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2020年8月

  • 2020年08月20日(木)

    一日体験入学および体験入部について

     8月4日,中学3年生を対象にした一日体験入学が行われました。普通科18名,機械電気科25名の合計43名の中学生が参加し,各学科毎に分かれて本校の授業や実習を体験しました。

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              普通科(国語)の授業体験の様子

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               普通科(理科)の授業体験の様子

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           機械電気科(機械コース)の実習体験の様子

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            機械電気科(電気コース)の実習体験の様子

     大変暑い中での一日体験入学となりましたが,中学生の皆さんは一生懸命に授業や実習に取り組んでいました。そして,各学科毎の体験を終えた後,希望者を対象に部活動体験も行われました。

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             体験入部(バスケットボール部)の様子

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             体験入部(バドミントン部)の様子

     また,8月20日には,部活体験のみの日程が計画され,15名の生徒が約2時間にわたり本校生徒と一緒に汗を流しました。

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     中学生の皆さん,少しでも本校について,または学校や部活動の雰囲気を感じていただけたでしょうか。これからいよいよ本格的に進路を決定する大事な時期となります。今回の体験入学および体験入部が,少しでも皆さんの進路選択の参考になれば幸いです。二日間にわたって参加していただき本当にありがとうございました。  

     

     

  • 2020年08月12日(水)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(10)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(10)-

                             校長 林  匡

    最終号として,平成22(2010)年度,創立80周年記念誌から紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    VI 出典:『創立80周年記念誌』(平成23(2011)年3月発行)

    1 時代の流れと母校(濵﨑貢第23代校長,昭和41(1966)年普通科卒,平成17(2005)年4月~平成19(2007)年3月在職)

     (前略)昭和38(1963)年は本県の高校進学率が6割に達したばかりでしたが,団塊の世代の入学とあって,生徒の急増にどの高校も学級定員や学級数の増加,学科増設で対応しました。特にこの年は指宿枕崎線が全線開通したことと相まって,頴娃高校の生徒数は1,280名に達する勢いでした。牧之内の街角には生徒の笑顔が弾け,西頴娃駅の朝夕は列車通学生で溢れかえりました。頴娃の町が最も活気に包まれていた頃でした。

     東京オリンピックを契機とした我が国の目覚しい高度経済成長は,ブルーカラーの人気がホワイトカラーを凌いでいました。この様な社会志向が工業系学科の生徒の進路幅を著しく拡大させ,その入学倍率は上昇の一途を辿るばかりでした(※1)。進取の気鋭をもった頴娃高校の当時の工業系4学科(注・電気,土木,建築,機械科)は,官公庁,国鉄,電電公社をはじめ,我が国のメジャーな企業にあまたと卒業生を排出する名門でした。本県工業高校の四天王と呼ばれた所以です。

     質と量に富んだ技術力に担保された国の高度経済成長は,国民の価値観と生活スタイルに変化をもたらし,40(1965)年代後半には人々の職業意識にはブルーカラーからホワイトカラーからホワイトカラーへの逆のうねりが生じ,高校進学の志向を専門系学科から単独の普通科系高校へ転換させました。この社会事象が頴娃高校創立以来,輝かしい歴史と実績を誇る普通科に,向かい風を煽ることになったのです。さらに,道路交通網の整備(※2),少子化や学区の拡大(※3)などによって状況は一層厳しくなりました。

     私は昭和38(1964)年に普通科に入学し,42年ふりの平成17(2005)年に母校に帰ってきました。学科の構成は普通科2学級,電気,機械,設備工業科がそれぞれ1学級,生徒数は42年前の3分の1でした。赴任当時の私に,卒業生や地域の人々の声が怒濤のように押し寄せました。「母校の開拓精神はどこに消えたのか?」,「頴娃高校のかつての実績を取り戻せ!」,「再び国立大学の合格者を出せ!」などなどです。私にはこの声を理不尽な怒号と受け流すことは許されませんでした。地域を発展させ,遠く北は樺太や満州,南は東南アジア諸国の電源開発や国土整備に赴き,天地を動かした卒業生(※4)の切なる声であると受け止めたからです。頴娃高校出身の者として,この切なる声のたとえ一部でも応えることが私の命題であると認識しました。

     赴任当時,部活動は野球(※5),ソフトテニス,剣道,吹奏楽(※6),自動車(※7),図書の各部をはじめ多くの部活動がかなりの成果を挙げていました。資格取得や物づくり(※8)においても,県内優勝や九州大会出場を果たすなど他校に秀でた活躍を見せていました。したがって最大の課題は,生徒を国立大学に合格させることでした。「進学指導に求められるのは,生徒に自己実現の意欲を掻き立たせる教師の情熱である」,私が38年間貫いた単純な信念です。これを汲み取ってくれたのが,進路主任と3年の学級担任をはじめとする多くの職員でした(※9)。さっそく始まった課外授業は,大規模の普通科高校のそれとは異質の形態です。生徒一人ひとりに張り付いた職員は生徒の心に入り込むことから始め,人の在り方生き方を語り,学問の意義や価値についても議論してくれました。次第に意欲に目覚めた生徒たち,驚くほどの集中力を見せ膨大な学習量をこなしました。勿論,彼らに笑顔の日ばかりがあった筈はありません。学習が進むにつれ教師の要求の高さと指導の厳しさに涙を流す者も出ました。受験前夜は深夜に及ぶ学習も常でした。このような学校生活を日常として1年後,彼らの学力は確実に大学入試を制するまでになったのです。この集大成として平成18(2006)年の春には,九州内外の国立大学と名門私立大学にそれぞれ数名が合格しました。この実績を当時の生徒数から割り出せば,大規模の普通科高校のそれを十分に凌駕しているとして,県内外の高校からの学校訪問を受けるほどになりました。職員が誇りにしたのは実績としての数値や割合ではありません。生徒と教師の間に繰り広げられる瑞々しい人間模様こそ教育の本質であり,それが頴娃高校に蘇ったことを誇りにしたのです。(中略)頴娃高校はこれまで地域の発展に大きな役割を果たしてきた学校です。一方,地域において頴娃高校の存在とその果たす役割は一層大きくなるに違いありません。頴娃高校と地域はどのような相補関係を保持していくのか頴娃高校の課題ではありますが,むしろ同時にこれは地域にとっても喫緊にして最大の課題であるはずです。(中略)

     生徒として頴娃高校に学び教師の最後を母校で締め括った者として,私には母校の八十周年の歴史に感慨ひとしおのものを禁じえません。頴娃高校に活気が薄れてなどしていません。頴娃高校の日常に開拓精神は,今なお健在なのです。

     地域の全ての皆さんが,頴娃高校に繰り広げられる肌理(きめ)の細かい理想ともいえる教育を,地域の高い教育資産であると認識して,地域の生徒を地域の頴娃高校に学ばせて欲しいものです。

     

    ※1 集団就職列車,高度成長期の状況など 

     鹿児島県で初めて,全国でも初めてという試みだった集団就職臨時列車が鹿児島駅から発車したのは昭和31(1956)年3月30日だった。以後,昭和49(1974)年の最終便まで毎年編成され,計14万人以上が大阪・名古屋・東京方面へ運ばれた。背景には,敗戦後の経済復興から高度成長期を迎え,工業立国が図られる中で,その労働力として若年労働者が求められた。昭和35(1960)年の鹿児島県経済振興計画でも,県農業の体質改善が図られる。この中で,職業紹介活動の強化,県外労働市場の開拓,海外移民の促進などが進められた。この影響が学校教育にも影響を与え,産業教育の推進が図られ,高校へ進学する者も,就職率のよい工業系・商業系に進み,農村地区では普通科が敬遠されたという。

     なお,中学生の進学率が就職率を追い越したのは昭和33(1958)年で,同46(1971)年には80%を越える。また,集団就職者は昭和39(1964)年をピークに減少していく。県外就職者の多くは帰ってこなかったが,昭和30年代の県民所得からは,県民分配所得に比べて個人所得が常に上まわること,県外就職者からの送金などによる送金所得がその大部分を占めていた。

       (参考文献『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)

    ※2 道路交通網の整備

     例えば『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)には,「昭和から平成への架け橋,瀬平橋建設工事」の写真(昭和63(1988)年頃)が収められており,その解説には「かつての国道は,麓,鬼口集落を過ぎて開聞方向に進むと,大きく左に迂回していた。円滑な進行のために,昭和62(1987)年度から平成2(1990)年度にかけて瀬平橋の建設が始まった。」とある。なお,同書には,昭和40(1965)年代の頴娃町三俣商店街の風景も収められている。(三俣は,文字どおり,三差路交差点を中心にして,昭和以降発展した町。頴娃高校の前身である高等公民学校もこの地において,昭和6(1931)年創立された。三俣商店街は,昭和44(1969)年の町役場移転(8月新庁舎開庁)や県道の整備に伴い発展した。)昭和49(1974)年には,国道226号から頴娃小学校に向かう三差路に,歩行者の安全確保のため,手動交通信号機が設置され,神事が執り行われた時の写真もある。

    ※3 戦後,新制高校は,始め教育委員会法(1948-56年)に基づき,総合制と男女共学,学区制の導入が進められた。自治体(市町村)に一校とされていたので,例えば,鹿児島市にあった県立高校は,鹿児島工業・二高女・一高女・二中・一中を合併して鹿児島高等学校と称し,順に一部から五部までの部制であった。しかし卒業生を1回出した後,三部と五部,二部と四部が合併し,鶴丸高等学校,甲南高等学校に,一部は男子校の工業学校となる。           (参考文献『鹿児島県の近現代』)

     鹿児島県では「職業教育と普通教育を統合して,地域に根ざして総合的な教育を実施していこうとする地域総合高等学校という理念は実現しにくいものをもっていた」こと,地域総合制の理念に基づく学区制の実施は1950年度から実施(普通科課程は学校ごとに学区制をつくり,職業科課程は全県からとして学区制を設けなかった。)されたこと,一高等学校一学区制の方式は6年しか続かず,実施から間もなく撤廃の意見が出され,昭和31(1956)年4月から中学区制に変わっていたこと,学区制も実質的には市郡単位にしたものが多く,広域的なものであったこと,などが指摘されている(神田嘉延「町村立高校の形成と勤労青年の学習-鹿児島県の事例を中心として-」『鹿児島大学教育学部研究紀要』教育科学編第48巻,1997年)参照)が,通学区の広域化は,地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法,1956年制定)に基づき全国的に見ても,多くの県で進んだとされる。1960年代後半以降,普通科高校の増設により学区内の学校数が増加し,大学区化傾向が続く。1970年代にかけて,「高校進学率は一挙に90%を突破するところとなり,高校受験がすべての中学生を対象とするようになったのである。この時期の政策意図としては高卒の労働力養成機関として職業科の増設を望んだが,住民は大学進学に有利な普通科高校の増設を期待した。そうした軋轢の中で各県は高校増設に取り組み,主に普通科高校の量的拡大が図られた。その際に広域に設定された通学区内に多くの普通科高校が併存することになり,交通手段の発達とともに序列化が進み学校間格差が生まれていったのである。」(水上和夫・野﨑洋司「高校通学区制度に関する研究」『神戸大学発達科学部研究紀要』第6巻第1号,1998年)

    ※4 『創立80周年記念誌』及び『創立七十周年記念誌』(2001年3月発行)から,卒業生の活躍事例を以下に紹介する。

    (1) 海外

    ○ 企業就職・退職,大学卒業を経て建設コンサルタントに入社され,メコン河開発(国連と世界銀行が組んだナムグムダムプロジェクト)に参加,ジャングルの中,マラリヤに罹患された苦労もありながら技術支援に当たった経験を基に,海外に出て異文化に触れ友人をつくろうと寄稿された東望氏(昭和36(1961)年土木科卒,『創立80周年記念誌』所収「海外の仕事で学んだこと」)

    ○ 土木関係の仕事をされ,20代後半に青年海外協力隊に応募し,アフリカのタンザニアに2年余の間,土木施工の隊員として派遣され道路建設プロジェクトに参加された,和田賢志氏(昭和51(1976)年土木科卒,『創立80周年記念誌』所収「世界へはばたけ」)

    (2) 国内

    ○ 戦前,華北電信電話株式会社に就職され天津で勤務,戦後,厚生省(現・厚労省の前身)本省の採用試験に合格し,以後,頴娃工業学校の校訓「誠と熱」(いかなる問題に直面しようとも誠意と熱意を持って対処すれば必ず道は開ける)を道標に,福祉行政で老人福祉法制定や老人医療制度の制定に携わり,身体障害者福祉法改正では提案責任者として取り組まれたほか,国民年金法による障害基礎年金適用の課題解決に当たったことなどの御経験を寄稿された池堂政満氏(昭和18(1943)年電気科卒,『創立七十周年記念誌』所収「母校の教訓を心の支えに福祉に取り組み五十年」。池堂氏は『創立六十周年記念誌』(1991年3月発行)にも「在学時代の思い出」として寄稿されている。)

    ○ 頴娃高校吹奏楽部創部時の生徒で,映画・放送・演劇界から大学教授となり,作曲家,芸術情報研究で活躍され,三州倶楽部監事や関東鹿児島県人会連合会副会長なども歴任された新徳盛史氏(昭和31(1956)年普通科卒,『創立80周年記念誌』所収「母校の傘寿で思うこと」)

    ○ 企業の研究所で海水淡水化装置や各種電池など新製品開発,石炭の利用技術や排ガスからの窒素酸化物除去などのエネルギーや環境関係などにも当たられた西昭雄氏(昭和36(1961)年普通科卒,『創立80周年記念誌』所収「回顧50年とこれからを思う」)

    ○ 企業就職後,学士資格を取得し国鉄に採用され,大型プロジェクト工事や民営化(JR),その後も鉄道電気設備を中心に様々な企画運営等に当たられた齊藤功氏(昭和38(1963)年電気科卒,『創立80周年記念誌』所収「記憶・実践・期待」)

    ○ この他にも,県外企業,公務員など様々な方々が活躍されています。

    (3) 県内

    ○ 警察署使丁から教員検定試験を受け小学校教員,校長の道を歩まれた電気科第1回卒業生の園田實則氏(昭和8(1933)年卒,『創立80周年記念誌』所収「創立80周年に思う」)をはじめ,この他にも教職に就き,本校を始め活躍された方や公務員として実績を挙げられた方々

    ○ 小児科医として活躍され,鹿児島県小児科医会会長も務められた鮫島信一氏(昭和29(1954)年普通科卒,『創立七十周年記念誌』所収「只今65歳「子育て支援」に頑張っています」)

    ○ 九州電力を経て,昭和54(1979)年,40歳で県議会議員に当選され,以後5期20年県政に関わり,平成11(1999)年退任された後,高齢者福祉事業に取り組まれた松村武久氏(昭和34(1959)年電気科卒,『創立80周年記念誌』所収「人生はドラマなり!」)

    ○ たばこ・米・甘藷等の農業経営と自動車学校勤務について寄稿された福留順一氏(昭和36(1961)年農業科卒)

     このように,周年記念誌からだけでも,挫折や逆境にも負けず各方面で,活躍された先輩達が確認できます。皆さんは思いを込めて,後輩たちへのエールを送ってくださいました。

     例えば,高校時代からマンガを描き始め,2年生の時に新人賞,3年生の時にマンガ賞を受賞し,星のカービィなどの作品で活躍されているマンガ家の川上ゆーき氏(平成21(2009)年設備工業科卒)からは,「やりたいことをやってやろうじゃありませんか。ただ,前だけを見て生きていけばいい」との励ましをいただいています。(『創立80周年記念誌』所収「マンガ」から)

    ※5 野球部

     塗木哲哉氏(平成11(1999)年4月~平成18(2006)年3月数学科在職)指導のもとでの頴娃高校野球部の活躍は,同監督の「7年間の軌跡」(『創立80周年記念誌』所収)に詳しく書かれている。塗木監督は「自分の可能性を信じ,決してあきらめないで人生を過ごしてほしい」という思いから,部日誌表紙に「可能性への挑戦」と書かれ(これは御自身にも言い聞かせていたのだと後に回顧されている。),平成12年度から監督となり,生徒の感情と意識を高めようと,初めの関西遠征で甲子園を生徒に体感させたという。

     塗木氏の尽力と生徒の意識向上により,野球部は平成13(2001)年に3年ぶりのベスト16入り,翌14(2002)年第110回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選では8年ぶりの県大会ベスト8,5月の第44回NHK旗大会でもベスト8(準々決勝の樟南戦では全校応援実施),10月の第111回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選では,優勝した平成5(1993)年以来,9年半ぶりの県大会ベスト4(秋季大会初)という成果を挙げる。

     これらの結果,第75回記念選抜高等学校野球大会21世紀枠の鹿児島県推薦校に選出される。平成15(2003)年の,第112回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選もベスト4,10年ぶりの九州大会に出場し,県勢唯一のベスト8となる。部員数は増加し,最大時70名に及んだ(全校男子生徒の5分の1)という。

