議された。と云うのは当時母校としては従来農業学校方面の校長は多数あり経験済みであるが,公民学校長として男女共学(※3)の学校経営者としての校長に就いては実のところ未経験で,しかも当時の状勢からして日本の将来の教育上此の教育を重視せねばならぬ事情にあったため,其の詮考には相当慎重であった様である。
当時私は山口県小郡農業学校に在職中で教員としての経験もまだ僅に六年半の一平教員でありましたが,其の私に吉村校長先生から其の大任を引き受けるよう御懇切なる御書翰を頂いた。(中略)遂に私も意を決して御引受けする事として兎に角発令に先だって母校並に頴娃村(※4)御当局と事前に協議するため,現地視察を兼ねて遙々(はるばる)頴娃に赴いた。
ところで頴娃に行って驚いた事は学校の敷地は全村民挙(こぞ)っての涙ぐましき御奉仕によって略(ほ)ぼ完成されて居ったが,あと1カ月を待たずして開校されると云うのに校舎とて一棟も完成されて居らず僅に村内の久玉小学校の古るき校舎一棟が移転される事となって其の移転改築中で他に数棟と附属建物が新築される計画で其の木取り等に多忙を極めて居る時であった。
(中略)
此の全村統一の公民学校が建設せられる前の公民学校の教育の実状はどうであったかと云うと,当時は村内各小学校に併設せられた公民学校とは名ばかりの所謂(いわゆる)補習教育で専任職員は各校とも只一人他は全部小学校教員の兼任で其の場ふさぎの教育が実施されて居ったのである。只女子の教育は中央の頴娃小学校に実科高等女学校が併設せられて居って頴娃村女子教育の根幹をなして居った様な実状であった。
それが昭和6(1931)年を限りとして実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止(※5)せらるる事となり,前期の通り中央なる三俣原頭に全村統一の公民学校が創設される事となり,毎日登校する通年生と仕事の都合を計って教育せらる期間生とが設置せられ通学生こは実科女学校と代るべき女学部と男子学部には電気,土木,家具,農業の各専門科と普通科が設置せられ,職員組織は(中略)其の数も専任20名兼任15名と云う膨大な公民学校が出来上がったのである。
(中略)役場の食堂を学校の臨時事務室として開校に先だって通年生の募集を開始する事となり役場と学校と一体となり,早朝より夜間に及ぶ涙ぐましき奮斗が毎日の様に繰り返され,漸く昭和6(1931)年4月10日開校の運びとなり,当日は乾繭(かんけん)組合の集繭所を開校式場として(中略)霊峰薩摩富士を眼前にして盛大裏に行われた(※6)。開校後も総ゆる苦難を克服して,開校前に劣らぬ涙ぐましき奮闘は村御当局,学校職員,生徒打って一丸となって建設の歩が続けられたのである。即ち校庭の一木一草に至るまで否村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて(※7)建設の魂が打ち込まれていった。従って職員と生徒との間は全く魂と魂の接触其のもので打てば響くと云う教育であった。
(中略)
越えて昭和8(1933)年には第1回卒業の電気科,土木科生は大陸発展の先駆として大陸に渡り,彼等の何れもが中国語の教育を受けると共に当時,ややもすると軽視せられ勝ちであった徳育教育を重んじ智徳体三位一体の教育を受けた結果,大陸に於いては卒業生の一挙手一投足に至るまで目を見張るに至り,満州国からは留学生の派遣(※8)となり,年と共に学校の名声は国の内外にまで知られ,(中略)昭和9(1934)年実業教育40周年の記念大会が東都に於いて開催されるに当り私は鹿児島県代表として学校経営に就いて全国学校長の前に立って其の実状発表の機会を恵まれ学校の実状は漸く国の内外から注視の的となり,昭和10(1935)年の鹿児島,宮崎両県下に股がる陸海軍特別大演習の砌(みぎり)には畏くも勅使御差遣(※9)の光栄に浴し得たのである。
(中略)女子部は家政女学校(※10)として,男子部の電気科,土木科,家具科,採鉱科,農業科は其の内容益々充実せられ,創立満10年を記念して工業科は発展的解消して,村立工業学校として独立し,続いて県立となり(※11)遂に今日の頴娃高等学校として名実共に県内は勿論,国内に其の名を歌わるに至った次第で,頴娃の公民学校こそ今日の高等学校の卵であり種子であった事に思いを致す時,往事を顧みて感慨無量なるものがあります。(後略)
