既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(9)

公開日 2020年08月12日(Wed)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(9)-

                         校長 林  匡

今回は,創立70周年記念誌記載の文章を中心に,学校の様々な行事,生徒の活動に関することなどを紹介します。

一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

 

V 出典:『創立七十周年記念誌』(平成13(2001)年3月発行)

 

1 回想(雪丸重光氏,昭和42(1967)年機械科卒,昭和46(1971)年1月~昭和62(1987)年3月機械科在職)

 (前略)私の高校3年間の大きなウエートは,陸上部活動でした。3年間一生懸命取り組みましたが厳しいものでした。「足まめは練習で潰せ」の通り,足底にはいくつものまめができました。毎日ぐったり疲れて夜の坂道を1時間余り自転車を押して帰るのは,やはりきついでした。合宿も8月と10月に1週ずつ2回あり,8月は暑い中,10月は授業を受けながらでしたのでかなりハードでした。

 長距離部員が多く7名の駅伝メンバーに入るのは大変でしたが,何とか1年生の時から出走できました。市郡高校駅伝は,頴娃高から指宿商業高までの国道コースで行われ3年間とも優勝でした。県高校駅伝は,市営鴨池陸上競技場から喜入町までの国道を折り返すコースで行われ,55チーム中9位・9位・8位と公立高校の中ではだいぶ健闘していたと思います。

 赴任して早速陸上部顧問となり,転勤するまでの16年間部員と共に過ごし,その間に県大会・南九州大会で6位入賞して全国大会出場の選手も出てきました。夏合宿の最終日は,大野岳(※1)往復が慣例でした。(中略)

 校内マラソン大会は,創立記念日に合わせて5月に実施され,生徒時代は粟ヶ窪小学校グラウンドまでの折り返しコースでしたが,その後48(1973)年には11月実施に変わりコースも開聞町入野折り返しとなりました。更に52(1977)年には春向~木之元~九玉小裏から国道へ出る周回コースになりました。

 クラスマッチも盛んで,ソフト・サッカー・バレー・バスケット・テニス・ハンド・ラグビー・バドミントン・卓球・柔道・剣道・相撲・創作ダンス等多種目に渡り,(中略)中でもクラス対抗駅伝大会は,学校~物袋~水成川のコースで実施され,職員も2チーム作り対抗意識を燃やし(中略)盛況でした。その後57(1982)年に校内グラウンド中継の周回コースに変更になりました。

 体育大会は,科対抗から地域対抗となり東部・西部・北部対抗戦でしたが,殆どこの順位でした。49(1974)年度から学年対抗に変わり,3年生・2年生・1年生の順位でしたが,61(1986)年度は2年生が1位になりました。

 一日遠足は,花瀬海岸・大野岳・戸柱公園(※2)の順で実施され,全員徒歩遠行となり,各科毎の特徴ある自己紹介等があって就職してからの歓迎会等で応用したら喜ばれた話なども聞かれましたが,問題もあるとのことで衰退していきました。現地解散だったので,陸上部員は走って帰校するのが慣例でした。(中略。56(1981)年からPTAバレーが始まったこと,同窓会館建設・名簿作成の苦労などを記載されている。)

 現在私は夜間定時制高校に勤務し,昼間働き夜学ぶ様々な悩みを抱えた生徒たちと接しています。また先日は第1回車椅子駅伝大会に審判として参加しました。そして今シドニーでパラリンピックが開催されています。これらを眼にする時やはり頴娃高校生は恵まれている分,一人一人が学校構成者としての自覚を持ち,努力して学校全体を盛り上げより良い人生を送れるよう頑張って欲しいと思います。(後略)

 

2 思い出の一コマ(原田勇氏,昭和39(1964)年電気科卒,昭和39年4月~昭和58(1983)年3月電気科在職)

 (前略)当時はまだ自家用車は数少なく,昭和三十六(1961)年四月入学した頃は,通学生は国鉄バスで通っていたような気がします。その頃は道路状態は悪く(中略)曲がりくねり未舗装のでこぼこ道でバスや車が通った後は砂ぼこりでした。また西方面では枕崎より遠くの坊津町方面から二時間もかけてバス通学し,知覧川辺や池田方面からは南鉄バス(現鹿児島交通)や自転車通学で朝早くから通学している生徒もいて,よく頑張っているなあと感心したものでした。その後国鉄のレールが枕崎まで敷設され(注・昭和38(1964)年10月開通),通学生が楽に通学出来るようになりました。(中略)