     なお,塗木氏は,進学指導についても記載されている。2回目の1年生普通科担任時,国立大学合格者を出したいという思いを深くされ,生徒・教職員に働きかけたこと,結果,4名の合格者を出したこと,御自身がされたことは「受験する気持ちを作ってあげること」であり,職員が「みんなで学校を良くしよう,盛り上げようと思っていたと思います」と記されている。

    ※6 吹奏楽部

     脇兼光氏(平成11(1999)年4月~平成19(2007)年3月芸術科(音楽)在職)は,「私が赴任した時には吹奏楽部員はほんの数人で,ほとんど休部状態でした。楽器も古いものが少ししかなく,部活動としてはできない状態でした。(中略)その後平成14(2002)年から吹奏楽部経験者が入部してきて,吹奏楽部が10人ほどで再スタートしました。楽器も順次購入していただきました。それまでテープをながしていた入学式や卒業式,そして体育祭等の学校行事,さらには鴨池球場での野球の全校応援で吹奏楽の生演奏ができるようになりました。その後老人ホームや保育園で訪問演奏も行い,施設の方々に喜んでいただきました。平成17(2005)年と18年には少人数でしたが定期演奏会を開催しました。(中略)終了後の反省会で生徒たちの本当に喜び満足げな表情を見た時,大変だったけれども開催して本当に良かったと思いました。多いときでも20人弱の部活動でしたが貴重な思い出の一つになりました。」と寄稿されている(『創立80周年記念誌』所収「思い出あれこれ」)。

    ※7 自動車

     機械部の活動である。『創立80周年記念誌』所収の,吉永和人第21代校長(平成12(2000)年4月~平成14(2002)年3月在職)「年年歳歳その2」に,「当時,本校は県下唯一,「エコカー」を研究・製作しておりました。権堀先生,吉元先生の指導のもと,毎年,全国大会で優秀な成績をおさめておりました。」とある。

     これは,権堀栄一郎氏(平成8(1996)年4月~平成13年(2001)年3月機械科在職)による「燃費1000km/リットルを目指して」(『創立80周年記念誌』所収)によれば,「「1リッターのガソリンでどこまで走れるか」という無限の可能性をテーマにしたエコノパワーレースへの挑戦」であったという。契機は,権堀氏が機械部顧問となったことと,県の「魅力ある高校生活づくり」事業への応募だったことが記されている。

     権堀氏が担任したクラスの生徒に声を掛けたところ「話が広がり機械科だけでなく,電気科と設備工業科の生徒も巻き込んで燃費1000km/リットルへの挑戦が始まりました」。1年目は車体製作で試行錯誤され,鹿児島市の自転車専門店の協力で,無料で車輪を作っていただいたこと,地元のバイク店では「レアな部品を無料で提供して頂いただけでなく,翌年には九州大会にまで応援に来て頂きました」という。

     この2年目の夏,熊本県で開催された九州大会に初出場し,参加52台中362km/リットルの記録で第7位という快挙を成し遂げ,翌年にはエンジンを改良,九州大会で457km/リットルの記録更新,栃木県で開催された全国大会に初出場し,479km/リットルの自己最高記録を出したものの,全国でのものづくりのレベルの高さもまた実感されたとある。

     4年目には新たな車体・エンジン製作に取り組み,毎週日曜日に知覧自動車学校の教習コース(無料で貸していただいた)で練習を重ね,平成13(2001)年の全国大会では634km/リットルの記録更新を果たした後も,機械部の取組は続き,翌年には800km/リットル以上の好記録を出したという。

    ※8 ものづくりについて

     福永勇二氏(平成11(1999)年4月~平成18(2006)年3月電気科在職)「在職時代の思い出」(『創立80周年記念誌』所収)には,「頴娃高生の底力を発揮する出来事」として,平成16(2004)・17年,高校生ものづくりコンテスト電子回路組立部門に2年連続優勝し,九州大会に出場できたこと,県大会に出場したもう一人の生徒も,2年連続3位入賞という快挙を成し遂げたことを挙げられ,この県大会は,平成15(2003)年に始まり「当初は難しいと敬遠されていた部門で取り組む生徒が少なく,我々指導する側も何もかも初めてで,回路の動作を理解したり電子部品の調達など苦労しました。また,コンテスト課題も平成17(2005)年から設計・製作する回路に加えて,制御対象回路を組み合わせたコンピュータシステムを作り,一つの動作をするプログラムを完成させるという新しい分野が取り入れられ,大幅な課題変更に戸惑いました。しかし,やると決めたら難しい課題でも果敢に挑戦する生徒達と,試行錯誤しながら放課後遅くまで取り組めたのも,共に開拓精神の頴娃高魂が宿っていたからだと思っています。」と記されている。

     小野通男氏(平成13(2001)年4月~平成17(2005)年3月機械科在職)「80周年おめでとうございます」(同)にも,「自分自身も機械部としてエコカーやロボット競技に参加させて頂きました。機械部の生徒は,特に優秀で,旋盤や溶接機など自由自在に使いこなす技術屋さんでした。大会等近づくと,工場に生徒と寝泊まりしてエコカーやロボットを製作していました。今想えば,頴娃の生徒の努力やがんばりは,すばらしいものだったと思います。自分たちで,いろいろなアイデアや工夫を出し合って,九州大会や全国大会に出場しました。(中略)先生方も研究熱心で,指導力の優れた方達ばかりでした。スターリングエンジンを作ったり,溶接でいろいろなものを作ったりしました。」と記されている。

    ※9 稲本麻里氏(平成12(2000)年4月~平成21(2009)年3月国語科在職)の「頴娃高校の思い出」(『創立80周年記念誌』所収)に「(9年間の在職期間)中でも印象深いことの一つは,長く途絶えていた国公立大学進学者をだすという悲願が達成されたことである。」として,この目標達成に,まず生徒指導と授業を大事にする雰囲気,学習に向かう姿勢づくりなど基本的なことに取り組み,長い時間を要しながらも,普通科の悲願として継続され,生徒・職員が「一つの目標に向かって一丸となって向かっていくチームのような雰囲気ができていた」結果,平成18(2006)年春に達成されたことが記されている。

    ※10(編集後記中)胸像-井上知治氏と池田清氏の胸像

     井上知治氏(明治19(1986)年7月~昭和37(1962)年9月)は,大正6(1917)年東京帝国大学法学科卒,昭和5(1930)年に衆議院議員に初当選以来,4期連続当選。昭和17(1942)年,大政翼賛会の推薦にもれ落選したが,同21年の総選挙で当選,以来3期連続当選。この間,昭和22(1947)年2月に,帝国議会最後の副議長に就任,同23年10月には国務大臣・賠償庁長官に就く。昭和28(1953)年4月に参議院議員当選,次回の同34年の参院選は老齢を理由に辞退する。

     井上氏の胸像は西頴娃駅前に建立された。このため,昭和40(1965)年10月に,旧頴娃町有地と県有学校敷地の交換がなされている(頴娃町牧之内中諏訪原)。現在,頴娃高校西門手前に池田清胸像と並んである。

     池田清氏(明治18(1985)年2月~昭和41(1966)年1月)は,大正2(1913)年東京帝国大学卒,警察官僚として警視庁警部,大阪府警察部長を歴任し,昭和11(1936)年北海道長官,大阪府知事を経て,同14年9月,第46代警視総監となる。後に海南島司政長官となり,昭和27(1952)年10月,衆議院議員に初当選,2期2年8か月,代議士として活躍した。

     池田氏の胸像は,昭和43(1968)4月,建設に当たって校地交換がなされ,頴娃高校正門東側(頴娃町牧之内三俣下)に建立された。その後移され,現在は西頴娃駅から頴娃高校西門に向かう途中,井上知治胸像の右側に並んで置かれている。

    (参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))

    【編集後記】

     令和2(2020)年4月,鹿児島県立頴娃高等学校に着任しました。新型コロナウイルス感染症対応での臨時休業明け,なんとか始業式,入学式を行うことができ,少し落ち着いた頃に,広い敷地の学校内外に現存する記念碑や胸像(※9)などについて,その来歴や意味に関心を持つようになりました。直接碑文などを確認しても,磨滅などで判読が難しいところもありましたが,過去に発刊された創立記念誌の各所に関係の文章が記載されていることや,既刊の『頴娃町郷土誌』などの書籍でも補足できると気付きました。

     今年度,頴娃高等学校では,創立90周年記念式典(11月)・事業等が予定されていました。しかし,新型コロナウイルス感染症対応として,4月下旬から再び本県公立高等学校の臨時休業が行われます。学校再開後,その後の全国的な状況を踏まえ,創立90周年記念事業実行委員会において,記念式典等の開催延期が決定されました(今年度予定されていた県内公立高校の記念式典関係は軒並み延期されました)。

     このため,今年度入学した生徒,新たに着任した私を含む教職員をはじめ,在学生・教職員が,学校の歴史や,校是「開拓精神」の由来や,関係職員・卒業生等がどのような想いでこの場で過ごし,卒業後,本校での学びを基に,どのように活躍され,苦難を乗り越えたのかといったことなどを振り返り,知り得る機会も延期されることになります。

    この「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」シリーズをまとめようと考えた契機の一つは,現在本校に関わる生徒・教職員他多くの方々にとって,改めての参考になればと考えたからです。

     なお,私事ながら,記念誌の中に,頴娃高校で勤務された教職員に,私が初任校(錦江湾高校)社会科で御世話になった山田尚二先生(昭和28(1953)年4月~昭和38(1964)年3月社会科在職)の文章があり(『創立六十周年記念誌』所収「初任校・頴娃高校の思い出」と『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)所収「初任地の思い出」),懐かしく拝読しました。回顧には,当時の教員生活や生徒の指導,放課後の卓球や写真,囲碁にも打ち込んだこと,勤務10年目に小中学校の副教材用の頴娃沿革史の執筆を依頼され,この経験から郷土教育,文化財保護を考えるようになったこと,古文書による地域の歴史研究に関わっていかれたことなども書かれています。

     山田先生は,本校から大島高校,甲南高校に勤務され鹿児島県明治百年記念館(後の鹿児島県歴史資料センター黎明館)建設調査室勤務等を経て,研究者として,特に西郷隆盛研究で独自の位置を築かれました。私が,鹿児島県歴史資料センター黎明館にて学芸員として勤務した時期には,鹿児島市の西郷南洲顕彰館長として活躍されていました。頴娃町が編纂刊行した『頴娃郷土誌』,『頴娃郷土誌改訂版』の近世部門も執筆されています。

     さて,「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」は,この第10回で最終回とします。なるべく多くの方々の文章を紹介したいと考えましたが,十分に御紹介できないこともありましたこと,関係者の皆様には御海容を賜りますようお願い申し上げます。何らかのお役に立つことがあれば幸甚です。ありがとうございました。

  • 2020年08月12日(水)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(9)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(9)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立70周年記念誌記載の文章を中心に,学校の様々な行事,生徒の活動に関することなどを紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    V 出典:『創立七十周年記念誌』(平成13(2001)年3月発行)

     

    1 回想(雪丸重光氏,昭和42(1967)年機械科卒,昭和46(1971)年1月~昭和62(1987)年3月機械科在職)

     (前略)私の高校3年間の大きなウエートは,陸上部活動でした。3年間一生懸命取り組みましたが厳しいものでした。「足まめは練習で潰せ」の通り,足底にはいくつものまめができました。毎日ぐったり疲れて夜の坂道を1時間余り自転車を押して帰るのは,やはりきついでした。合宿も8月と10月に1週ずつ2回あり,8月は暑い中,10月は授業を受けながらでしたのでかなりハードでした。

     長距離部員が多く7名の駅伝メンバーに入るのは大変でしたが,何とか1年生の時から出走できました。市郡高校駅伝は,頴娃高から指宿商業高までの国道コースで行われ3年間とも優勝でした。県高校駅伝は,市営鴨池陸上競技場から喜入町までの国道を折り返すコースで行われ,55チーム中9位・9位・8位と公立高校の中ではだいぶ健闘していたと思います。

     赴任して早速陸上部顧問となり,転勤するまでの16年間部員と共に過ごし,その間に県大会・南九州大会で6位入賞して全国大会出場の選手も出てきました。夏合宿の最終日は,大野岳(※1)往復が慣例でした。(中略)

     校内マラソン大会は,創立記念日に合わせて5月に実施され,生徒時代は粟ヶ窪小学校グラウンドまでの折り返しコースでしたが,その後48(1973)年には11月実施に変わりコースも開聞町入野折り返しとなりました。更に52(1977)年には春向~木之元~九玉小裏から国道へ出る周回コースになりました。

     クラスマッチも盛んで,ソフト・サッカー・バレー・バスケット・テニス・ハンド・ラグビー・バドミントン・卓球・柔道・剣道・相撲・創作ダンス等多種目に渡り,(中略)中でもクラス対抗駅伝大会は,学校~物袋~水成川のコースで実施され,職員も2チーム作り対抗意識を燃やし(中略)盛況でした。その後57(1982)年に校内グラウンド中継の周回コースに変更になりました。

     体育大会は,科対抗から地域対抗となり東部・西部・北部対抗戦でしたが,殆どこの順位でした。49(1974)年度から学年対抗に変わり,3年生・2年生・1年生の順位でしたが,61(1986)年度は2年生が1位になりました。

     一日遠足は,花瀬海岸・大野岳・戸柱公園(※2)の順で実施され,全員徒歩遠行となり,各科毎の特徴ある自己紹介等があって就職してからの歓迎会等で応用したら喜ばれた話なども聞かれましたが,問題もあるとのことで衰退していきました。現地解散だったので,陸上部員は走って帰校するのが慣例でした。(中略。56(1981)年からPTAバレーが始まったこと,同窓会館建設・名簿作成の苦労などを記載されている。)

     現在私は夜間定時制高校に勤務し,昼間働き夜学ぶ様々な悩みを抱えた生徒たちと接しています。また先日は第1回車椅子駅伝大会に審判として参加しました。そして今シドニーでパラリンピックが開催されています。これらを眼にする時やはり頴娃高校生は恵まれている分,一人一人が学校構成者としての自覚を持ち,努力して学校全体を盛り上げより良い人生を送れるよう頑張って欲しいと思います。(後略)

     

    2 思い出の一コマ(原田勇氏,昭和39(1964)年電気科卒,昭和39年4月~昭和58(1983)年3月電気科在職)

     (前略)当時はまだ自家用車は数少なく,昭和三十六(1961)年四月入学した頃は,通学生は国鉄バスで通っていたような気がします。その頃は道路状態は悪く(中略)曲がりくねり未舗装のでこぼこ道でバスや車が通った後は砂ぼこりでした。また西方面では枕崎より遠くの坊津町方面から二時間もかけてバス通学し,知覧川辺や池田方面からは南鉄バス(現鹿児島交通)や自転車通学で朝早くから通学している生徒もいて,よく頑張っているなあと感心したものでした。その後国鉄のレールが枕崎まで敷設され(注・昭和38(1964)年10月開通),通学生が楽に通学出来るようになりました。(中略)

     三十六年頃西門近くの道路沿いに平行に平屋建て瓦葺きの電気科の実習室があり,運動会の頃は先輩から大声で怒鳴られながら校歌や応援練習の声だしをしたものです。また,運動会は当初科対抗で応援席も材木や竹などを使って階段状のやぐらを作り応援したものです。

     その実習室の隣の東側にモルタル作りの電気工事実習室,高圧受電室(当時は実習設備でした)大理石受電盤三千三百V受電と配電盤丸形計器,柱上変圧器,遮断機,大きなうなり音の直流電源用大型電動発電機等)があり,これが無ければ頴娃高校は動かないと言うほどの威厳さを誇っていた。またモルタル作り電気工事実習室はその後現在の電気機器実習室北側(当時は農業科の施設が有りました)までグラウンドを通って道板とコロやジャッキを使い移動され,現在も工作工事実習室として残っている。その後,産業教育予算が令達され見違えるように施設,設備が充実していきました。電気機器実習室や製図室,電子工学実習室などの施設が建てられて実習室の移動があった頃です。電気工事実習ではこの部屋の中に直径三十cm程の木柱の電柱が建てられてあり,その木柱に昇柱器と柱上安全帯を付けて登り,電柱の上で腕木や硝子と電線を取り付けて配線する,外線工事実技実習を行ったり,外庭の草むらに穴を掘り長さ五m程の電柱を建てる建柱実習を行った記憶があります。その他専門教科は電磁事象(いまの電気基礎)電子(真空管からトランジスタ全盛期),通信,発送配電,機器,材料,法規等があり,製図等は三時間,実習も四~五時間みっちり行われていました。現在のように工業数理や工業基礎,情報基礎等の教科名は無く,その時間は実習や製図時間に割り当ててありました。