※1 昭和6(1931)年当時,日本は昭和恐慌の影響下にあった。鹿児島県教育界の状況は,例えば「中学校でも志願者が減少し,郡部の中学校では定員を下回る学校もあった。女子中等教育機関である高等女学校へのしわよせはもっとひどかった。郡部の女学校では定員を半減させたりしたが,廃校に追い込まれた高等女学校や実科高等女学校は四校を数えた。」(原口泉・宮下満郎・向山勝貞『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)というものだった。なお同年9月,満州事変が起こる。
※2 鹿児島農林専門学校明治41(1908)年設立の鹿児島高等農林学校が,昭和19(1944)年鹿児島農林専門学校となる。(現鹿児島大学農学部の母体)
※3 男女共学 『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の多田校長回顧「創立当時の思い出」によれば,「(樋渡村長から)村民の一部には年頃の男女生徒を同じ学校で教育する事には相当強い反対があったが,校長は此の問題をどう考えるかとの御尋ねがあった。村長殿は嘗て英国の大使館付武官をなされた経験者故彼地には男女を一つの学校に収容して教育する学校は無いのかと反問したところ,勿論英国にも同じ学校に男女を収容する所(今日の日本の様に)男女を同一の一教室で同一の科目に就て教育して居るとの御返事に先方で実現して居る事に,日本でも出来ない事は無い筈だと御返事しましたところ,私の手を固く握り締め「その意気,その意気」と非常に喜ばれ」たと記されている。
※4 頴娃村 明治22(1889)年,市制町村制が施行され,頴娃郷は頴娃村に改められ,旧頴娃郷7か村(別府・上別府・御領・牧之内・郡・十町・仙田)は頴娃村の大字となる。明治29(1896)年,郡区画法改正により指宿郡に所属した。
昭和25(1950)年,頴娃村に町制を施行し頴娃町となる。昭和26(1951)年に東南部の仙田・十町・川尻地区が開聞村として分村した。
※5 実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止
『創立四十周年記念誌』の回顧座談会で豊満ユキヱ氏(昭和23(1948)年6月から保健科職員として12年間在職)は実科高等女学校について「当時女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室を借りて勉強していました」と話されている。
※6 『創立四十周年記念誌』の多田校長回顧
「創立当時の思い出」によれば,職員室も当初はなく,村長の好意で役場(頴娃村郡(こおり)の麓に明治42(1909)年建てられた旧役場庁舎。昭和44(1969)年に現在の場所(頴娃町牧之内)に新築移転)の職員食堂で職員組織を整えたこと,5月1日に男女合計約100名の生徒を確保し,5月5日に開校式(入学式)を挙げたこと,開校したものの職員室も校舎もなく,授業は敷地に近い(頴娃中学校下の)松林で行ったという。
第一校舎となる九玉小学校の一部移築は6月半ばで4教室,職員室もようやく役場から移転,9月には第二の校舎が落成,6教室となったことなどが記されている。
※7 村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて
以下は,『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での岩崎友二氏(電気科卒,電気科職員)による。
「一番思い出深いのは昭和十七(1942)年だったと思いますが,台風がやってきまして,当時は村で村内の電気を管理していたのですが,村内が全部停電しました。私達二年生は実習という形で,二か月間ほど授業はやらなくて,復旧作業を続けました。村内の全ての地域で,二か月間,小笠原先生と復旧作業をやりました」
この伝統は,アジア太平洋戦争後の新制高等学校にも引き継がれた,例えば『創立四十周年記念誌』所収の宮田己之助氏(昭和24(1949)年4月~昭和30(1955)年3月在職)の「併設定時制の思い出」には次のように記されている。
「私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立として併設(注:昭和24年4月村立,同25年4月県立移管)され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)桶器(タンコ)木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。
従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。」