 三十六年頃西門近くの道路沿いに平行に平屋建て瓦葺きの電気科の実習室があり,運動会の頃は先輩から大声で怒鳴られながら校歌や応援練習の声だしをしたものです。また,運動会は当初科対抗で応援席も材木や竹などを使って階段状のやぐらを作り応援したものです。

 その実習室の隣の東側にモルタル作りの電気工事実習室,高圧受電室(当時は実習設備でした)大理石受電盤三千三百V受電と配電盤丸形計器,柱上変圧器,遮断機,大きなうなり音の直流電源用大型電動発電機等)があり,これが無ければ頴娃高校は動かないと言うほどの威厳さを誇っていた。またモルタル作り電気工事実習室はその後現在の電気機器実習室北側(当時は農業科の施設が有りました)までグラウンドを通って道板とコロやジャッキを使い移動され,現在も工作工事実習室として残っている。その後,産業教育予算が令達され見違えるように施設,設備が充実していきました。電気機器実習室や製図室,電子工学実習室などの施設が建てられて実習室の移動があった頃です。電気工事実習ではこの部屋の中に直径三十cm程の木柱の電柱が建てられてあり,その木柱に昇柱器と柱上安全帯を付けて登り,電柱の上で腕木や硝子と電線を取り付けて配線する,外線工事実技実習を行ったり,外庭の草むらに穴を掘り長さ五m程の電柱を建てる建柱実習を行った記憶があります。その他専門教科は電磁事象(いまの電気基礎)電子(真空管からトランジスタ全盛期),通信,発送配電,機器,材料,法規等があり,製図等は三時間,実習も四~五時間みっちり行われていました。現在のように工業数理や工業基礎,情報基礎等の教科名は無く,その時間は実習や製図時間に割り当ててありました。

 受電室は後ほど六千六百V受電となり,現在の位置県道青戸線沿いに移りました。ここには定時制農業科のガラス温室があり綺麗なサボテンや温室の観葉植物がありました。

 電気と言えば強電中心でしたが「開拓精神」のもと,先輩諸氏の勉強への意欲は強く当時(一学級)の先輩は大多数が電力会社勤務と大手の有名電気企業が就職先でありました。その頃県内の殆どの工業高校に電気科が設立され頴娃や鹿児島工業に追いつけとハッパをかけてきました。(中略)二千年の節目を迎えIT時代を担う生徒の皆さん,他の学校に追い越されぬよう日々奮闘して勉学,部活動,体力増強に励み,頴娃の伝統を引き継いで欲しい(※3)と思います。(後略)

 

3 『我が青春』頴娃高校(永谷岩男氏,昭和44(1969)年土木科卒)

 (前略)その頃は,経済成長の真っ只中で,学校を卒業した者は,職と現金収入を求めて,都会へ都会へと就職し,上京,上阪して行った。頴娃高は,優秀な学校で,九大や鹿大などへ進学する者もおり,工業科にしても,東京都庁,石川島播磨重工,日産,トヨタ,大成建設,キャノン,などなど,そうそうたる就職先であった。神奈川県庁に勤めながら,関東学院大学へ進んだ私も,頴娃高卒であるという誇りをもって,仕事に学業に,励んだものである。(中略)

 当時は,瀬川文泉堂が東門のところにあり生徒たちにとっては,まさにたまり場であった(※4)。又,校内に購買部があり,休み時間には,にぎわったものである。校内食堂も,東門の近くにあったが,そこはおもに工業科の上級生が陣取っていて,女子生徒には,遠い存在だったのだそうである(注・永谷氏の御令室も頴娃高卒業生)。(中略)

 一年のときに,生徒会役員をすることになった私は,三年までかかわることになり,毎朝,汽車通学の生徒の交通整理と車内誘導を,眠さと戦いながらやり通し,後々自信につながっていった。(中略)三年連続,文化祭の実行委員長として,連日深夜まで,夢中でかけずり回ったことなど,やはり一番の思い出は,生徒会役員としての三年間のあれこれである。

 私の良き青春時代を育んでくれた土木科がなくなってしまい(※5),近くに存在するのに,訪れにくくなってしまった感のするのは,寂しい限りである。

 

4 野球部九州大会初出場(森口 洋氏,平成元(1989)年4月~平成8(1996)年3月保健体育科在職)

 平成5(1993)年春,第92回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選準決勝戦は,県立鴨池球場において両校全校応援の大声援のもと鹿児島高校対頴娃高校の白熱した試合となっていた。この試合に勝てば決勝戦進出,さらに九州大会出場が決定する。

 振り返ると,平成元年,前任地加治木高校から中古のバッティングマシーンと共に赴任してきた。早速,電気科・機械科の先生方のご協力のもと,無事修理に成功してマシーンバッティングができるようになった。