     受電室は後ほど六千六百V受電となり,現在の位置県道青戸線沿いに移りました。ここには定時制農業科のガラス温室があり綺麗なサボテンや温室の観葉植物がありました。

     電気と言えば強電中心でしたが「開拓精神」のもと,先輩諸氏の勉強への意欲は強く当時(一学級)の先輩は大多数が電力会社勤務と大手の有名電気企業が就職先でありました。その頃県内の殆どの工業高校に電気科が設立され頴娃や鹿児島工業に追いつけとハッパをかけてきました。(中略)二千年の節目を迎えIT時代を担う生徒の皆さん,他の学校に追い越されぬよう日々奮闘して勉学,部活動,体力増強に励み,頴娃の伝統を引き継いで欲しい(※3)と思います。(後略)

     

    3 『我が青春』頴娃高校(永谷岩男氏,昭和44(1969)年土木科卒)

     (前略)その頃は,経済成長の真っ只中で,学校を卒業した者は,職と現金収入を求めて,都会へ都会へと就職し,上京,上阪して行った。頴娃高は,優秀な学校で,九大や鹿大などへ進学する者もおり,工業科にしても,東京都庁,石川島播磨重工,日産,トヨタ,大成建設,キャノン,などなど,そうそうたる就職先であった。神奈川県庁に勤めながら,関東学院大学へ進んだ私も,頴娃高卒であるという誇りをもって,仕事に学業に,励んだものである。(中略)

     当時は,瀬川文泉堂が東門のところにあり生徒たちにとっては,まさにたまり場であった(※4)。又,校内に購買部があり,休み時間には,にぎわったものである。校内食堂も,東門の近くにあったが,そこはおもに工業科の上級生が陣取っていて,女子生徒には,遠い存在だったのだそうである(注・永谷氏の御令室も頴娃高卒業生)。(中略)

     一年のときに,生徒会役員をすることになった私は,三年までかかわることになり,毎朝,汽車通学の生徒の交通整理と車内誘導を,眠さと戦いながらやり通し,後々自信につながっていった。(中略)三年連続,文化祭の実行委員長として,連日深夜まで,夢中でかけずり回ったことなど,やはり一番の思い出は,生徒会役員としての三年間のあれこれである。

     私の良き青春時代を育んでくれた土木科がなくなってしまい(※5),近くに存在するのに,訪れにくくなってしまった感のするのは,寂しい限りである。

     

    4 野球部九州大会初出場(森口 洋氏,平成元(1989)年4月~平成8(1996)年3月保健体育科在職)

     平成5(1993)年春,第92回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選準決勝戦は,県立鴨池球場において両校全校応援の大声援のもと鹿児島高校対頴娃高校の白熱した試合となっていた。この試合に勝てば決勝戦進出,さらに九州大会出場が決定する。

     振り返ると,平成元年,前任地加治木高校から中古のバッティングマシーンと共に赴任してきた。早速,電気科・機械科の先生方のご協力のもと,無事修理に成功してマシーンバッティングができるようになった。

     次はグラウンド作りだった。内野をスコップで掘り返し石ころを取り除く作業,慣れない手つきで手のひらには大きなマメを作りながら,部員全員で立派な内野グラウンドを作り上げた。グラウンドを見つめては,当時の先輩達に底知れぬ期待を感じたものだった。

     その年の秋の九州大会県予選でベスト8に進出。準々決勝では強豪の鹿児島商業に9回裏ヒットあと一本でサヨナラ勝ちという戦いだった。二年生は試合当日が修学旅行の出発日と重なったが,試合に全てをぶつけ見事な戦いをしてくれた。(中略)

     保護者の反省会はいつも大いに盛り上がり,子犬の名前まで“ベスト8とえいで,エイト君”と決めてもらった。現在エイト君は高校前のスポーツ店でのんびりと暮らしています。

     平成3(1991)年春,先輩達のおかげで頴娃という名前で相手と戦えるチームになっていた。投打のバランスのとれた新しい頴娃野球ができ,ベスト8に進出したが準々決勝戦ではまたしても鹿児島市内の鹿児島商工(注・現樟南高等学校)に,NHK選抜大会では出水中央に,夏の大会は二回戦で鹿児島実業に敗れてしまった。「選手個人の力は劣ってはいない」と思うが勝てない,当時の私を高校野球関係者は,エイト監督と呼んでいた。“鹿児島市内勢を倒す”このことが私の最大の課題となり,頴娃野球の打力と精神力を更に高めるために,保護者会にお願いをしてバッティングマシーンを購入していただいた。打力向上策としては,早朝の練習においてティバッティング200本を義務づけた。この時期には揖宿郡内・枕崎地区からも優秀な選手が頴娃に集まりだしていて部員数も増え戦う戦力が整いつつあった。

     平成4(1992)年春,ベスト16。NHK選抜大会出場。秋,ベスト16とチームが変わっても安定した成績が残せるようになっていった。

     いよいよ平成5(1993)年の春,初戦(注・二回戦。南種子高校)いきなりのピンチ,先発投手のエースがオーダー交換後に腰痛発覚。一球目にスローカーブを投げてデッドボールにして交代だこんな指示は初めて出した。ところが,その一球目は三塁打を打たれて交代,代わった投手が三塁ランナーを牽制でアウトにしてなんとか初戦突破。三回戦では,シード校鹿屋に1点差勝ち,四回戦では,めったにしないスクイズも決まり松陽に勝ち,準々決勝では打線が爆発して武岡台を破りベスト4に進み,いよいよ準決勝戦。全校生徒の応援(※6)のもと,4対4で迎えた延長11回表,代打には腰痛の回復したエース。投げられない悔しさをバットにぶつけタイムリー二塁打,1点勝ち越し,その裏を抑え,鹿児島を破って決勝進出,悲願の九州大会出場決定。決勝戦では,鹿児島玉龍を6対1で破り,高野連創設以来初めて郡部からの優勝を勝ち取ることができた。

     この年の3年生25名は,入部後一人の落伍者もなく先輩達から引き継いだ伝統を後輩達に指導しながら新しい頴娃野球を作ってくれた。特に,試合にはほとんど出番がなく三塁コーチャーの役割をみごとにこなし,部員63名を素晴らしいチームにまとめてくれた主将の外薗勝君には感謝したい。

     学校関係者,保護者会,地域の方々,全校生徒の温かい励ましのもとで頴娃高校野球部が九州大会に初出場(※7)することができたこと,また,私自身の課題の鹿児島市内勢を倒すことができたことに深く感謝しております。(後略)

     

    ※1 大野岳(465.9m)はトロイデ型の火山で頂上まで登山道路がある。自然観察,植物採集,ハイキング,キャンプ場として格好の場所とされ,山頂一帯には灌木群,クマ ザサなどが自生する。タムラソウ,ヒゴスミレは北方植物自生の南限とされている。昭和63(1988)年度には,生活環境保全林整備事業が実施され,植樹をはじめ遊歩道の整備がなされた。  (参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行)1990年)

    ※2 頴娃町域東南部の海岸平野前面は小規模な浜堤になっており,防潮林が植林されている。かつては地曳き網業が盛んだった。砂鉄の鉱床を胚胎しているので,江戸時代末頃から明治時代,製鉄業の原料として採取された。昭和27(1952)年,原口金属鉱業・東邦金属頴娃鉱業所が進出して,前原海岸・高取海岸・馬渡海岸で機械採取を始めた。頴娃高校電気科を昭和29(1954)年に卒業された坂元喜久治氏「授業料500円の時代」(『創立80周年記念誌』(2011年)所収)には,「頴娃の周辺の様子ですが,昭和33(1958)年から36年まで鳥(ママ)取浜周辺で東邦金属の砂鉄の採取が始まり,私も電気係で入社しました。従業員が60人でした。当時,砂鉄の売上高は頴娃町の予算より高かったです。(中略)電気使用量も当時,揖宿郡の家庭電気使用量を上回っていたのです」とある。昭和36(1961)年,旧頴娃町は海岸線の保全計画を立て平成6(1994)年までに防波堤を完工している。

     瀬平海岸は海食崖や岩礁がある。大正5(1916)年,頴娃・山川間の県道が開道するまでは「瀬平渡り」といい,海に突き出た岩と岩の間隙を,波しぶきを浴びながら跳んで渡る交通の難所だったという。また,別府海岸の海岸線は屈曲に富み奇岩・岩礁が散在している佳勝地で,戸柱・番所鼻からの景観が素晴らしい。(参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行)1990年)

    ※3 同じ創立70周年記念誌に寄稿された,鹿原徳子氏(旧姓祝迫,昭和41(1966)年普通科卒)は,この当時北海道登別市市議会議員(三期目)。市議会議員出馬が新聞報道された日に夫を亡くされ,その後,初当選をされた。以来10年間,男性中心の社会で努力活動を重ねられ,三人の娘さんを社会人として育てたことを記された上で,

     「振り返って思えば,私は就職も,結婚も,議員になる時も,全て,人生の選択の時,自分の意志で決めてきました。自分で決めた事は,全て自分の責任ですから,目的に向かって全力投球あるのみです。「運命」は自分自身で切り拓いていくものだと思います。まさに,頴娃高校の「開拓精神」そのものです。大切なのはプラス指向です。いつまでも過去を引きずらないことです。今は,女性も男性と同じように,実力さえあれば社会的に重要な立場になれる時代です。在校生の,特に女生徒の皆さん,人生はあなた自身のものです。積極的に,自分の意思で運命を切り拓いて行って下さい!!」とのエールを送っていただいた。

    ※4 社会に出てからの悩み,苦しみの中で「自分にいつも勇気をくれたのは,頴娃高校の『開拓精神』の4文字であった」という斉藤耕太郎氏「わが人生に頴娃高あり」(『創立80周年記念誌』(2011年)所収)(昭和50(1975)年普通科卒)の同文中にも,「頴娃高校といえば,切っても切り離せないのが瀬川文泉堂。当時は頴娃高の裏門のところにあったが,今は正門前に移った。(中略)そしてもうひとつ,西頴娃駅前のあさつゆ食堂のチャンポンが美味しくて,今でも定期的に食べに行っている。」と,頴娃高校周辺の生徒にゆかりのある店舗について記されている。

    ※5 土木科は,昭和51(1976)年募集停止となる。(第6回注7参照)

    ※6 「4月13日,花瀬海岸への一日遠足を急遽変更,バス十台を連ねての鴨池球場での全校応援となりました。鹿児島高校は全校生徒二千四百人,対するわが頴娃高校は七百人,しかし,試合も応援も負けません。」(『創立七十周年記念誌』所収,第17代校長(平成3(1991)年~同6年在職)上床光弘氏「伯楽と千里の馬」)。全校応援はこの翌日の決勝戦でも行われ,千名を越える鹿児島玉龍高校相手に生徒達が「校歌を思い切り歌い,腹の底から声を張り上げてエールを交換し,即席の応援のウェーブも実に見事」だった。

    ※7 九州大会では,1回戦で長崎の島原高校に勝利し,2回戦で熊本の城北高校に敗退したものの,九州地区ベスト8に入る。

     

     いかがでしたか。この70周年記念誌には,これまで紹介してきたような,先生方や先輩諸氏の,かつての御苦労や,70周年記念式典の行われた平成12(2000)年当時の御活躍の記録が多数掲載されています。

     この他,篠原信幸氏(昭和53(1978)年~同61(1986)年建築科在職)は,「思い出」として,在職中の悲しい出来事として,生徒の単車交通事故があり,そのために学校では,毎月1回のノーカーデー(その日は生徒も職員も単車や車に乗らない日と決められた)に取り組まれたこと,そして「今でも,あの頃と同じ緑色のヘルメットをかぶって単車にまたがっている頴娃高校生を見ると,あの頃を思い出します。」と記されています。

     生徒の安全と安心を願う気持ちは,以後も変わらず本校に受け継がれています。

     

     さて,次回でこの「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」シリーズも10回に及びます。最終号として,平成22(2010)年度,創立80周年を記念して平成23年3月に発行された記念誌から紹介します。お楽しみに。

  • 2020年08月11日(火)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(8)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(8)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に,部活動のことなども紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    IV 出典:『創立六十周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)

    4 回想(京田薩夫氏,昭和23(1948)年4月~昭和36(1961)年3月電気科在職)

     (前略)着任当時学校は敷地内に頴娃高校,頴娃工業高校,家政女学校,今和泉高校分教場となった家具科,村立定時制高校としての農業科,家庭科,建築科それに頴娃中学校の一部と雑居の状態でした。工業科は工業学校が戦災で焼失し,その跡地に木造平屋造りで廊下は板張りでなく土間で,内側の窓は障子,教室の出入り口も障子張りの引き戸で出来ており,学期毎に障子の張り替えをしていました。電気科の実験室は使わなくなった村立の乾繭倉庫(※1)をそのまま一階を強電,二階を弱電関係の実験室,三階を製図室にしていました。三年生は工業学校を卒業して高校三年に編入した者,戦場に征き,終戦で復学した者と年齢も様々で,私より年上の生徒もいました。普通科は普通科を誘致するため,当時旧制の指宿中・指宿女学校に入っていた頴娃村内の子弟を郷土の高校に普通科を作るため転校させ発足させたのです。普通校として伝統ある指宿高より帰してまで普通科を作りたいという郷土愛に燃える人々の努力は,現在の有名校指向の親達には考えられないことではないでしょうか。高校初代校長は武政治先生で,先生も県立女子専門学校(注・第一高女専攻科を基にする。現鹿児島県立短期大学の前身)の教頭の要職より郷里の子女を教育するため,あえてその当時頴娃国といわれていた僻地だったこの学校に赴任されたのです。軍国主義教育から民主主義教育への脱皮,アメリカ軍政下(※2)の教育と私共の知らない苦労があられたことと思います。二十四(1949年)には電気科は電気主任技術者三種免許認定校になりましたが,認定を受けるには戦災で焼失し設備が基準に足らないため,基準に引き上げるのに,学校は勿論生徒の勤労奉仕による資金作りと生徒達も必死で頑張りました。村有林の示山(現在スカイラインの頴娃インターの手前)にキャンプを張り,薪の切り出しに汗みどろの毎日でした。土木科も最終日応援に来てもらい嬉しかったことを今でもはっきり覚えています。

     (中略)二十三・四(1948・49)年当時の通学についてふれてみます。生徒も先生も,まともな靴を持っておらず,運動靴は年数回の配給で,それも抽選でクラス数名ずつしかわたらない状態で,男女生徒とも下駄か裸足通学でした。私も自分で作ったわらじをはいて実家の開聞町から徒歩で通っていました。(中略)鉄道は三十六年頃(注・山川駅までは昭和11(1936)年に延伸され山川港から枕崎までバスが走った。西頴娃駅は同35(1960)年3月,枕崎までは同38年10月)開通したわけで,バスも国鉄の省営バスといっていた木炭を燃やして走るバスで故障も多く,バス通学生も朝は何とかバスで登校しても帰りは歩くことが常識となっており,舗装のない石ころとほこりの道路を教師生徒わいわい話しながら通学したものでした。青戸・別府・川尻ぐらいまではほとんど徒歩通学でした。自転車は万年タイヤといって空気の入ったチューブはなく,硬質ゴムだけで作ったもので,石だらけの道で尻は痛いし,スピードはでない大変な代物でした。遠くは指宿・知覧町松ヶ浦,浮辺あたりから通っていました。この通学による体力と精神力こそ卒業生が大いに社会で活躍している源になっているのではないでしょうか。

     (中略)三十五(1960)年までは県内に電気のある高校は鹿児島工業高校と二校だけでした。それだけに南薩地方全域から優秀な人材が集まってきていて競争試験には絶対に負けないといった自負心を皆持っていました。

     土木科も伝統を誇る県内有数の科であっただけに科がなくなったことは残念でなりません。普通科の進学は四回生ぐらいまでは,東大,一橋大,京都大,九大医学部,鹿大医学部など一流大学を始め相当数が大学進学していました。図書館もなく,参考書を買うにも本屋らしい本屋もなく学校の授業だけで合格していたわけです。それに田植,稲刈時期には農業休暇が一週間ぐらいあり家に帰れば大きな労働力であり大変だったことと思いますが,普通科に限らず工業科の生徒も南薩の雄としての誇りを持って勉強していたと思います。(中略)

     私が着任した頃はバレー部が頑張っていました。野球部はアメリカにいる在留邦人からの寄贈(※3)で道具一式が送ってき発足したようでした。陸上部発足より顧問をしていた陸上部についてですが,二十五(1950)年の県大会で土木科の坂元君が1500mで決勝に残った時のことです。彼は決勝では最下位で,私と応援をしていた武校長が「京田君負けたのは力でなくスパイクの差だね」といわれた言葉が今でも残っています。一人だけ裸足でした。何しろスパイクなんて高価なもので,当時私の一カ月の給料全額はたいても買えないぐらいの金額でした。翌年から二・三足学校で買って,足にあったのをはいて出場していました。女子は短距離に投てきにと,三十年代前半までは県代表として常に出場していました。次にボクシング部の活躍ですが,私が学生時代やっていたボクシングは県連盟ができて,競技が正式にできるようになった三十(1955)年より指導を始めましたが,部員達は農作業で鍛えた足腰と南薩地区独特のねばりと闘争心で,数年にして九州の強豪といわれるまでになり,全日本高校ランキングに名を連ねる選手も続出し,国体でも団体入賞を果たしました。(後略)