また,『創立50周年記念誌』(1981年2月発行)所収の福留善秀氏(建築科昭和34(1959)年卒,昭和37(1962)年~昭和54(1979)年本校在職)「思い出」によれば以下のとおり。
「建築科(注:昭和35(1960)年に定時制募集停止,全日制募集。昭和61(1986)年募集停止,設備工業科新設)は町内の民家を請負い工具箱を自転車の荷台に載せ週に12時間は校外実習に取り組み,遣方実習から墨つけ,加工建方と内部仕上まですべて生徒の手で行われました。」
※8 留学生
昭和9(1934)に中国からの留学生写真が残されている。(『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)
※9 陸海軍特別大演習と勅使御差遣
昭和10(1935)年11月8日に鹿児島港に到着した昭和天皇は,鹿児島県の隼人野外,宮崎県都城で行われた陸軍特別大演習を視察され,宮崎方面をまわり15日に再び鹿児島に戻り照国神社など諸社や鹿児島高等農林学校など諸学校,鹿児島地方裁判所など,その他県内各地を巡幸して19日に鹿児島を出発された。この間に天皇の言葉を伝える使者(勅使)が派遣されたことを示すもの。(9日に予定されていた鹿児島湾での海軍大演習は,天皇が体調を崩したので中止されている。)
本校正門を入って右側に,昭和11(1936)年11月30日付の「行幸記念水道碑」がある。この石碑と,樋渡・多田先生両胸像の間に,「御使御差遣」記念碑が設置されている。碑の正面には「御使御差遣記念碑 従二位勲二等功四級侯爵西郷従徳」とある。西郷従徳氏は従道の次男で西郷隆盛の甥に当たる。背面の碑文は摩滅して判読しがたいが,「昭和十二(1937)年十一月九日建之」と,当時の濱田森七村長・多田茂校長の連名がかろうじて確認できる。この石碑を後ろにして修養団修了式記念の写真が残されている(『目で見る南薩の100年』郷土出版社発行,2004年)。
行幸記念水道碑には,牧之内水道組合長鶴留盛衛氏ほか関係者・団体の名が四面に刻まれている。寄附者の中には「頴娃青年校後援会」「頴娃青年校卒業生」,奉仕者の中には「頴娃青年学校全員」も確認できる。
(参考文献 南日本新聞社編『鹿児島百年(下)』(春苑堂書店,1968年),『写真アルバム南薩の昭和』,『鹿児島県の近現代』等)
※10 村立頴娃高等家政女学校
村立頴娃青年学校から,家政科が昭和15(1940)年4月1日独立。昭和17(1942)年の裁縫授業風景や運動会での集団写真演技の写真が残されている(『写真アルバム南薩の昭和』掲載)。
※11 村立頴娃工業学校
村立頴娃青年学校から,電気科・土木科が昭和16(1941)年4月1日独立,同19(1944)年4月1日県立移管(県立頴娃工業学校)。
以下は『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での田畑実幸氏(土木科卒,土木科職員)による。
「青年学校の中に電気科,土木科があり,電気科は二学級,土木科は一学級でしたが,十回生で終わりということになり,私はその十回生で,一旦青年学校を卒業してから工業学校の二年に編入しました。(中略)校舎そのものはなくて,下の今のグランドになっているあそこに整地がなされていただけのことでした。先生方も,青年学校としての先生,工業学校としての先生とあったわけです。電気科,土木科とも四十名が定員で,一学級ずつでした。学校生活のことですが,太平洋戦争勃発の頃でありまして,戦時態勢によって全てが動いていました。授業そのものよりも勤労奉仕が大部分でした。今の生徒は充実した授業が受けられるわけですが,私どもは奉仕作業や実践農場での作業が毎日の生活でした。しかしそれが,開拓精神や根性の養成につながり,簡単にはへこたれない粘りを私どもに植えつけたのではないかと思います。(中略)卒業も繰り上げ卒業で,前年の十二月に卒業させられて職場にやられたのでありました。」
次回は,同じく創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次先生,第5代久木田実先生,第6代武政治先生の回顧録を予定しています。お楽しみに。
2020年07月31日(金)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(1)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(1)-
校長 林 匡