 次はグラウンド作りだった。内野をスコップで掘り返し石ころを取り除く作業,慣れない手つきで手のひらには大きなマメを作りながら,部員全員で立派な内野グラウンドを作り上げた。グラウンドを見つめては,当時の先輩達に底知れぬ期待を感じたものだった。

 その年の秋の九州大会県予選でベスト8に進出。準々決勝では強豪の鹿児島商業に9回裏ヒットあと一本でサヨナラ勝ちという戦いだった。二年生は試合当日が修学旅行の出発日と重なったが,試合に全てをぶつけ見事な戦いをしてくれた。(中略)

 保護者の反省会はいつも大いに盛り上がり,子犬の名前まで“ベスト8とえいで,エイト君”と決めてもらった。現在エイト君は高校前のスポーツ店でのんびりと暮らしています。

 平成3(1991)年春,先輩達のおかげで頴娃という名前で相手と戦えるチームになっていた。投打のバランスのとれた新しい頴娃野球ができ,ベスト8に進出したが準々決勝戦ではまたしても鹿児島市内の鹿児島商工(注・現樟南高等学校)に,NHK選抜大会では出水中央に,夏の大会は二回戦で鹿児島実業に敗れてしまった。「選手個人の力は劣ってはいない」と思うが勝てない,当時の私を高校野球関係者は,エイト監督と呼んでいた。“鹿児島市内勢を倒す”このことが私の最大の課題となり,頴娃野球の打力と精神力を更に高めるために,保護者会にお願いをしてバッティングマシーンを購入していただいた。打力向上策としては,早朝の練習においてティバッティング200本を義務づけた。この時期には揖宿郡内・枕崎地区からも優秀な選手が頴娃に集まりだしていて部員数も増え戦う戦力が整いつつあった。

 平成4(1992)年春,ベスト16。NHK選抜大会出場。秋,ベスト16とチームが変わっても安定した成績が残せるようになっていった。

 いよいよ平成5(1993)年の春,初戦(注・二回戦。南種子高校)いきなりのピンチ,先発投手のエースがオーダー交換後に腰痛発覚。一球目にスローカーブを投げてデッドボールにして交代だこんな指示は初めて出した。ところが,その一球目は三塁打を打たれて交代,代わった投手が三塁ランナーを牽制でアウトにしてなんとか初戦突破。三回戦では,シード校鹿屋に1点差勝ち,四回戦では,めったにしないスクイズも決まり松陽に勝ち,準々決勝では打線が爆発して武岡台を破りベスト4に進み,いよいよ準決勝戦。全校生徒の応援(※6)のもと,4対4で迎えた延長11回表,代打には腰痛の回復したエース。投げられない悔しさをバットにぶつけタイムリー二塁打,1点勝ち越し,その裏を抑え,鹿児島を破って決勝進出,悲願の九州大会出場決定。決勝戦では,鹿児島玉龍を6対1で破り,高野連創設以来初めて郡部からの優勝を勝ち取ることができた。

 この年の3年生25名は,入部後一人の落伍者もなく先輩達から引き継いだ伝統を後輩達に指導しながら新しい頴娃野球を作ってくれた。特に,試合にはほとんど出番がなく三塁コーチャーの役割をみごとにこなし,部員63名を素晴らしいチームにまとめてくれた主将の外薗勝君には感謝したい。

 学校関係者,保護者会,地域の方々,全校生徒の温かい励ましのもとで頴娃高校野球部が九州大会に初出場(※7)することができたこと,また,私自身の課題の鹿児島市内勢を倒すことができたことに深く感謝しております。(後略)

 

※1 大野岳(465.9m)はトロイデ型の火山で頂上まで登山道路がある。自然観察,植物採集,ハイキング,キャンプ場として格好の場所とされ,山頂一帯には灌木群,クマ ザサなどが自生する。タムラソウ,ヒゴスミレは北方植物自生の南限とされている。昭和63(1988)年度には,生活環境保全林整備事業が実施され,植樹をはじめ遊歩道の整備がなされた。  (参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行)1990年)

※2 頴娃町域東南部の海岸平野前面は小規模な浜堤になっており,防潮林が植林されている。かつては地曳き網業が盛んだった。砂鉄の鉱床を胚胎しているので,江戸時代末頃から明治時代,製鉄業の原料として採取された。昭和27(1952)年,原口金属鉱業・東邦金属頴娃鉱業所が進出して,前原海岸・高取海岸・馬渡海岸で機械採取を始めた。頴娃高校電気科を昭和29(1954)年に卒業された坂元喜久治氏「授業料500円の時代」(『創立80周年記念誌』(2011年)所収)には,「頴娃の周辺の様子ですが,昭和33(1958)年から36年まで鳥(ママ)取浜周辺で東邦金属の砂鉄の採取が始まり,私も電気係で入社しました。従業員が60人でした。当時,砂鉄の売上高は頴娃町の予算より高かったです。(中略)電気使用量も当時,揖宿郡の家庭電気使用量を上回っていたのです」とある。昭和36(1961)年,旧頴娃町は海岸線の保全計画を立て平成6(1994)年までに防波堤を完工している。