    5 生徒が輝いていた思い出(田村俊一郎氏,昭和38(1963)年4月~昭和49(1974)年3月,同52(1977)年4月~同63(1988)年3月31日電気科在職)

     (前略)私が赴任した当時は,まだ古い校舎がたくさん残っていましたし,校庭も今よりずっと狭いでした。今の西門近くに電気科の実習室,変電室がありましたし,第三棟のあたりには家庭科の和裁室,そして機械科の実習室のあたりに,農業科のふ卵室,教室等。当時の建物で今でも残っているのは第一棟と第二体育館だけのようです。昭和四十(1965)年当初は建物の建築の連続で,毎年のように工事,工事で,騒音の中での授業でした。またこの間,科の改廃も目まぐるしくありました。特に実業系の学科は産業構造に合わせて(※4),高校教育を見直してゆく教育制度の影響を受けて,その波をもろに被った地方校の悲哀とも言えます。(中略)

     就学児童生徒数の減少により,頴娃高校の生徒数も,最も多かった頃の千二百名から現在は約半数になっておりますが,生徒の気質にも変化が見られます。二十年前は,粗野ではあるが元気で,活気がありました。(中略)

     振り返ってみますと,生徒が何かをしようと,活発に行動していた時代は学校の雰囲気もいきいきしていたようです。そんな思い出を二,三あげてみたいと思います。

     私が赴任した当時,指宿枕崎線が西頴娃駅まで開通したばかりで,今和泉,指宿,山川,開聞方面の生徒はほとんど列車通学でした。客車も一輌か二輌で,すし詰めもいいところでした。ところが生徒達は「シート上げ運動」を行って,座席をあげて中まで詰めました。皆立ちっぱなしの通学でしたが,誰も文句を言う者はいません。また車内では三年生が率先して本をひろげ,下級生の指導もしていました。学年毎の乗車区分もありませんので,勉強なども教えたりして,上級生と下級生の中もよく,つながりも強かったようです。

     生徒手帳にのっている「交通安全宣言」(※5)がなされたのは昭和四十一(1966)年で,当時の生徒会が会長の本門君を中心に全生徒に呼びかけて,運動をおこし,執行部や交通委員が先進校の訪問,他校との情報交換等,こまめに走り回り,代議員会,交通委員会を頻繁に持って,宣言にこぎつけたわけです。準備に一年位かかったと思います。確か,公立高校では県下で初めてだったと記憶しています。この運動のきかっけは当時バイクが急に流行しだして,この前の年,生徒の交通事故が七件位発生し,この中には他人に大怪我をさせたものも含まれていました。それで事故撲滅を目指して,生徒会が立ち上がったのです。宣言してから何年かは事故,違反とも激減しました。交通安全が叫ばれますが,生徒一人一人が自分の事として真剣に考えなければ目的は達せられないと思います。

     もう一つの思い出が「長髪問題」です。それまで生徒総会でたびたび要求が出されていた長髪許可の問題を,昭和四十六(1971)年に坂元君等の生徒会執行部が積極的に取り上げ,どうしたら学校の許可が貰えるかと,代議員会,風紀委員会を何回も開き,案を作って,学校側と話し合いを繰り返しながら,ついに「長髪自由規制」を作り上げて,長髪の許可を得たものです。これも半年以上かけて成し遂げたもので,彼等の粘りと努力のたまものでした。(後略)

    6 あの日,あの頃(寺田幸一氏,昭和38(1963)年4月~昭和43(1968)年3月国語科在職)

    (前略)あれは確か二年目だったと思う。土木科の担任として私は初めてクラスを受け持った。二学期か三学期か定かではないがロングホームルームの時に「空手部をつくってほしい」という生徒たちからの要望があった。私自身学生時代空手道を通して青春を模索した体験もあり,早速,久保校長に相談にいった。しかし「空手は危ないし,後々の指導者にも困る。他にポピュラーなスポーツは知らないか」と言われた。そこで「サッカーなら少々」と申し出たところ,「それがいい」ということになり,サッカー部が誕生することになったのである。

     当初は同好会という形でスタートし,昭和四十(1965)年四月から部として発足。当時,サッカー部のある高校は薩摩半島では頴娃一校だけであった。(中略。基礎練習の々,高取浜での走り込みや一年目の失敗談などを記されている。)創部二年目の夏にはベスト4入り。続いて昭和四十二年(1967)秋の全国高校サッカー選手権鹿児島大会の準決勝では鹿商を倒し,見事に決勝進出を成し遂げた。優勝戦では鹿実に0-1で惜敗したものの,堂々たるゲーム内容であった。技術的にはもう一歩だったが,グラウンドいっぱい走りまくり,「負けてたまるか!」というすさまじきファイティングスピリットを持った頴娃イレブンの活躍はすばらしかった。(中略)更に嬉しかったことは,伝統校の鹿商と公式戦で二度対戦して二勝したことである。当時のサッカー専門誌に「頴娃高校の台頭」という記事を掲載されるなど,サッカー部(※6)創成期の頴娃の選手たちの頑張りは目を見張るものがあった。(後略)

    ※1 乾繭倉庫

     養蚕・製糸業は近代日本の輸出産業の中心であった。この倉庫の工事竣工は昭和6(1931)年,頴娃高校前身の頴娃村立高等公民学校創立の年である。倉庫は3階建て約1,993平方メートル(うち乾燥倉庫約505平方メートル)だった。この「乾繭組合の集繭所」が高等公民学校開校式場となる(第2回の2,多田初代校長「開校当時の思い出」参照)。

     乾繭倉庫前に建てられていた「乾繭倉庫設立記念碑」(当時の山内廣助組合長書)は,現在,正門から入って左側にある「亡師亡友の碑」の奥,国道沿いの体育館側に遺されている。『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年)には,国・県の乾繭(かんきん)取引奨励策を背景に,頴娃村の関係者が村会の援助を受け,三俣の地に「揖宿郡を一円とする鹿児島県南薩東部乾繭共同組合販売利用組合」を設立,主務省の認可を得て施設完了に至ったとの,碑文の内容が記録されている。なお,頴娃町の養蚕は,昭和四十(1965)年頃に姿を消したという。

     頴娃の三俣商店街は,高等公民学校創立,南薩東部乾繭倉庫の開設を機に周辺集落の人々の移住により開発された。本校の発展,交通機関の充実,町役場や銀行の移転などにより発展した。

               (参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年),『頴娃町商工業史』(頴娃町商工会発行,1990年))

    ※2 アメリカ軍政下

     武政治第6代校長の「回顧」(『同窓会誌 創立30周年記念号』(1960年)所収)の中に,戦後の就職開拓の苦労談(第3回記載の5参照)とともに「就職斡旋の旅費もなかった。折角PTAの就職運動費として工業課程の生徒から一人当り月30円宛集めようという議決も,このことが軍政官の耳に誤り伝えられ,私は自宅からジープで鹿児島まで連行されるという破目になった。然し実情を説明するとよく了解されかえって激励された。この結末は,県立学校の就職斡旋旅費は県が支出すべきであるということになり(後略)」とある。

     牛垣卓郎氏(昭和23(1948)年4月から同37(1962)年3月社会科在職)の書かれた「青春の譜」(『創立五十周年記念誌』(1981年)所収)中には「軍政官ストッカー氏の学校訪問。戦後の民主教育をすすめるために鹿児島に進駐していたストッカー(数学の教師)が調査のため来校するということで緊張したのは父兄への寄付行為が問題となった時である。高校のスタートにあたって教育条件の整備に力を注いでいたPTAの発議が誤解されて投書されたからである。武政治校長,中村一平会長の熱意と誠意を知った軍政官は労をねぎらい激励のうえ引揚げていった。」と記されている。

    ※3 野球部はアメリカにいる在留邦人からの寄贈

     ※2に取り上げた牛垣卓郎氏「青春の譜」中,スポーツ関係について触れた箇所に野球部草創期のエピソードがあるので以下抜粋する。

     「山村暢洋(東大へ進学,注・昭和25(1950)年普通科卒),長野昭夫(教育大へ進学,注・同27年普通科卒)らは同好の者を集めて野球チームを結成したが,道具が手に入らなかったので思いあまって私は在米頴娃村人会(ロサンゼルス)に寄贈を依頼した。数ヶ月後岡村さん(大川出身)から「汗を流して稼いだ1日2ドルから4ドルの日給から割いて故国の子弟のため皆んなが協力してくれた。大事に使ってほしい」との手紙と真新しい野球道具一式が送られてきた。この時の歓び感激は現在でも忘れられない。一回りも二回りも大きなプロテクター,レガース,グローブで大笑いになった。これが野球部のはじまりである。」(以下,女子ソフト部やボクシングの活躍を記載されている。)

     この時期を経た野球部について,川平睦氏(昭和40(1965)年建築科卒)は,3年生引退後レギュラーポジションをかけた,1・2年生による「野球で始まり野球で終わったと言っても言い過ぎではなかった」夏休みの練習について「野球部の思い出」を寄稿されている(『創立四十周年記念誌』(1971年)所収)。

    ※4 高度成長期,1950年代後半から1970年始めにかけて,産業構造や国民の生活水準が大きく変化した。この時期の資本と労働の投入増加を産業別に見て,「第1次産業より非第1次産業の方が,資本ストックと労働投入の増加率はともに高」かったことが指摘されている。また,第一次世界大戦(1914-18年)から現代までの,日本のサービス経済化については3つの局面があり,1920年頃から70年代初めまでは「工業化の進展と並行してサービス業のシェアも拡大した時期」で「産業構造変化の表舞台は製造業であり,その背後で緩やかにサービス経済化が進行した」と指摘されている。

          (参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5現代1 日中戦争期から高度成長(1937-1972)』(岩波書店,2018年)

    ※5 東門から入って右側に,頴娃高等学校生徒会による交通安全宣言が掲げられている。

         交通安全宣言

         宣言

           私たちはよりよき社会を築くため 交通事故の絶滅を計り 交通道徳を守ることを誓います

           遵守事項

           一 無免許運転はしません

           一 免許取得者は交通法規を厳守します

           一 自転車は必ず一列進行を実行します

           一 歩行者は必ず右側通行を実行します

           一 踏み切り及び横断歩道では安全を確認し敏速に渡ります

                鹿児島県立頴娃高等学校生徒会

    ※6 サッカー部の活躍について,長嶺一夫氏(昭和44(1969)年4月から49(1974)年3月,保健体育科在職)の「頴娃高校サッカーは私の青春」(『創立六十周年記念誌』所収)を以下に記載する。

     「揖宿地区は,高校は四校(注・指宿,指宿商業,頴娃,山川高校)しかないがどの学校も県大会では優勝する競技をもっており,活気のある地区であった。千三百人近くいる頴娃高校も活発で,放課後はにぎわっていた。どの部も県大会でベスト8以上の成績をあげていた。スポーツと勉強を両立させていたように思う。そんな中で,サッカー部も中心的なクラブであった。指宿や枕崎からの生徒が多かった。高校からサッカーを始める彼らは素直な性格で,練習熱心ですぐ上手になっていった。(中略)「鹿児島市内のチームに技術で負けるなら体力で勝とう」を合言葉で,走ることを中心にした練習だった。夏の合宿では,高取浜に良く行った。生徒はランニングと相撲で足腰を鍛え,(中略)この走るサッカーで,県大会ではほとんどの大会をベスト4まで勝ち進んだ。二回ほど決勝に進み,鹿商に挑戦したがついに優勝はできなかった。鹿商には頴娃高サッカー部を生み育てた寺田先生が監督をされていた。(中略)当時は,鹿児島国体前で,土・日曜はほとんど鹿児島に出て選抜チームの指導をしていたので,頴娃高校の練習を満足に見てやれないのが,悔しかった。そんな留守の時でも部員は私の与えた課題を良くやってくれていた。(中略)監督がいなくても,それほど素直でまじめに練習に取り組む生徒達であった。試合でいつも持てる力を十分発揮してくれていたので,負けた時でも実にさわやかであったように思う。」

     

     次回は,平成12(2000)年度,創立70周年記念誌から主に紹介する予定です。お楽しみに。

  • 2020年08月11日(火)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(7)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(7)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    IV 出典:『創立六周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)

    1 学校長式辞(吉崎昭郎第16代校長,昭和63(1988)年4月1日~平成3(1991)年3月31日在職)

     (前略)本校は昭和5(1930)年村立頴娃高等公民学校として設立が認可され,翌昭和6(1931)年5月5日第一期生の入学式が挙行されましてから,ちょうど六十年の歳月が流れたのであります。(中略)爾来,時代の変遷とともに,校名変更,分離統合,県立移管,学科の改廃,施設設備の拡充など,幾多の曲折を経て,現在普通科と,機械,電気,設備工業を含む工業科の十八学級,生徒数七百二十六名,常勤教職員六十三名の,南薩における総合高等学校として,堅実な歩みを続けているところであります。

     その中で,設備工業科は,鹿児島ではただ一つ,本校にしかない学科で,時代の要請に応えるために,昭和六十一(1986)年度から始まった県の学科再編計画第一号として,建築科の廃止(※1)に伴い新設された学科です。現在建築物の冷暖房・給排水・防災といった設備は,より快適な居住空間・労働環境の追求により,現代社会に欠くことのできないものとなっています。設計・施工からメンテナンスまで,すぐれた技術と知識・経験が要求される設備工業科の分野は,新しいソフト技術として現代社会の大きな需要のある分野となっています。今年は全国設備工業教育研究大会が,去る八月二日三日の両日にわたり,指宿市で開催され,本校がその当番校として大任を果たしたところであります。

     現在まで,本校卒業生は一万四千数百名を数えます(中略)この六十周年を記念し,その事業のメインとして,同窓会(※2)を中心にPTAや地域の方々のご協力により,六十周年記念館が建設されました(注・平成2(1990)年3月,専用食堂が取り壊され,同年11月5日にこの記念館が竣工)。すでに在校生はその恩恵に浴しているところですが,誠に感謝に堪えません。(中略)また国道拡幅工事により,正門通りが一新し,学校周辺が整備されたことは誠に有難いことでありました。(後略)

    2 頴娃高校が発足した頃(武政治校長,昭和23(1948)年4月1日~昭和26(1951)年3月31日在職)

     昭和二十三(1958)年四月一日,戦後の学制改革により,従来の公立中学校が全国一斉に新制高校として発足した。この意義ある日に,私は鹿児島女子専門学校教頭(現在の県立短大)から頴娃高等学校長に転任した。新制の頴娃高校は在来の工業学校に,普通科一学級が加えられた(※3)ものであった。学校は戦災に遭っていたので,その焼跡に急造された木造平屋建の校舎一棟と,焼残りの講堂のみが校庭にポツンと建っていた。生徒数も少なくごく小さな県立全日制高等学校であった。

     翌年の昭和二十四(1949)年,近くの今和泉高等学校頴娃教場(※4)が,頴娃村立の定時制高校となり,家政科と共に本校に併置された。二十五(1950)年には県立に移管されたので,県立の全日制高校は急に拡大され総合制高等学校となり,生徒数も増加し,多彩な学園に拡張された。

     この頃はまだ我が国が連合軍の占領下にあった時代で(中略)国民の意気も上がらない時代であった。しかし,ここ頴娃高校だけは,施設設備こそ貧弱であったが,新興の気にみち活気溢れるものがあった。

     その一は新設の普通科の進学状態である。一学級に満たない生徒数でありながら,地元の鹿児島大学をはじめ,地方の高校からは極めて難関とされていた東京大学や一橋大学・九州大学などに,毎年現役から合格者を輩出した。これは歴史も伝統もない新設の普通科を立派な高校に育てあげようとする先生方の熱意と,希望に燃ゆる生徒達の進取の気性の賜物であった。(中略)

     その二は,電気科の卒業生に,商工省より電気事業主任技術第三種の資格が認可されたことである。(中略。この間のことは第3回所収の武氏「回顧」も参照)昭和二十四(1949)年四月,電気事業主任技術資格第三種が認可された。一年がかりで取組んだ念願が達成され,学校は全校をあげて歓喜した。(後略)

    3 回想(安田善内第14代校長,昭和54(1979)年12月1日~昭和59(1984)年3月31日在職)

     (前略)私は第一回目は昭和二十五(1950)年より八年間お世話になりましたが,私の教師としての初任校でもありました。当時は,全日制に普通科・電気科・土木科,定時制に農業科・家庭科・建築科があり,校舎や設備も極めて粗末なもので,廊下は土間で障子の教室や村時代の遺物の建物で教育が行われたものでした。当時学区制が施行された当初で普通科には優秀な生徒が多く集まり,電気科は県下に鹿児島工高と二校だけというこれまた優秀な生徒が多く,定時制建築科は実技修得に力を入れた教育が行われ各地で実地の建物建造の実習を行うなど,その他の学科を含めて生徒諸君は創立以来のフロンティア精神を受け継ぎ,悪条件を乗り越え自主的に学業に取り組み,教師に対する対応も積極的で打てば響くといった教育ができ(中略)私は八年間で二回普通科の担任をしましたが,生徒の学力啓発のため父兄を説得し先生方の協力を得て,現在の頴娃中附近にあった古い男子寮(※5)に希望者を入れ,夜間補習と生徒達自身による集団ディスカッションの学習をさせたことなどもありました。(中略)