令和2(2020)年,鹿児島県立頴娃高等学校は,創立90周年を迎えました。この記念すべき年に当たり,本校の歴史とこ こに息づく様々な関係者の想いなどを振り返り,今本校で学ぶ生徒の皆さんをはじめ,保護者や地域の方々にも改めて本校の培ってきたこと,創立以来の本校の歴史を知っていただきたいと考え,ここに紹介いたします。
今回は,今から60年前に発行された同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)から抜粋します。
なお,原則として記念誌記載の文言に従い記載しますが,明らかな誤字・脱字等は適宜改めています。また,元号表記については,西暦表示が原文にない場合,( )で示しました。記載文中,補足説明の箇所には※印・番号を付しています。(以下同様)
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
1 式辞(寺崎豊志校長,昭和32(1957)年4月1日~昭和37(1962)年3月31日在職)
本日ここに本校創立30周年記念式典並に講堂の落成式(※1)を挙行致しましたところ雨天の中遠近を問わず県御当局をはじめ沢山の来賓の方々並同窓会PTA等多数の御参加を得まして厳粛にして然も盛大なる式典をあげ得ますことは本校の無上の光栄とし深く感謝する所であります。
本校は昭和6(1931)年本月この牧之原原頭に頴娃村立高等公民学校(※2)として発足し昭和19(1944)年には頴娃工業学校となり同23(1948)年には学制改革により普通科を増設して電気科建築科の三課程の全日制高等学校となりました。一方青年学校(※3)を主流とし家庭科農業科建築科の三課程の頴娃村立定時制高等学校は昭和25年県立となり全日制と合体して六課程を持つ県下にも稀な綜合制高等学校として今日に及んでおります。
此の間数々の試練を経て着たのでありますが中でも昭和20(1945)年8月8日終戦を目の前にして講堂のみを残して戦災により全焼加ふるに昭和26(1951)年10月14日のルース台風により再度の大災害を被り(※4)一時は学校の存廃問題になる程の大災害の記録も持っています。
今ここに白亜の本館の大殿堂と今回落成せるこの講堂を今日まのあたり見る時参列の皆様も私共一同も感涙無量なるものがあると思います。
(中略)本講堂の左後方の森の中にみかげ石の二つの石像が並んで立っています。碑面には樋渡盛広村長の像(※5)多田茂校長の像(※6)ときざんであります。(中略)この地の青年諸君はすべて海外雄飛の大志を抱くべきとの卓見をいだき凡ゆる困難を克服して敢然としてこの地にこの学びやを建設された方々を代表する記念の石像だと思います。爾来敗戦によりその職場は幾分限定されたとは云え建学の精神を深く身に体し質実剛健の校風を樹立しながら本校に学んだ青年は四千数百名にも及び到る所で活躍して頴娃青年の名を天下にとどろかしつつあります。
地元民による地元民の学校としてスタートした本校は一種独特の雰囲気と校風をかもし出し今や県立学校としても十指に屈せられる大規模な学校となりました。
今や私共は並々ならぬこの皆様の御高恩にむくいるべく責任の重大さを痛感しながら一致団結日夜御期待に副う様努力いたす覚悟であります(後略)
※1 講堂の落成式
体育館兼講堂(214坪)。昭和35(1970)年3月25日竣工。場所は,現在の正門右側,駐車場等の場所に建てられた。(本校学校要覧の建物配置図によれば,前年度まで正門左側に講堂があった。付属して音楽室があった(昭和53(1978)年に音楽室が竣工したため,器具室,倉庫となる)。
この講堂は,昭和40(1965)年度以降の学校要覧では屋内運動場と表記される。平成18(2006)年3月に撤去され,作業倉庫・駐車場が新設された。
※2 頴娃村立公民学校・高等公民学校
明治時代に創立された頴娃村内の小学校に実業補習学校が併設され,昭和5(1930)年以降公民学校と改称された。昭和6(1931)年に各校併設の公民学校を統一して開設。また,大正12(1923)年に,頴娃尋常小学校に併設して村立頴娃実科高等女学校が設置されていたが,頴娃高等公民学校家政科ができて廃止された。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※3 青年学校