 瀬平海岸は海食崖や岩礁がある。大正5(1916)年,頴娃・山川間の県道が開道するまでは「瀬平渡り」といい,海に突き出た岩と岩の間隙を,波しぶきを浴びながら跳んで渡る交通の難所だったという。また,別府海岸の海岸線は屈曲に富み奇岩・岩礁が散在している佳勝地で,戸柱・番所鼻からの景観が素晴らしい。(参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行)1990年)

※3 同じ創立70周年記念誌に寄稿された,鹿原徳子氏(旧姓祝迫,昭和41(1966)年普通科卒)は,この当時北海道登別市市議会議員(三期目)。市議会議員出馬が新聞報道された日に夫を亡くされ,その後,初当選をされた。以来10年間,男性中心の社会で努力活動を重ねられ,三人の娘さんを社会人として育てたことを記された上で,

 「振り返って思えば,私は就職も,結婚も,議員になる時も,全て,人生の選択の時,自分の意志で決めてきました。自分で決めた事は,全て自分の責任ですから,目的に向かって全力投球あるのみです。「運命」は自分自身で切り拓いていくものだと思います。まさに,頴娃高校の「開拓精神」そのものです。大切なのはプラス指向です。いつまでも過去を引きずらないことです。今は,女性も男性と同じように,実力さえあれば社会的に重要な立場になれる時代です。在校生の,特に女生徒の皆さん,人生はあなた自身のものです。積極的に,自分の意思で運命を切り拓いて行って下さい!!」とのエールを送っていただいた。

※4 社会に出てからの悩み,苦しみの中で「自分にいつも勇気をくれたのは,頴娃高校の『開拓精神』の4文字であった」という斉藤耕太郎氏「わが人生に頴娃高あり」(『創立80周年記念誌』(2011年)所収)(昭和50(1975)年普通科卒)の同文中にも,「頴娃高校といえば,切っても切り離せないのが瀬川文泉堂。当時は頴娃高の裏門のところにあったが,今は正門前に移った。(中略)そしてもうひとつ,西頴娃駅前のあさつゆ食堂のチャンポンが美味しくて,今でも定期的に食べに行っている。」と,頴娃高校周辺の生徒にゆかりのある店舗について記されている。

※5 土木科は,昭和51(1976)年募集停止となる。(第6回注7参照)

※6 「4月13日,花瀬海岸への一日遠足を急遽変更,バス十台を連ねての鴨池球場での全校応援となりました。鹿児島高校は全校生徒二千四百人,対するわが頴娃高校は七百人,しかし,試合も応援も負けません。」(『創立七十周年記念誌』所収,第17代校長(平成3(1991)年~同6年在職)上床光弘氏「伯楽と千里の馬」)。全校応援はこの翌日の決勝戦でも行われ,千名を越える鹿児島玉龍高校相手に生徒達が「校歌を思い切り歌い,腹の底から声を張り上げてエールを交換し,即席の応援のウェーブも実に見事」だった。

※7 九州大会では,1回戦で長崎の島原高校に勝利し,2回戦で熊本の城北高校に敗退したものの,九州地区ベスト8に入る。

 

 いかがでしたか。この70周年記念誌には,これまで紹介してきたような,先生方や先輩諸氏の,かつての御苦労や,70周年記念式典の行われた平成12(2000)年当時の御活躍の記録が多数掲載されています。

 この他,篠原信幸氏(昭和53(1978)年~同61(1986)年建築科在職)は,「思い出」として,在職中の悲しい出来事として,生徒の単車交通事故があり,そのために学校では,毎月1回のノーカーデー(その日は生徒も職員も単車や車に乗らない日と決められた)に取り組まれたこと,そして「今でも,あの頃と同じ緑色のヘルメットをかぶって単車にまたがっている頴娃高校生を見ると,あの頃を思い出します。」と記されています。

 生徒の安全と安心を願う気持ちは,以後も変わらず本校に受け継がれています。

 

 さて,次回でこの「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」シリーズも10回に及びます。最終号として,平成22(2010)年度,創立80周年を記念して平成23年3月に発行された記念誌から紹介します。お楽しみに。