     第二回目は学校長として昭和五十四(1979)年十二月の途中から在籍させて頂きました。(中略)在職時代に思い出しますのは,五十周年に遭遇し(中略)盛大な記念行事を挙行する光栄に浴したことです。寄附金も同窓生や地元の方々のご協力で予定以上に集まり,その残金を足掛かりとして六十周年記念事業の同窓会館建設を将来計画したものでした。次に五十四年・五十五年と引き続いて単車による生徒の痛ましい交通事故死を契機に,交通道徳の意識高揚のため職員会・PTA臨時総会・生徒会の決議をへて月一回ノーカーデーを設定し一ケ年実施しました。(中略)

     施設設備の充実については,芸術教室棟は前校長からの引継ぎで私の赴任後完成しましたが,新体育館・電気科実習棟の建設,私の最初の在職時代ルース台風災害復旧事業でできた本館第一棟の窓枠サッシ取り替え工事,旧木造図書館(※6)の白蟻被害による取りこわし,それに伴う本館旧社会科教室の図書館への模様替え及び,職員共済住宅の建設など充実に力をそそぎました。新体育館建設は多年の懸案でありましたが旧体育館があるため国庫補助が得られず実現できなかったのですが,当時の岩崎県振興課長に見て頂き,天井の高さが規準より低いことを発見し不適格体育館だという理由で新体育館の建設が実現したものでした。(中略)小工事ではありましたが,単車置場増設の要望があり,工業科の先生方に相談し生徒の実習の応用として師弟同行で一棟を建設しました。費用は県に交渉し材料費としてもらって来ましたが,先生方特に建築科篠原・佐多先生,機械科栄先生及び生徒諸君が大変頑張ってくれました。(後略)

    ※1 設備工業科と建築科の廃止

     昭和61(1986)年4月,建築科の募集停止,設備工業科1学級の募集が行われた。

     建築科実習室を設備工業科関係の実習室に所属替を行い,昭和63(1988)年3月には210平方メートルの実習棟(衛生設備実習室)増築もなされた。第26回全国設備工業教育研究会の開催は平成2(1990)年8月である。平成21(2009)年4月,設備工業科の募集停止,同23年3月に閉科式を実施した。設立された時期に在職された外園芳美氏(在職昭和62(1987)年から平成4(1992)年)の「在職時代の回顧」(『創立七十周年記念誌』平成13(2001)年3月発行)から紹介する。

     「(前略)赴任当初,第一期生の二年生四十二名と第二期生四十一名の一年生が在籍しており,新設学科ということで,生徒・職員とも大変意気込みがあり,活気に満ちていました。そんな中で建築科の三年生が在学していて,廃科という厳しい状況もあり(中略)時代の流れとはいえ可哀想でなりませんでした。職員室も二学科が混在で建築専門三名,機械専門一名と実習助手の五名で構成されておりました。建築科の生徒は,設備工業科のものに改装されたりして,生徒の気持ちにも複雑なものがあったように思われます。それに代え設備工業科は,建築物の快適な居住空間や労働環境など,近代的なインテリジェントビルの設計・施工からメンテナンスまでのソフト技術を学ぶ学科として,脚光を浴びている時期でもありました。(中略)初めての教育課程に従い,試行錯誤の中,先進校を視察したりしながら,生徒とともに学び合うことも多々ありました。二年目にはビル四階建てに適用できる実習用空調設備や溶接実習室が完成,三年目には給排水,防災設備の実習棟とダクト製作装置・機械加工装置などが導入され,設備工業科実習棟の改装工事が完成,さらに教職員も機械専門三名,電気専門一名,建築専門一名と実習助手一名に充実され,教育内容や施設設備も完成し,専門に関する資格取得にも力を入れ,全員がガス溶接と小型ボイラ取扱を取得,二級ボイラ技士・電気工事士・危険物取扱の各種等に,毎年数名のものが合格するようになりました。(中略)平成二年八月には,北海道から沖縄まで,設備工業科に関する教師や関係者が一同に集まり(中略)全国設備工業教育研究協議会・鹿児島大会を盛大に開催し,名実ともに,全国に頴娃高等学校設備工業科を知らしめ,面目を確立したのではないかと思っています。(後略)」

    ※2 同窓会

     創立40周年記念の回顧座談会(昭和45(1970)年11月4日,『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)所収)において,田畑実幸氏(昭和17(1942)年3月土木科卒,元土木科職員,当時同窓会副会長)によれば,同窓会として形あるものとしては,青年学校関係(電気,土木科を主にした)の同窓会と工業学校関係の同窓会の2つがあり,会長が2人いたこと,30周年記念の時に両同窓会を合わせて,現在の頴娃高等学校同窓会ができたという。(昭和35(1960)年5月5日合併)

    ※3 普通科のはじめと昭和30年代の頃

     普通科のはじめについて,創立40周年記念の回顧座談会から抜粋する。

    (1) 牛垣卓郎氏(昭和22(1947)年11月~同37(1962)年3月在職)

     「普通科の場合,一期生は入試をやっておらず,指宿中学とか,指宿女学校からの転校生,頴娃工業学校の卒業生などが一年二年に入って来ました。皆,向学心に燃えた人々でした。食糧事情が悪かったので,父兄の方々も自分の足もとで勉強させようという考えがあったものと思います。(中略)生徒たちは張りきっていて,我々教員が引っぱられて行ったといえるほどでした。生徒会,スポーツ,学習,全ての面で自発的であったようです。」

    (2) 東正人氏(昭和25(1950)年3月普通科卒,一期生)

     「私個人のことを申しますと,終戦当時朝鮮にいまして,釜山中学二年のときに終戦になりました。二学期の十一月に引き揚げてまいりまして,指宿中学に編入したわけです。そこで二年を終えて,頴娃に高校ができるということで,経済的に苦しかった点もあって,頴娃高校普通科の二年に編入しました。普通科は一学級でしたが,二十六名いたと記憶しています。陸士とか予科練とか旧制中学の卒業生といった方々が一緒で,私などがもっともスムースに行った方で最年少だったと思います。(中略)当時,進学熱は高くて,東大にも合格した者があったわけです。とにかく経済面で苦しかった時でしたが,しかし学校だけは出ようというわけで,大学に進んだ人が相当数いたと思います。」

     さらに,昭和30(1955)年代はじめまでについて以下掲載する。

    (3) 鮫島信一氏(昭和29(1954)年普通科卒)「只今65歳「子育て支援」に頑張ってます」(『創立七十周年記念誌』所収)

     「(前略)中学校を卒業したら殆どの同級生が就職する中で,地元の高校に入学を許可された時は天にも昇るうれしさを感じました。担任の中村重義先生は「君たちは世の指導者になるのだから,自覚して勉学に励め」が口癖でした。(中略)普通科は揖宿郡に,指宿,山川,頴娃,と3校もあり,近くに枕崎や薩南高校もあるとの理由で,廃校候補に上げられたとの情報もあり,存続の為には大学合格率を上げるのが一番良いとの立場から教職員一体となって進学指導に心血を注いで頂きました。お陰で同級生の殆どが,希望する大学に入学しました。西郷記念館館長の山田尚二先生は当時大学を卒業したばかりの新米教師でありました。その後先生は県内あちこちの有名高校で教鞭を取られたのですが,「あの頃の君たちのクラスほど進学率を挙げたクラスは,経験出来なかった」と述懐しておられます。我々の成果が効を奏したのか否かは知りませんが,頴娃高校の普通科が今も歴然と存続していることに誇りと感銘を覚えます。」

    (4) 田之上司氏(昭和34(1959)年普通科卒)「十数年前の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)

     「私の入学した昭和31(1956)年当時の頴娃高校普通科は,A・B二クラスに別れ,Aクラスは男子生徒全員と進学希望の女生徒数人で構成され,Bクラスは残りの女生徒全員で構成されていました。このような状態でしたので,男子生徒すべてに対して,教室と講堂とその周りの掃除が与えられました。

     講堂と言いましても,私たちの卒業する年までは,現在建っているようなりっぱな建物ではなく,当時正門をはいってすぐ右側に建っていたぼろぼろの木造の中二階付の建物でした。雨もりはほとんどなかったようですが,床にはいたる所に穴があき,つぎはぎだらけでした。このような所が普通科一年生の受け持ちの掃除区域であったわけですが,先輩方の伝統により床はちり一つなく,しかも黒びかりしていました。(中略)このような講堂でさえ,みがき上げられていることですから,他は言うまでもなく,外部から来られる先生方が靴をはいたまま上るのをちゅうちょするぐらいでした。これが当校の誇りの一つであったのは事実です。

     この講堂は,年間儀式一般のことはもちろんのこと,体育館代りの室内競技の場としても使用されていました。その中の一つにクラス対抗の卓球大会がありました。クラス対抗と言いましても優勝戦近くになりますと「科」対抗的な状態になるものでした。すなわち,当時は普通科・電気科・建築科・土木科・農業科・家庭科の六科があり,この中で男生徒の部は家庭科を除いた五科のクラスで競われるわけですが,勉学上は何の共通の場を持たない「科」という障壁を持ったクラスどおしの対抗試合ですので,その競争意識はきわめて強く,周りには同科,相手科の応援団がつめかけ,やじや床をたたいての応援合戦が行われるのが常でした。競技後はもちろん対抗意識は全く消え,常の学友にもどります。

     応援合戦と言いますと,それの最高の場は年一回の秋季運動会でした。(中略)年々盛んになり卒業の年には中央の国旗より高い旗ざおを各科競って建て「科」の旗をかかげ,その下で色々趣向をこらして応援合戦がくり広げられました。(後略)」

    ※4 今和泉高等学校頴娃教場

     現在の指宿市立指宿商業高等学校は,昭和23(1948)年に鹿児島県今和泉高等学校として発足し,教場を指宿,喜入,利永,頴娃に置いた。昭和24(1949)年,喜入教場を廃止し,利永教場及び頴娃教場が分離する。この頴娃教場は,頴娃村立青年学校の家具科の後身であった。なお,今和泉高等学校は昭和31(1956)年に指宿市立今和泉中学校(現在の指宿市立西指宿中学校)の敷地と換地し移転し,同32年,現在の校名に改称した。

    ※5 昭和44(1969)年3月,寄宿舎舎監室や女子寄宿舎(『学校要覧』中の「学校見取図」は昭和43年度まで記載あり)等の取り壊し売却がなされ,同50(1975)年2月,男子寄宿舎の売却がなされた。

    ※6 旧木造図書館

     昭和54(1979)年に普通科を卒業された徳永(上村)みつよ氏「追想-想い出は力へと」(『創立六十周年記念誌』所収)に「図書館は,樹々に囲まれて,いつもその影が延びていた為か,懐かしいようで,少しもの寂しげな印象がある。(中略)『もっと足繁く通い,もっと多くの本を読書していたら』と,今さらながら考えるのも,図書館への想いである。」とある。

     旧木造図書館は,昭和38(1963)年度に竣工し,同56(1981)年9月に取り壊された。この旧木造図書館について,丸山喬氏(昭和38(1963)年から同42年在職,国語科)「頴娃高校賛歌のころ」(『創立六十周年記念誌』所収)に,同氏が赴任された二学期「古校舎の廃材を活用しての新図書館の建設が始まったが,私が学校司書の肩書を持っていたため,いろいろと意見を聞かれることが多く,現場へも始終顔を出した。建築科の生徒諸君の実習作業を兼ねての工事なので,作業は超スピードで進み,年内に工事は完了した。私も図書主任として入室することになった。三学期に入り,授業を担当した三年生が卒業すると,毎日のように基本カードを手に書架の本を一冊ずつ照合し,蔵書全部の点検を完了したが,これは私一人のきわめて地味な作業だったので,校長・教頭,司書嬢以外にはほとんど御存じなかったはずである。」と記されている。

     

     次回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に,部活動のことなど生徒の活動なども取り上げる予定です。どうぞお楽しみに。

  • 2020年08月07日(金)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(6)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(6)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立50周年記念誌記載の文章を中心に紹介します。

    一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

    III 出典:『創立五十周年記念誌』(昭和56(1981)年2月発行)

    1 学校長式辞(安田善内第14代校長,昭和54(1979)年12月1日~昭和59(1984)年3月31日在職)

     (前略)本校は昭和5(1930)年村立頴娃高等公民学校として設立が認可され,翌昭和6(1931)年5月5日第一期生の入学式が挙行されましてから,五十周年となります。(中略)大頴娃村の村長樋渡盛広先生が,つとに南薩子弟の教育の重要性を看破され,昭和初頭の不況の時代に青少年に職を与え,海外雄飛を期待して,財政難のため多くの反対もあったそうでありますが,私事を顧みず,ご尽力説得して下さいました先見によるものであります。(中略)

     更に,初代校長多田茂先生(※1)をはじめ,創立当時の先生方及び生徒の皆さんが,開学の主旨にのっとり,校舎,校具など不充分な悪条件を乗り越え,実学に徹した教育がなされたと承っております。本校校是であります開拓精神が培われたゆえんであります。爾来,学科の改廃,統合分離,校名の変更,県立移管,施設設備の拡充など,長い波乱に満ちた幾多の曲折を経て,現在普通科及び機械,電気,建築を含む工業科の二十三学級,生徒数九百三十四名,常勤教職員七十一名を擁する南薩における伝統ある総合的高等学校として発展して参った次第であります。

     思うに,本校がたどって参りました五十年は,昭和の激動の時代であります。戦前の卒業生は工業技術者として中国大陸その他海外に雄飛される方が多かったのが本校の特徴でありました。また,学徒動員として,県外各地の工場に徴集された方々もおられます(※2・3)。戦後は,食糧難のため,食糧増産をしながら学習に励んだ時代もありましたが,その後,我が国が平和国家の建設のため,産業立国を目指して,産業教育の振興や技術革新を行い世界の経済大国として目覚ましい発展をなしとげてきました近年においても,私達の先輩は大いに貢献の一翼をになって参られたのであります(後略)。

    2 回想(久保政司第9代校長,昭和37(1962)年4月1日~昭和42(1967)年3月31日在職)

     私が頴娃高校に勤務した昭和37(1962)年からの5年間は,高校生徒の急増期に当たり,学校は拡張を急ぎ活気に満ちていました。設置課程も校舎も新旧交代の時期でありました。定時制農業科は廃止して機械科を新設。家庭科は普通科に吸収しました(※4)。古い歴史をもつ木造の老朽校舎は解体して姿を消し,新に鉄筋三階建の工業科普通教室と理科室や,工業四科の実験実習室を新築しました。旧本館に家庭科実習室と社会科教室の増築など,毎年古校舎を取壊しては新築工事の連続でした。この県費事業と併行して,PTAが単独で行った学校造りへの協力は忘れることができません(※5)。予算750万円で図書館,柔剣道場,卓球場,職員住宅の建築と,9,200【機種依存文字】の農地を買収して運動場の拡張をしました。正門の移動,東門の改造,校内造園等は経費をPTAが負担して,職員・生徒の奉仕作業で立派にできました。(中略)新旧交代期はとかく混乱するものですが順調に進行したのはPTAと,教職員・生徒の和合協力によるものでした。(中略)この地域には海外移民の多いこと(※6)も知りました。こんな歴史と環境の中にある頴娃高校の教育精神として,開拓精神の強い生徒を育成したいと思いました。(後略)

    3 ある回想(安田新駒第13代校長,昭和52(1977)年4月1日~昭和54(1979)年11月30日在職)

    (前略。突然の鹿屋高校への異動となり,50周年記念事業の推進や生徒指導研究推進等のことなど後任に託さざるをえなかったことなど記載)土木科の廃止(※7)に伴う施設・設備の転用と整理,危険校舎の取壊し作業と玄関前のロータリー・庭園跡地への視聴覚室や音楽室等の特別教室の建設工事,運動場の排水工事,弓道場の建設等,いずれも着工したばかりで,最後まで見届けることはできなかった。一方,運動場の整地や第二体育館の建設,散在した工業科関係の施設・設備等のそれぞれの学科への集中整備計画,自転車置場や部室等の整備,図書館・礼法室・同窓会館・PTA会館食堂等を含む特別会館の建築構想の青写真と将来への展望は,すべて机上のプランのままであった。

     (中略。生徒指導上のことなど記載)校内指導態勢の確立を図り,学級PTA,学年PTA,特に地区PTAの活動を促進して,家庭との深い連帯のもとで,これらの指導を図るべく微力を尽した。(中略)会則の一部改正や,組織・機構の見直し等が行なわれ,研修するPTA,活動するPTAへの脱皮が図られた。特に,地区PTAの活動は次第に活発化し,郡内4高校(注・頴娃,山川,指宿,指宿商の4高校)の合同地区会の開催や高校生クラブの結成等もみられ,ご父兄の関心もいよいよ高まってきた。また,この時期に,婦人部も結成されて,母親たちの研修会や文化祭への参加もあった。一方,「PTAだより」も発刊され(中略)これらの活動の基礎基盤には,役員や評議員の方々の,学校教育への理解と協力並びに,係の先生方の骨身惜しまぬご尽力に負うところが大であった。(中略。昭和54(1979)・55年に文部省指定生徒指導研究推進校となったことなどを記載)