昭和10(1935)年青年学校令による,戦前の教育機関の一つ。尋常小学校6年卒業後勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う。実業補習学校と,大正15(1926)年施行の青年訓練所令に基づく青年訓練所が統合されたもの。頴娃村立青年学校は,家政科が昭和15(1930)年に村立頴娃高等女学校として独立。電気,土木科が翌年村立頴娃工業学校として独立(昭和19(1944)年に県立移管)する。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※4 ルース台風により再度の大災害を被り
昭和26(1951)年10月14日,電気科・土木科教室や製図室・配線室,その他諸施設全壊,大破。被害状況は22日付けの「ルース台風による災害状況調書」(本校保管)に記録されており,壊滅的打撃を受けたことが図面からも分かる。
※5 樋渡盛広村長の像
(正面)
「樋渡盛廣村長之像」
(背面)
「樋渡盛廣先生は明治十年四月五日旧頴娃村郡に生まれ長じて後鹿児島高等中学校を経て陸軍士官学校陸軍大学校へ進み大正八年陸軍大佐をもって退役された 又昭和二年から昭和九年まで頴娃村長を勤めその間昭和六年に村立頴娃高等公民学校を設置して職業教育青少年教育の振興に努められ
これが後の工業学校高等学校の母胎となったのである 昭和二十一年三月二十一日満洲瀋陽市で死去された」
※6 多田茂校長の像
(正面)
「多田茂校長之像」
(背面)
「多田校長は静岡県の生まれで大正二年七月鹿児島高等農林学校を卒業しマライ半島ゴム園生活十年の後帰国して山口県立小郡農業学校勤務を経て昭和六年四月本校の前身である頴娃村立高等公民学校の初代校長として来任された以後十年間行学一体開拓者精神の養成等を通じて堅実な校風の樹立と有為な青少年の育成に努められそして昭和十六年三月兵庫県豊岡農業学校へ転出された」
補足して,この樋渡盛広村長・多田茂校長の胸像は,昭和19(1944)年3月に「多数の卒業生の篤志寄附を仰いで建立し除幕式を挙げ」(『創立30周年記念号』回顧録中,2部電1卒の松永友義氏「30周年を顧みて」)たものです。
両胸像は,寺崎校長式辞に「本講堂の左後方の森の中」と示されたとおり,現在より東側に建立されました。「昭和25~昭和27年頃の頴娃高校の様子」図(『創立50周年記念誌』(昭和56(1981)年2月発行)』所収)によれば,正門側から見て右側に多田校長,左側に樋渡校長像が示されており,現在と左右反対になっています。
この後,昭和45(1970)年の創立40周年記念の際に,現在の場所に移築されました。多田校長像の左手前に「創立四十周年記念 胸像移築 庭園造成 昭和四十五年六月 県立頴娃高等学校同窓会」の石碑があります。この胸像移築・庭園造成は,プール(この年10月に完成,平成26(2014)年解体)建設とともに40周年事業の中心でした。
『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の回顧座談会の中で,多田先生は自身の学校経営方針を尋ねられ,「私,マライ半島で長く働いており,開拓精神の必要性を痛感致しておりました。それで生徒にパイオニアの精神,欠乏に耐える精神,無から有を生み出す精神を教えることを念願としていました。」と話されています。
校是「開拓精神」の基がここにあります。
また,同座談会において,多田先生は学校経営で重きを置いたものとして,「立場をかえて考えよ」と「燃ゆる者のみが他を燃やす」の,2つの信条を挙げておられます。前者は「職員は生徒の立場に立ってものを考える,生徒は父兄や職員の立場で考えよ」という意味,後者は「自分が本当に燃える心でしなければ,周囲は動かない。燃ゆるもののみが人を動かす」という意味です。
次回は,創立30周年記念号の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を予定しています。お楽しみに。
2020年07月27日(月)
令和2年7月25日土曜日の愛校作業について(御礼)
令和2年7月25日土曜日の愛校作業を,作業の時間帯には天候にも恵まれて無事終了することができました。
参加いただいた保護者の皆さま方,生徒の皆さん,学校職員の方々,ありがとうございました。例年以上の参加者数と,草刈り機を持参いただいた方が多く,午前8時30分終了予定が午前8時に終了することできました。おかげでこの夏を生徒たちは整備された環境で過ごすことができそうです。
また,一日体験入学に参加する中学生たちも快適な環境で体験することが適いそうです。ほんとうにありがとうございました。
2020年07月27日(月)
頴娃高校創立90周年記念式典等の延期のお知らせ