     正面玄関上の,西満州雄氏(注・昭和34(1959)年3月普通科卒)寄贈の「光の大時計」は,いまもコツコツ時を刻んでいるだろうか・・。在学中はほとんど視力を失い,学業の継続が困難な状況の中で,よく忍苦に耐え,時の校長先生や先生方の暖かい指導と激励を受け,優秀な成績で卒業。その後,大阪の針灸師学校に学び,いまでは,奈良県生駒で療院を経営しているという。西氏の善意と不屈の精神は,本校創立の建学の精神であり,このことについて一文を,県高校長会の会誌にも掲載してもらった。

     また,県当局わけても頴娃町当局の特別のご理解とご配慮により,中村部落の樫子山の地に,1,724【機種依存文字】の教職員住宅用地を確保することができ(中略)条件整備をしていただいたことは,まことに有難く,ここに衷心からお礼申し上げます。(後略)

    4 亡師亡友の碑の建立

     創立50周年記念事業として,記念式典のほか,校旗の新調,校内庭園の整備,楽器の購入等学校内容の充実とともに,亡師亡友の碑の建立がなされ,記念式典当日には,除幕式及び慰霊祭が執り行なわれた。

     当時の同窓会副会長新留直光氏の経過報告(『創立五十周年記念誌』所収)によれば,この碑文は鎌田要人県知事の揮毫,ブロンズ像の設計制作は,頴娃高等学校美術担当西俣敏弘教諭,碑の背面文は,書道担当馬場正則教諭が書かれたものとある。

    亡師亡友の碑文

       「すぎ行し 時の流れに 師よ友よ 逝きて還らず

        祈りもて 心に聞かん しず行くも 君が御声を

        創立五十周年を記念し建立す

          昭和五十五年十一月八日

          鹿児島県立頴娃高等学校 PTA 同窓会

          碑文 鹿児島県知事 鎌田要人 書

         創案 像制作 西俣敏広  」

    ※1 『創立五十周年記念誌』所収の卒業生代表田原武雄氏(高等公民学校第1回卒業生,昭和8(1933)年卒)の祝辞(要旨)には,「何とか頴娃に,外地に雄飛する学校を作りたいということで,マレーシアで苦労する多田先生を見込んで呼ばれたのです。多田先生は静岡県三島の出身で,無類の努力家でありました。(中略)多田校長先生は,授業開始の時刻がくると,我々がまだ立っている間に教室に入って来る,すぐ入ってくる。私どもはガソリンポンプと名付けておりました。大変な努力家でした。毎日,地下足袋をはいて,脚絆をまいてこられたのです。(後略。戦争で多くの級友が応召し従軍して大部分が死去されたことなど記載)」と,初代多田校長の在りし日を記されている。

     なお,当時の生徒も「ゲートルに地下足袋が校則であったけれども,生徒は熱くて窮屈な地下足袋よりか,親にも負担を掛けないただのハダシで登校する者が大部分だった。足袋は旅行か儀式のみ履いた」とは井上正己氏(昭和8(1933)年土木科卒)の言である(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行所収「胸像・村長と校長と学生」)。

    ※2 動員に関して

    【機種依存文字】 馬場岩雄氏(昭和16(1941)年頴娃工業学校電気科1年入学,同18年12月卒)「恩師・級友」(『同窓会誌 創立30周年記念号』1960年12月発行)から抜粋

     「電気科の2年の終り頃になると同級生の中から現役で入営するし,3年頃になると恩師も応召して何となく落着かない毎日が続いたようです。現在は応召され,入営した恩師,級友の大半が戦争のために還えらぬ師となり友となったことを思うと(中略)心から懐故の念に堪えない。私は恩師応召の後約1年間母校の電気科に手伝いとして残ったが,この頃は戦争も一段と烈しく電気科3年生を連れて佐世保の海軍工廠や土木科の青戸飛行場と学徒動員に必死の努力を続けたり,職場動員で福岡の飛行機会社に動員されたりで母校をせわしく通り去った感が深い。」

    【機種依存文字】 川野次男氏(昭和19(1944)年から同31(1956)年在職)「頴娃工業の歩み」(『創立五十周年記念誌』)から抜粋

     「19年の秋,時は敗色濃い戦争の真唯中,工場技術者養成が叫ばれ,私は富士の麓の静岡工業に奉職が内定していましたが,熊本の私のところにはるばる村上校長(注・第3代)が来られて,小笠原先生が応召し電気の先生がいないので,ぜひ郷里の後輩の育成に帰ってきて欲しいと説得され,富士ならぬサツマ富士の懐に方向を転ずることになりました。

     当時の頴娃工業は1棟の2階建がカライモ畠の中に聳(そび)えているだけの一見,兵舎風でもあり,施設設備は貧弱そのものでした。(中略)校外の民家も瀬川文具店の他1,2軒ぐらいでしたか。時々,校舎の上空を敵機が飛来しては校舎をめがけて機銃弾の掃射をしてゆき,その都度,生徒たちと一生懸命電気計器類をイモ畠の中に運び出しました。私は独身のせいもあって既に佐世保の海軍工廠の動員に行っている生徒たち(一回も顔を合わせたこともない)のもとへ引率者として赴くはめになり,日夜工廠内での作業と宿舎でのシラミ・空腹と戦場そのものでしたが,遂に最悪の日がきました。工場は勿論,多数の学徒の中でわが校の生徒数名が爆死と重傷という悲惨さに生徒と共になす術もなく,その夜は宿舎には帰らず残り全員でお通夜で明かしました。今も生々しく蘇って悪夢でもみている感じです。心からご冥福を祈っています。

     佐世保の苦難の要務を終えて帰任すると,間もなく斬込隊の隊長訓練とかで熊本に武装して赴きましたが,ここでまたまた空襲を受け市内5割以上の被災に辛うじて帰校した頃でした。わが唯一の学び舎が機銃掃射で全焼し茫然,(中略)以後は例の講堂(雨の時は室外同然)を借りて鋭意授業を続行しましたがここでまた電気3年生1人が投下された爆弾で重傷を受け,応急手当の甲斐もなく昇天してしまいました。痛魂の極みでした。」

     なお,川野氏は校章案の制作者でもある。上記文章中,校章改制の際に御自身の案が採択されたことにふれ,「端麗にして静かなる開聞岳は女子の,黒汐の躍動を男子のそれぞれ理想像といたしました」と書かれている。

    ※3 青戸飛行場(※2【機種依存文字】馬場岩雄氏の記述にもみえる。)について

     頴娃町上別府の青戸周辺には,かつて知覧飛行場の補助として秘密裏に2,000m級2本のV字形滑走路を持つ飛行場が建設されていた(現在の県道頴娃川辺線、南九州市頴娃町青戸と加治佐の間の台地、通称加治佐原(かっちゃばい))。「ち(知覧の知)のひ(飛)」の暗号を持つ知覧に対して,当初この補助飛行場の建設予定地が枕崎だったため「ま(枕崎)のひ」と呼ばれた。九州には本土防衛のため多くの臨時飛行場が建設され,青戸飛行場もその一つである。この飛行場は,昭和18(1943)年春に航空写真による現地調査がされ,間もなく着工される。「軍,土木業者,朝鮮人労働者のほか,南薩一帯の男女,国民学校六年以上の少年たちも駆り出され」(『記憶の証人 かごしま戦争遺跡』)動員は一日一万人といわれた。この時代の青戸一帯は固いコラ層が覆い,水に恵まれない土地で衛生状態は最悪だったという。1944年秋ごろには芝張りの滑走路の形が整ったとはいえ,1945年3月には頴娃でも空襲が始まり工事は中断が続き,遂に未完成のまま終戦を迎えた。竹筋コンクリートのトーチカ(防御陣地)や簡易型掩体壕(えんたいごう),貯水槽がわずかに残されている。

    (参考文献 『記憶の証人 かごしま戦争遺跡』(南日本新聞社,2006年),西俊寛「幻の旧陸軍まのひ(青戸飛行場)-平成七年八月 戦後五十年に寄せて-」(『薩南文化』第3号,南九州市,2011年)

    ※4 昭和38(1963)年4月1日,機械科新設

     迫田雅人氏(昭和38年から同42年3月在職)「機械科創設当時の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)によれば「県立高校で機械科を設置してある学校は,昭和三十三(1955)年では,わずかに三校であった。(中略)昭和三十四年からあちこちの県立高校で設置科の改廃,新設がさかんに行なわれ,昭和三十八年には県立の十一校に機械科が設置された。頴娃高校でも時代の要請に従って,長年,地域産業振興に貢献した農業科の代わりに,昭和三十八年四月から機械科二学級が新しく募集されて,希望に満ちあふれた若人,八十八名が機械科第一回生として,ほかの科の生徒約三百三十名と共に入学した。

     (中略)機械科教室は敷地の端に近く,二教室続きの平家建一棟であり,新築当初はモデル建築といわれていたそうだが,最近の建物に比べると,明るさが足りなかった。しかし,当時,それ以外には普通教室として使用可能の教室はなかった。機械科研究室(職員室)は,建築科の先輩達が実習時間に丹精こめて作った施工実習室の一部,約三十三平方メートルが使われた。(中略)

     工業各科にとっては,実習と製図が大切な科目である。まず製図については,建築科製図室を機械科生徒にも使用させてもらったので,非常に助かった。生徒は真面目に精進を続けて,二年生になってからユニ製図コンクールで銀賞を受賞する生徒もいた。その後,新館三階建が竣工したので,製図室は現在では食堂に使っている建物に移転した。

     つぎに,実習は週三時間ずつで,苦肉の策として手仕上とスケッチの二班に編成され(中略)スケッチの場所は,塩蔵室の二階の一部が使われた。二階の一部といっても,そこは屋根裏に等しい状況であった。しかし頴娃高校の場合は当時,農業科の建物が残っていたのだから,他の新設校に比べると,まだよかった。手仕上実習室としては製茶工場あとが使われた。(中略)その後,新しく機械工場ができたので,製茶工場の建物は,不必要でもあり,また白蟻の被害がひどくなっていたので,取り壊し,その跡に前記の二教室を移転することになった。」(以下,機械科生徒が分担することとなった,白蟻の巣探しの顛末が記されている。)

     回顧座談会(『創立四十周年記念誌』所収)において,白尾満氏(昭和38(1963)年4月から同47年在職)によれば,当時,実習工場がなく,農業科の後片づけ,土運び,白蟻さがしを実習時間に行ったこと,旋盤は当初7台だけ,万力を15台ほど入れ,農業科の三輪車で土運びや分解組み立てを行ったこと,翌年工場ができ,紅茶工場に入れてあった機械を移転し,現在の機械工場ができたという。また同座談会で,当時の機械科1期生,和田英夫氏(昭和40(1965)年3月機械科卒)は「鎌を持ったりスコップで土運びなどをしたりした時,機械科に来てなんでこんなことをしなければならないのかと,何回も思ったことです。しかし一期生でもあるし,学校のモットーでありました開拓精神ということもあって,これから機械科を育てて行かねばならないと思っていました。一期生で,責任を痛感し,皆が向学心に燃えてやっていました。」と話されている。

     また,同じく機械科1期生の田之脇勇氏「懐しき思い出」(『創立五十周年記念誌』所収)には,「私たちは戦後の第1次ベビーブームの時に生まれた世代で,小学校に入学しても,中学校へ入学しても大幅に学級が増加していきました。」と記され,高度成長期の社会情勢を背景に1期生としてかなり気概をもって入学したものの,当初,機械らしきものは一つもなく新設機械科のために建てられたものも全くない中でスタートしたこと,1年次1学期の授業は「2学級しかない老朽木造校舎の中で授業を受け,実習の時間になると(中略)実習服だけ身につけ,これまた,もと農業科が養豚舎として使っていた古い木造建物を機械科の実習室にかえるべく,カナヅチとタガネを持って豚の糞尿で汚れた石壁を削ったり,槌やツルハシで不要な石壁や床などをたたきこわしたり,整地等をしておりました。(中略)自分は本当に機械科に入ったのだろうかと疑いたくなるほどでしたが,2学期に入るころには,その木造建物の中に万力ややすり,ボール盤,グラインダーなど簡単な道具や機械が入り,何とか機械科らしい体裁を整えてきました。(中略)その後,学年が進むにつれ,教室も新築なった鉄筋4階建の4階に移り,実習工場もできて,旋盤や型削り盤,小型の溶鉱炉等が逐次整備され,それに伴って,ねじ切りや溶接,鋳型を作っての鋳造,鍛造等の実習も次第にできるようになりました。3年生になると,水力学の実習室も整備されて,こっちの方の実習もできるようになりました。」と当時のことを振り返っておられる。

    ※5 回顧座談会『創立四十周年記念誌』において,久保政司氏は,生徒数の膨張期(1,200名)に校舎の拡張が追いつかず,まず最初に狭さを感じたのは図書館(三十周年記念に作られた)だったこと,体育館でも多くの部活動生が活動していたため,柔剣道場と卓球場建設を決意したこと,当時古い木造校舎が次々に解体されていたため,その古材を再利用することとして校舎を無償払下げにしてもらい,PTAの協力をいただいて,図書館,二棟の柔剣道場,卓球場を五か年計画で建てた経緯を話されている。なお,その際に「あとで第一本館に接続して家庭科の二つの実習室,その上に,三階に社会科教室を作ったんですが,その時,惜しいと思ったのは,その敷地が松林で,青年学校時代奉安殿のあった所で一段高く,松の木の下に芝生があって生徒の憩の場所であったんですが,そこをつぶしてしまったことです。」とも語っておられる。(青年学校の面影をそのまま止めていた場所だったという。)

    ※6 海外移民の多さ

    『頴娃町郷土誌』改訂版(1990年発行)によれば,旧頴娃町内の出移民の約90%は摺木・耳原・石垣・大川・水成川出身の人たちであり,成功者を「アメリカどん」と呼んで尊敬したという。「別府地区は海運業が盛んで,進取の気性に富み,情報を得やすかったこともあり,移民先駆者の強い愛郷心と移民希望者の精神的安定感から同郷同族による移民が主であった。」

     最初の移民は,明治27(1894)年,摺木の摺木寅吉,前村松之助氏以降とされ,大正13(1924)年,頴娃・知覧の出身者が相互扶助をはかるため,「頴・知同志会」が結成され,昭和30(1955)年9月,難民救済法による契約移民が始まり,鹿児島県から第一次移民として96人がカリフォルニア州に出発した時には,頴娃町から1/3の30人が渡米したという。31年4月には26人。同年5月には52人の多数が渡米した。

     この他,中南米やフィリピンへの移民も出している。

    ※7 土木科廃止

     昭和6(1931)年の高等公民学校,同10(1935)年の青年学校,同16(1941)年の頴娃工業学校,戦後の昭和23(1948)年の全日制頴娃高等学校と,その歴史を紡いだ学科であった。

     『創立六十周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)所収の堀之内優氏(頴娃工業学校土木科一期生)「思い出すがままに」によれば,2年生・3年生の夏休み,夏期実習に「県内はもちろん県外の各事業場に出かけて約一か月間土木の専門を実施に勉強した」という。堀之内氏は,山口県の国道ルート測量に従事され,「トランシットやレベルを担ぎながら延々と続く田圃の中でヒルに足を喰われ,夏の炎天下に汗を流しながら測量をしたことは終生忘れ得ない思い出である。」と振り返っておられる。また,3年生2学期には担任(加藤教諭)から,「同級生四人で頴娃村牧之内飯山の農道の設計をするように申し渡され,四人でセンター・縦横断・平板の各測量を行い幅員三メートルの道路を八百メートル設計した」こと,何とか設計図面を完成できた時の感激を記されている。

     この『創立六十周年記念誌』に転載された,『わが青春の母校・青春有情』(鹿児島新報社,昭和53(1978)年4月発行)「頴娃高校沿革」には「創立以来続いている土木科は優秀な人材を次々に世に送り出した。とくに土木科の生徒が水不足のために始めた水道工事は,すばらしい成果をおさめ“頴娃高校に土木科あり”と有名になった。この土木科も五十一年三月には募集停止となり,卒業生を寂しがらせている」とあるように,昭和51(1976)年春に土木科は募集停止とされた。

      今回は,土木科の募集停止,電気科の新設に関して取り上げるとともに,創立50周年記念事業として行われた亡師亡友の碑の建立も踏まえて,これまでに記載できなかった,戦時中の生徒・職員の動員などについても触れました。

      次回は,平成3(1991)年3月に発行された,創立60周年記念誌を基に紹介する予定です。平成に入り,昭和期の頴娃高校を関係者の皆さんがどのように振り返っておられるのか,お楽しみに。