本校は,創立90周年の記念すべき年を迎え,令和2年11月7日(土)に鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念式典・祝賀会等の開催を予定しておりました。ところが,新型コロナウィルス感染症の拡大防止のため,今後も様々な対応を取らなければならない状況を鑑みて,実行委員会で検討の結果,やむなく来年 令和3年11月6日(土)に延期することといたしました。関係の方々へお知らせいたします。
また,創立90周年記念事業に対する募金は,継続して令和2年12月28日まで集める予定です。その募金を用いて次年度に,予定しておりました各種記念事業を実施する方向で調整中でございます。
全国の同窓生の皆さまには,8月中に延期の御案内等をお届けできるように発送作業を進めております。
なお,今後の新型コロナウィルス感染症の状況によっては,変動もあり得ますことをご了解ください。
2020年05月29日(金)
学校訪問を予定されている外部の方へ
頴娃高校の訪問を計画されている企業,学校,諸機関の方々へお知らせとお願いになります。
頴娃高校では現在,新型コロナウィルスの感染予防に細心の注意を払い,努めている状況です。
本校を訪問される方々へ次の点についてご協力をお願いいたします。
・6月18日木曜日までは,特定警戒都道府県(東京,神奈川,千葉,埼玉,北海道)及び福岡県からの訪問はお断りしています。ただし,感染状況によって,地域,期間に変更が生じることもあります。
・必ず事前にご連絡お願いいたします。予約なしのご来校は対応が難しくなっております。
・事前の検温,体調確認,手洗い,マスク着用等,感染防止対策をお願いいたします。
・1回の面談時間は10分程度でお願いします。
・資料配布,資料説明等,送付や電話で可能な要件はご活用をお願いします。
・進路関係でWeb面談を希望される方は進路室までお伝えください。
・感染防止の観点から湯茶接待を行っていません。必要な時はご自身の水筒,ペットボトル等ご持参ください。
・面談場所,待機場所等通常とは異なる状況があります。ご了承ください。
・「コロナに負けるな」の心意気で頑張る頴娃高生にエールをお願いします。
今後ともご協力とご厚情を賜りますようお願いいたします。
参考:頴娃高校電話番号 0993-36-1141
頴娃高校FAX番号 0993-36-1142
進路室メールアドレス ei-sh161@edu.pref.kagoshima.jp
2020年04月10日(金)
新型コロナウィルスに関する当面の対応について
在校生の保護者の皆さまへ
脅威の存在となっております新型コロナウィルスに対する本校の対応についてお知らせです。
4月10日生徒便にて,「新型コロナウィルス感染症に関するお知らせ」を配布しています。
対応の詳細について記述しておりますので,必ずご確認をお願いいたします。
当面はプリントのような対応となりますが,今後については,
国,県,所在自治体からの新しい指示を踏まえての対応となります。ご了解ください。
プリントにもありますように,必ず,毎朝検温をしてから登校させてください。
子どもたちの安心,安全のため学校と保護者が連携して取り組むことができればと思っています。
常にも増して,ご協力方よろしくお願い致します。
2020年03月26日(木)
修了式・離任式
3月2日から休校となり,久々に登校した昨日,修了式と離任式が行われました。
校長先生は今年度で定年退職されます。
離任式の様子です。それぞれの場所でご活躍されることを願っております。
2020年03月02日(月)
卒業式
3月2日(月)
鹿児島県立頴娃高等学校 第72回卒業式が行われました。
今年度は感染症予防のため卒業生,
本校教職員のみの短縮形式での式典となりましたが,
3年生は堂々とした表情と態度でこの日を迎えていました。
普通科代表
機械電気科代表
学校長式辞
卒業生代表挨拶
校歌静聴
普通科11名,機械電気科37名
合計48名の卒業生の皆さん
ご卒業おめでとうございます!!
皆さんのこれからの人生が
光り輝くものでありますように
心からお祈りしています。
2020年03月02日(月)
表彰式
2月28日(金)
表彰式が行われました。
県教育委員会賞
産業教育振興中央会賞
県産業教育振興会賞
3ヶ年皆勤賞
全国工業高等学校長協会ジュニアマイスター
特別表彰
ゴールド
シルバー
ブロンズ
危険物取扱者乙種全類取得
日本漢字能力検定
2級
準2級
実用英語技能検定
準2級
日本語ワープロ検定
情報処理技能検定
表計算2級
受賞された皆さんおめでとうございます!!