  • 2020年08月06日(木)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(5)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(5)-

                             校長 林  匡

    今回は,創立40周年記念誌などから,かつての定時制の学科,特に農業科のことなどを紹介します。一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

     

    II 出典:『創立四十周年記念誌』(昭和46(1971)年3月発行)

    3 併設定時制の思い出(宮田己之助氏,昭和24(1949)年から同30(1955)年在職。本文の一部は第2回注7にも引用)

     私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立(注:昭和24年4月村立)として併設され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)

     定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設(※1)で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)・桶器(タンコ)・木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。その収益は生徒に還元して食費や学資に充当していたので,父兄からも喜ばれ,働きながら学ぶ制度になっていた。

     家庭科は,町立家政女学校として地域の信頼を集め,女子教育の伝統があり,専門の女教師から教育されていたのをそのまま吸収して,三課程をあわせて,定時制高校として設立され,全日制高校に併設されたのでした。農業科は新設(※2)で,設備としては青年学校の古校舎があり,実習地は荒廃された谷場茶園あるのみで,校庭の一部は戦時中,食糧難時代に掘り起こされて甘藷野菜畠に転じ,職員の耕作地に利用され,当時も尚,その名残りを止めていた。ある日農業科の乳牛(※3)が芋畑を荒し廻り,先生方から大目玉を喰ったことは今も面白おかしい思い出の一つです。

     町当局は,設立後年々財政的な援助と熱意を表わして,設備も年々増加し,振興が計られたが,当時は定時制高校には魅力が乏しく,毎年の生徒募集には苦労したものだった。時には県の指導による公開研究など催すなどして,地域の関心を高め,やっと生徒数も確保されるようになり,三年目に県立に移管されたが,運営の面で建築科の複雑な各分科は認められず,単純化せざるを得なくなり,それに伴い技術指導の講師の先生方が多くて(中略)一応落着いたようなものの気の毒なことも多かった。

     やがて建築科も別科から本科に昇格(※4)するなど,一応軌道に乗った形になって,(中略。宮田氏は昭和30(1955)年4月枕崎高校に転勤)農業科は,後に山川高校に合併する形になって,頴娃高校から消えたことは,卒業生はことさら寂しいでしょう。振興し得なかったことが残念でならない。(後略)

    4 思い出すことなど(錨綱男氏,昭和34(1959)年から同39(1964)年在職)

     (前略)頴娃高校に赴任したのは昭和三十四(1959)年4月4日であった。当時汽車はなく,鹿交通バスに荷物と共に揺られて,未知の任地への不安感を抱きながら車窓より眺めた菜の花のあざやかさが,今だに印象に刻みこまれている。(中略)

     新任式は古い木造の講堂(※5)で行われたが床がきしんで崩れ落ちはしないかと心配したことを覚えている。(中略)主な担当は特作(茶)と加工。入料先生より製茶(紅茶)の手ほどきを受けて,どうにか一本立ち出来るようになったのは,二番茶か三番茶にかかる頃であったろうか。当時町内で紅茶の施設があるのは学校だけ(※6)だったので,谷場・粟ヶ窪・飯山の部落よりの委託加工が多く,製茶時期になると夜半に及ぶことがしばしばであった。

     二学期に入ると関係町村の学校案内。夜に入ってから三輪車を駆って部落ごとに家庭訪問をして,来年度の生徒募集を行ったが山川高校の農業科と競い合い開聞町が関ヶ原となっていた。当初はこのような生徒募集に対して批判的であったが,家庭に入って話し合ううちに生徒本人の進学の手助けとなり,かつ父兄の教育に対する啓蒙の役割りも果たすことになると悟って,今まで東奔西走された農業科の先生方のご労苦に対し,頭の下がる思いであった。このような苦労の甲斐あって三十五(1960)年四月の新入生は五十名を突破し将来明るい見通しをお互い抱き合ったが,それもつかのまで三十六(1961)年度は県教育庁の方針により農業科は募集停止。代わりに機械科が新設。(中略)三十九(1964)年三月には農業科の最後の卒業生四十五名をめでたく送り出すことが出来て心おきなくその年の春には山川高校に転任して今日に及んでいる。

    (中略)農業科生徒全員をあげての谷場茶園の終日実習。家庭科の別科(二年)のある頃は,年に一度は茶摘みの奉仕を気持ちよくしてくれたことも楽しい思い出として残っている。最後の農業科卒業生となった四十五名(※7)は「立つ鳥あとを濁さず」のことわざとおり,学習に実習に,運動によくがんばったものである。(後略)

     

    ※1 『創立四十周年記念誌』所収の「回顧座談会」に,宮田氏は「定時制は村立であって,予算は村のお世話になっていた次第でした(中略)農業科のごときは新設だったものですから,畜舎,作業場があるわけじゃないし,教室は養蚕室をなんとか雨が漏らないようにして授業をやりました。農業科のばあい,生徒がおらず,着任と同時に生徒募集に歩き回る有様でした。(中略)わずか8名の農業科の生徒で発足したわけです。(中略)経理面では財源がないものですから,生徒が仕事をし,その報酬で先生方の給料も払い,また生徒は全寮制でしたがその費用もまかなっていたわけです。一種の自活でした。」と発言されている。

    ※2 『創立四十周年記念誌』所収の「回顧座談会」の下赤謙治氏(昭和29(1954)年3月農業科卒,同年から昭和38(1963)まで農業科在職)によれば,当時の農業科が「施設設備が貧弱でありまして,生徒が週一回農家に働きに行き,その稼ぎで設備を整えてゆきました。その中で特に記憶にあるのは,生徒の稼ぎで四十二万円の温室をつくった時のことです。土曜日がホームプロジェクトの日で,家庭実習の日だったんですが,この日を稼ぎの日と決めて,日当二百五十円ぐらいで稼ぎに出て,その金を持ち寄って温室を作り上げました。」という。

     さらに下赤謙治氏の「思い出」(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)所収)から一部を引用する。同誌には「昭和25年~27年頃の頴娃高校の様子」として平面図が挿入されており,農業科教室,紅茶工場,農業科教室,花壇,堆肥舎・畜舎・農具舎,実習地,塩蔵室など農業科関係の建物と,家庭科教室,建築家教室や木工科実習室などが,普通科,電気科関係の施設とともに見て取れる。

     「(前略)頴娃高校に定時制が併設され(中略)施設といえば旧青年学校当時の煙草乾燥室,塩蔵室(漬物加工室),新築の農産加工室(紅茶工場),実習農場は,旧工業高校当時の実習地が現Aコープ前のパチンコ店のところに40aと現グラウンドの北側に実習農場がありました。グラウンドの拡張工事のたびに農場がつぶされ,校舎が新築するたびに農場が狭くなったことを記憶している。青年学校当時の荒廃された谷場の茶園と山林50aを開墾して農場を拡張した。そして八十八夜の頃農業科・家庭科の生徒全員による茶摘み作業で賑わったことが楽しい思い出として残っています。毎年11月23日の勤労感謝の日には,農業科全員終日実習で秋の取り入れ作業で年1回の試食会,大きな風呂釜で芋をふかし品種別の試食,豚の解剖実習,豚肉の販売,残りは家庭科の料理実習で豚骨料理,豚汁等で試食会で美味しかった。

     (中略)昭和27(1952)年頃だったと記憶しておりますが畜舎,堆肥舎,倉庫が新築され真新しい畜舎に乳牛1頭,生産豚2頭,緬羊2頭が導入され,当番制で1週間泊り込みで家畜の世話,花壇の手入れ,製茶時期になると紅茶製造に職員・生徒ともども夜間作業で深夜まで及ぶこともしばしばあった。家畜当番は毎朝5時起床,お湯沸し,乳房の清掃,搾乳殺菌,牛乳配達と毎日忙しい家畜当番でありました。放課後は,家庭科の生徒まで動員して草刈をし,飼料の確保を図ったものです。」

    ※3 昭和34年度電気科卒業生の久保(当時)貢氏の「思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)にも「運動場の片隅にはいつも二・三頭の乳牛がつながれていた」とある。

    ※4 建築科について,『同窓会誌 創立30周年記念号』(1960年発行)所収の浜田彬甫第7代校長(昭和26(1951)年4月1日から同32(1957)年3月31日在職)の「思い出」には,「定時制建築科にありました5課程が家具,左官,構築の3課程となっておりましたものを,更に時代の変遷,地域の要望によりまして,構築のみを建築科として三カ年の別科を四カ年制の本科に変更しました」とある。

    ※5 久保貢氏の「思い出」(※3参照)によれば,当時「天然記念物」と言われていたという。

    ※6 頴娃は,鹿児島の茶業を支える,茶の栽培・生産・加工が極めて盛んな地域である。明治時代に発展し大正時代に入って経営合理化や機械製茶への転換が進んだ。昭和10(1935)年1月20日には,頴娃高等学校の前身である頴娃高等公民学校を会場として,茶業振興発展を図り,県下の茶業関係者が参加し,当時の早川知事も臨席した第6回茶業振興大会が開催されている。

    昭和30(1955)年代には紅茶生産が推進されるようになり,鹿児島県でも紅茶産業化計画が立てられ優良品種の普及や紅茶品種改善,流通合理化等が図られた。

     頴娃町(当時)では既に昭和24(1949)年に紅茶が奨励され始め,緑茶とともに長期振興計画が立てられた。紅茶の栽培製造は昭和26(1951)年に取り組まれ,同30年までに個人工場が3箇所建設されたという。生産面積拡大により昭和37(1962)年度には新農村建設事業で青戸農協に紅茶工場が建てられた。ただし紅茶は国際競争に圧迫され緑茶への転換が進められ衰微,昭和38(1963)年から育苗圃の苗木を焼却処分するなどの措置がとられて同42年に完了,紅茶栽培は行われなくなる。

       (参考文献 『頴娃町茶業振興会沿革史』(頴娃町茶業振興会,2002年11月発行),『頴娃町商工業史』(頴娃町商工会,1990年発行))

    ※7 里中勝氏(昭和39(1964)年農業科卒)「良き時代を思う」(『創立七十周年記念誌』(2001年3月発行)所収)から以下掲載する。

     「(前略)当時の農業科は東門を入って直ぐ右手にガラス温室や車庫があり,県道頴娃川辺線沿いに花壇や育苗床等がありました。県道から民有地境を運動場の方に向かうと製茶加工実習室や棟違いの校舎が続き,農業科職員室,農業科の教室,保健室,家畜当番室がありました。これらの前にコンクリート育苗施設などがありました。校舎をさらに西へ進むと鶏舎二階建ての畜舎があり,これらの前に農業科の三教室と家庭科の二教室がありました。

     農業科では伝統的に施設の充実のため生徒が農業実習をかねて農家に出向きアルバイトを行いその益金の一部を学校に納入していました。(中略。飯山集落の芋掘り,摺木集落の菜種収穫,谷場集落近くの実習農場での終日実習などを記載されている。)夏休みには毎日のように先生に連れられて時には三年生の先輩に連れられて,家畜審査練習を希望する数人と自転車で町内はもとより指宿・山川・開聞へと牛や豚の審査練習に明け暮れました。(後略。先輩二名の家畜審査競技県大会優勝,全国大会優良四校に入った快挙,愛知県での県外実習などが記載されている。)」

     

     次回は,昭和56(1981)年2月に発行された,創立50周年記念誌記載の文章を基に紹介する予定です。どうぞお楽しみに。

  • 2020年08月05日(水)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(4)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(4)-

                             校長 林  匡

    今回は,50年(半世紀)前の創立40周年記念誌から紹介します。一部抜粋になること,表記についてなどは,前回同様です。

    II  出典:『創立四十周年記念誌』(昭和46(1971)年3月発行)

    1 式辞(上妻芳助第10代校長,昭和42(1967)年4月1日~昭和46(1971)年3月31日在職)

     (前略)県立頴娃高等学校は県立頴娃工業学校を母胎にして生まれ,高校としても既に二十三年の歴史をもち,この間にさえ複雑な変遷を経て来たのでありますがこの基になった県立頴娃工業学校は前身を村立頴娃工業学校に,更に村立頴娃青年学校,村立頴娃高等公民学校と遡るのであります。高等公民学校の創立は昭和六(1931)年であり,その第一期生の入学式の行われた五月五日を以て私どもは創立記念日といたしております。

     高等公民学校を創立された時の村長樋渡護広先生は陸軍大学校を出て駐英大使館付武官をされた方でありますので,恐らく世界的視野の中で学校創設を企画されたのではなかろうかと推察いたされます。また当時の頴娃村は電気事業も経営されていて,それとの関連において公民学校に電気科・土木科を設置された(※1)もののようで,今のことばで言えば「産学協同」の実践であったと思われます。

     ひるがえって本県における旧制中学校の設立を眺めますに,既に古く明治二十七(1894)年には一中が開設され,明治の末期には県立中学校は六校を数え,指導者層の育成に大きな役割を果たしております。がまだ実業の教育までには及んでおりません。

     私どもの学校はそれらに比べて時代ははるかに下りますけれども創立の基を職能教育,実学においております。そして創立以来歴代の校長先生の苦心のご経営と多くの先生方野生との皆さんのご努力の結果が今日の発展を招き,現在では生徒数千二百余名,教職員数九十一名,卒業生八千四百余名を擁し,物的施設設備もまた充実するに至りました。これひとえに県ご当局の温かいご指導と地域内各界のご支援によるものでありまして,ここに衷心より厚くお礼申し上げます。

     由来,頴娃の地は水に乏しいとされ,学校も創立以来高校発足の当初まで用水の確保には非常に難儀をして来た(※2)のでありますが科学の発達と技術の進歩は,この地に一日二千トンを超える湧水を掘り当て,四百トンに余る清水を満々と湛えるプールがつい先日完成いたしました(※3)。この一時は時代の進運と頴娃高校の発展を端的に象徴するものと信じます。(中略)

     私どもは今日の記念日を機会に,人間にとって幸福とは何であるか,また我が校の伝統的精神である開拓精神を今の世に生かすにはどうしたらよいかを深く考えてみたいものであります。そして覚悟を新たにして頴娃高校の一層の発展を図りたいと存じます。(後略)

    2 思い出すことなど(豊満ユキエ氏,昭和23(1948)年6月23日~昭和51(1976)年3月31日養護教諭として在職)

     本校創立の昭和六(1931)年と申しますと,私は頴娃村立実科高等女学校(※4)一年生で,四月には二年生に進学する年でありましたが,女学校はその年の三月で廃校となり,新たに村立の公民学校が創立されることになることを聞かされ,何とも言えない情けない気持ちになったことを思いおこさずにはおられません。

     転校出来ない者は来年の三月まで勉強を続けさせる,卒業だけはさせると言うことでしたが,私は,鹿児島の学校に転校しました。(中略。満洲から昭和21(1946)年に引き上げられたことなど記載。注・『創立六十周年記念誌』(1991年発行)の同氏「思い出」によれば鹿児島産婆看護学校に進学され,その後満洲から引き揚げ後,昭和22(1947)年9月から別府中学校に奉職され,翌年に頴娃工業学校が頴娃高等学校になった時に本校に勤められたとある。)本校に奉職することになろうとは,神ならぬ身の知る由もありませんでした。その赴任の日の私は,モンペ姿に運動靴で朝礼台に立って,挨拶をしたのですが,この時の格好は,ちょっと想像もつかないでしょう。その頃の生徒の皆さんも,わらぞうり,または下駄をはいていたものでしたが,中には,はだしの生徒も多数まじっていたことを思い出します。

     当時は通学もたいへんで,川尻(※5)から毎日はだしで本を読みながら通学し,それを卒業まで通して,卒業式には表彰を受けた生徒もいたように記憶しています。(中略)その当時の本校は,下のグラウンドもせまく,運動会等も,今の第一本館と第二本館のあたりを使用していました。また下のグラウンドの北側では薩摩芋を植えたり,今の体育館(注・現在の正門右側駐車場の場所にあった屋内運動場)あたりは高台になっていましたが,そこでは野菜などを作っていたものです。その頃は今のように経済事情もよくありませんでしたので,資金カンパのため,いろんな労力奉仕もしました。

     池田湖近くの烏帽子岳に,全校生徒職員で杉の木を植えに行ったり,また,示山(※6)に木材の引き出し作業のため,一晩泊りででかけたりしたものです。また二十六(1951)年のルース台風では,本校もひどい被害を受けました(※7)が,その後片づけに,汗水たらして頑張った生徒さんの姿が思い浮かんでまいります。

     卒業前の奉仕作業(※8)は,その頃から毎年続けられていますが,このような苦しい時代の先輩の努力が,今の本校の発展を,もたらした基になったものだと思います。

     楽しかった思い出も沢山ありますが,中でも毎年の行事として農業科の謝恩会が施行されるたびに私も呼ばれて,家庭科(※9)の皆さんの手作りで,ぶたとじゃがいも,こんにゃく等のおにしめや,おすし等をおいしく戴きながら,思い出話に花を咲かせたことも忘れえぬ思い出となっております。(後略) 

    ※1 当時の頴娃村は電気事業も経営

     頴娃町内を流れる高取川は,吉見山の南斜面の湧き水を水源として,河道流域の出水を集め豊かな水量を保つ。高さ18mの伊瀬知滝を流れ落ちて南流し,高取下で河道を大きく西に変えて馬渡川に合流。江戸時代から用水が造られ新田の灌漑用水となっている。大正9(1920)年に伊瀬知滝の水力を利用して薩南水電株式会社の発電所が建設されたが,昭和18(1943)年,九州配電会社に統合されて廃止された。(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版,頴娃町,1990年)

     また『創立六十周年記念誌』(1991年3月発行)に転載された,昭和53(1978)年4月「わが青春の母校・青春有情」(鹿児島新報社)の中には「樋渡(注・頴娃村立高等公民学校創立に当たった当時の頴娃村長)はまた知覧の麓川発電を買収して,村営の「薩南水電株式会社」をつくり,全戸もれなく配線してランプ生活を追放した。発電所は電気科の技能教育に大いに役立った。日本広しと言えども発電所を持っていた学校は頴娃だけではなかろうか。学校に実習の設備が乏しかったため,電気科の生徒は夏休みになると自転車のペダルを踏んで,十二【機種依存文字】の山道を越え,知覧の発電所に出かけ,一週間から十日間泊まり込んで実習した。頴娃町上別府の里中新吉は電気科の一回卒(昭和8(1933)年)。「実習で鍛えられたので卒業と同時に日本水電に入社したが,おかげで困るようなことはなかった」という。卒業生の評判はどこの職場でもよかった。」と記載されている。井上政己氏(昭和8年土木科卒)も「電気科は村営の発電所で,土木科は辺木園先生や村土木課で測量をみっちり仕込まれた。県土木課出張員の手先にもなって技術をみがいた。」と記している(『創立四十周年記念誌』所収「胸像・村長と校長と学生」)。

     薩南水電に関して,平成11(1999)年から同18(2006)年度に在職された福永勇二氏は,3年担任の時に「頴娃高校の電気科は鹿児島県で最も古い伝統を誇り,設立には頴娃村(現・南九州市)伊瀬知にあったといわれる水力発電所が大きく関わっている。これを調査して,ホームページにまとめて情報発信してみないか!」と,課題研究のテーマ設定の一つとして生徒に呼びかけ,これに3名の生徒が興味を持ち,発電所跡地の探索などを経て素晴らしい調査研究結果のページが作成されたことを記されている(『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。              

    ※2 創立以来高校発足の当初まで用水の確保には非常に難儀

     昭和6(1931)年から同23(1948)年まで在職された貴島テル氏「創立の頃の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)には「その頃の悩みの種は何と云っても水の無いことであった。料理の実習ともなると水汲当番は朝早くから汲んで教室の後ろに用意しておく心がけのよさ。可哀想なのは暑い盛り埃の立つグラウンドで教練を終り汗まみれになって我先にと水のみにかけ込んでくる男生徒が,からっぽになった水瓶をうらめしそうに見ながら小使室から出て行く姿はあわれであった。」とある。

     現在,校内に行幸記念水道碑が残る(第1回注9参照)。「昭和10(1935)年秋には畏(かしこ)くも御使御差遣の光栄に浴し,記念事業として水道が布設され,水不足の学園も至る処に清水がカックより湧き」(松永友義氏「30周年を顧みて」『同窓会誌 30周年記念号』1960年12月発行)とみえるが,この時もやはり水での苦労は続いていた。先の貴島氏の文を続ける。

     「やがて新しい校舎も次々と建ち,学校運営も軌道に乗ると村外からの入学志願者も多く,県内は勿論県外からの参観者もひんぱんに訪れ遂には勅使御差遣と云う大変なお客様をお迎えするまでになった。しかし当時三俣には旅館も食堂もなく,校内での宴会は絶対禁止されてはいたが,来客の昼食接待などは引受けねばならなかった。その度に女生徒は水桶をかついで水之元に走」たとある。その後,「水の問題も飯山部落の自然湧水を水源とする簡易水道が,戦死された辺木園先生と土木科の生徒のなみなみならぬ苦心と努力によって完成し,始めて水道の蛇口から水が出た瞬間の歓声。水に苦労した者のみの知るよろこびの叫びでもあった。」と記されている。

     土木科の辺木園氏と生徒の活躍に関して『創立六十周年記念誌』に転載された「わが青春の母校・青春有情」(鹿児島新報社)によれば「学校で一番の悩みは水の問題だった。学校には水道も井戸もなかった。(中略)多田校長は後援会長の鶴留盛衛村会議員と相談,水道施設をつくってくれるよう村長にたのんだ。だが,村政が苦しいのでとてもそんな財源はないという返事。思い余った多田は材料代だけなんとかしてくれたら,学校で水道工事を引受けるからともちかけ,農工銀行から一万八千円を引き出すことに成功した。飯山部落に水源を見つけ,早速工事用のエタニットパイプを購入,土木科担任の辺木園保が工事の設計,監督にあたり,土木科の生徒が学校の裁縫室に泊まり込み,昼間は野外作業,夜は図面書きと昼夜兼行の工事が進められた。」とある。

     この作業と図面書きは,新吉義則氏(昭和11(1936)年土木課卒)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』所収)による。「当時の学校は水が乏しく,飲用は中村部落のもらい水,用水はタンクの雨水であった。飯山の川から取水して水道を敷設する事となり,その測量・設計を土木二年の者が学校に泊まりこみ,昼間は野外作業をし,夜は図面を書いたのですが,その内業が終らぬ内に夜が明けることもあった。当番制で家事室で炊飯し,弁当持ちで出かけていた」と記述されている。

     ただ以後も,水の確保には相当難儀されたことが分かる。野添ヲサワ氏(昭和12(1937)年家政科卒,同23(1948)年4月から同56(1981)年3月まで用務員として在職)の「思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)には「昭和十五年(1940)頃水道は敷設されてはいたものの,(昭和23年頃は)くる日も断水,また断水,生徒数は今の半数ぐらい(注・昭和45年度の生徒数は,『学校要覧』によれば普通科437人,機械科287人,電気科246人,建築科119人,土木科123人の計1,212人)だったと思います。約600名の飲料水を確保するのに,松虫のジイジイなく真夏の太陽をあびながら額の汗を拭き拭き部落の方々と列をなしての中村までの水汲み,(中略)私共の水タンゴをになった姿を見るや水桶をとりまき,われ先にとひしゃくをうばい合う生徒の輪,十分間の休みに見る見るうちに水桶はからっぽ。そのつどため息が出る始末。(中略)それから七年,昭和三十(1955)年頃だったと思います。第二水道工事がはじまり,水汲みからやっと解放された時の気持,書きますときりがありません。」と当時の苦労が記されている。なお,汲んできた水は,旧軍隊から払い下げられた十石入りの大きな瓶だったと,野沢氏は回顧座談会で話されている。

     薩南台地は,四万十層や第三紀安山岩類を基盤に,阿多火砕流を主体とした溶結凝灰岩の台地で,姶良カルデラの入戸火砕流がシラス層を形成する。諸火山の活動で,火山灰や火山礫が風積して台地を覆っているが,頴娃町域を広く覆う土壌は,開聞岳の噴火による黒色火山灰(クロボク)とコラ層である。コラ層は透水性がなく,植物の毛根の発育を阻害する不良土壌のため,昭和27(1952)年から特殊土壌法の適用を受けて土地改良事業(コラ排除)が行われた。

     旧頴娃町内には複数の河川があるが,水の確保は課題であった。江戸時代以降,灌漑用水路も開かれてはいたが例えば,示山から石垣浜まで全長9,500mの石垣川は,河川だが,途中から潜流となり谷壁の深い涸れ川となっているため,かつて周辺集落の人は,涸谷に堰を築いて水たまりを造り,雨水をためて日用水としていた。「水がなくては農業の近代化は考えられないという願いから,昭和45(1970)年,指宿市・山川町・開聞町を含めた6,072㏊の畑地灌漑事業が,国営・県営事業として始められた。集川・高取川・馬渡川の河水を自然流下によって池田湖に誘水し,池田湖を調整池として揚水して,各市町のファームポンド(農業用ため池)に導水するものである。」(『頴娃町郷土誌』改訂版,頴娃町,1990年)とあるように,生活・産業の上で必要な土壌改良や用水確保が進められて現在に至る。

    ※3 プール建設,40周年事業

     創立40周年事業として樋渡村長・多田校長胸像の移築,庭園造成とプール建設がなされた(第1回注6参照)。なおこの他に,元PTA会長祝迫敏男氏など関係者の尽力により,歴代校長写真9枚が校長室に掲げられている(『創立四十周年記念誌』)。

    ※4 頴娃村立実科高等女学校

     昭和6(1931)年当時,「女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室とを借りて勉強していました。」(『創立四十周年記念誌』所収「回顧座談会」豊満ユキエ氏)とあるように,この女学校は大正12(1923)年5月,頴娃小学校に併置されていた。頴娃小学校は昭和6年に公民学校に統一される。

    ※5 西頴娃駅まで国鉄が延伸されたのは昭和35(1960)年である(第3回注4参照)。遠隔地からの登校について,例えば『創立五十周年記念誌』(1981年発行)に寄稿された福留善秀氏(昭和34(1959)年建築科卒,同37(1962)年から同54(1979)年在職)は「昭和31(1956)年頃指宿枕崎線は山川駅迄でしたので,身動きもできないほどすしづめにされ,舗装でもない凸凹の路面を南鉄,国鉄バスで通学するのはまだ良い方でした。遠くは指宿池田,川尻徳光,知覧青戸方面から,炎天下に石コロの坂道をオンボロの自転車を押しながら又,雨の日ハンドルをとられて転倒したり,カーブの多い下り坂で土手に突こんだりしながらの通学は忘れられない思い出でもある。」と記されている。

     また,それ以前の状況について,例えば昭和24(1949)4月に入学された浜島幸盛氏(普通科三回卒。昭和42(1967)年から同44年度数学科在職)によれば,「大学進学を目標に,片道十五粁(km)余りを毎日先輩や,友人達と自転車で通学しました。雨の日も風の日も,瀬平の七曲では曲芸をやり,時には自動車と競争し,真夏の下校時には道路わきの木陰に休み,アイスキャンデー売りを待ったり,秋の天気の良い時には,四時頃から開聞岳に挑戦したり,楽しく通学したものでした。道路も,今のように整備されておらず,考えてみれば通学だけでも大変だったろうと,もし今だったらと思うくらいです。しかし(中略)先輩や同級生の中には,開聞からはもちろん,川尻からも教科書を片手にひろげ,勉強しながら徒歩で通学する人が何人もありました。先輩の中には,クラブ活動をやりながら,現役で東大・京大・九大に合格し,後輩達は,さらにいろいろな方面に進んでいったようです。」と記されている。

    ※6 示山

     標高460m,頴娃町北に位置し薩南山地の一部を形成。昭和44年3月,示山から指宿市大迫まで千貫平など尾根伝いに指宿スカイラインが開通した。

    ※7 ルース台風被害

     10月14日にあったこの台風被害については,周年記念誌に度々記載されている。例えば,『創立五十周年記念誌』所収の牛垣卓郎氏(昭和22(1947)年から同36(1961)度年在職)「青春の譜」には「われわれの眼前で工業科の校舎を吹き倒し,実験室,本館の屋根を吹き飛ばす猛威をふるって去っていった。浜田校長は職場開拓のため上京不在中の出来事であった。翌日から全校あげての復旧作業に汗を流す日が続いた。(中略)PTAは資金づくりとして「カライモ」を集めた。そして県内でも珍しい鉄筋二階建ての白亜の殿堂(現在の本館)が実現したのである。本館にアクセントをつけるため村田教頭は山水の池を設計し自らスコップを握って作業を進めた。」と記す。同氏の回顧談(『創立四十周年記念誌』)には「一部地元負担ということで,PTAも甘藷を出し合ったりして協力して下さいました。県下でも戦後鉄筋が作られたのは,佐多の小学校に次いで二番目ではなかったかと思います。」とある。災害復旧工事でこの本館が完工したのは昭和28(1953)年10月だった。

     当時のことについて,浜田彬甫第7代校長(昭和26(1951)年4月1日~同32(1957)年3月31日在職)は「職場開拓のため,九州の官庁,会社歴訪中ルース台風の被害を熊本放送局で聞き,急いで帰途についたのですが,鉄道,道路の破損で3日後帰校出来ました。無残に倒壊した2棟の教室,半壊した電気実験室,現在の電気実験室,農業科教室,寄宿舎,校内住宅等その他全棟の屋根の大被害には目を蔽(おお)いたく茫然自失の策無きを嘆きましたが(中略。関係者の善後策等記載)校舎の被害後片づけ,応急修理は生徒職員の手で2日間で終え,翌日から正規の授業に復し得たことは感謝であり,又幸甚」と述べ,以下鉄筋校舎新築の運動を記載されている。

    ※8 卒業前の奉仕作業

     久保政司第9代校長(昭和37(1962)年4月1日~同42(1967)年3月31日在職)の「高校急増期五ヶ年間の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)に「毎年卒業生諸君が,卒業記念の奉仕作業で整備してくれたものがあります。校門の移動と旧校門跡地の造園。前庭の芝生庭園の造成。運動場の樟並木植栽。東校門の改造等でありました。卒業間近の二月,生徒と教師が一緒になってよく動いてくれました。」とある。

     この東門について,小原争時氏(昭和34(1959)年土木科卒,同36(1961)年から47(1971)年在職)は「先生方の指揮の元,東門工事の施行実習は,大きな思い出である。今思い返すと,後輩達は寒い中良くやったものだと心が熱くなる。」と記している(『創立七十周年記念誌』平成13(2001)年3月発行)。

    ※9 定時制家庭科

     村立頴娃高等家政学校は,昭和24(1949)年4月,村立定時制高等学校別科とされ,同25年4月,県立に移管された。昭和31(1956)年4月,定時制本科前期課程となり,女子教育での実績を重ねたが,同36(1961)年4月,定時制農業科とともに募集停止となる。昭和37年3月までの定時制家庭科卒業生は533名。

     なお,家政学校卒業生は昭和24年3月までで1,295名。昭和18(1943)年3月卒業の第2回生福吉ツギ子氏が『創立五十周年記念誌』に「思い出の記」として,戦時中の興亜奉公日(5月1日)や農作業,労働奉仕日,毎月8日の代用食の日のことなどを記されている。

     次回は,創立40周年記念誌などから,上記の家庭科をはじめ,かつての定時制農業科,建築科のことなどを紹介する予定です。お楽しみに。

  • 2020年08月04日(火)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)-

                              校長 林  匡

    今回は,創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次,第5代久木田実,第6代武政治先生の回顧録を紹介します。アジア太平洋戦争直後の困難な状況,関係者の方々の苦労や熱意などが伝わります。

    I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)

    3 頴娃工業時代の思い出(榎田栄次校長,昭和21(1946)年1月31日~昭和22(1947)年3月30日在職) 

     (前略)私は昭和21(1946)年1月末で頴娃工業学校長(※1)として赴任を命ぜられたのですが(中略)赴任してみると教室は戦災で焼け土台のみ,乾蚕倉庫だった3階の建築は白蟻の巣,台風で瓦はふきとばされ青天井の見える講堂を区切って仮の教室,隣りの講義が聞こえて生徒も大迷惑だった筈,職員室は3階建物付属の廊下(※2),全く惨憺たるものです。そのような惨状のもとに生徒諸君は何か知ら戦後の不安を感じつつ勉強したものです。しかし復興は急がねばなりません。

     仮の校舎を建てるため頴娃町(※3)から間伐材を貰い受け数里の山奥まで全員切り出しに行って平木を作ってかついで来たこともある。食糧増産にため藷作りもやった。焼校舎の土台のあい間あい間に南瓜を作ったのもその頃である。そのように働きつつ学ぶという学校の姿も悪いものではないと考えます。(中略)あの時代の頴娃工業の先生は本当によく協力してくれました。ただ校舎も校具もないあの時代は学校の一致結束のみでその苦難を切り抜ける以外に途はないのですから仕方ないようなものの私常に感謝するのみでした。(後略)

    4 思い出(久木田実校長,昭和22(1947)年3月31日~昭和23(1948)年3月31日在職)

     私は昭和21(1946)年4月頴娃工業学校に転任を命ぜられ,終戦直後のこんとんたる世相の中を家族は加治木に残して(中略)加治木駅から汽車に乗った。山川駅(※4)につくと人々が一生懸命走るので自分も走ってみると,トラックは既に満員,仕方がないので次のトラックを待ちようやく乗車,荒むしろを敷いた木炭車で上り坂になると,乗客はみな降りてトラックの後押しをせねばならぬボロ自動車で,お客か人夫かわからないような仕事を何回かくり返し,ようやく頴娃に着いた。終戦の年の秋,薩摩半島に上陸した台風の被害は余りにも甚大で,その復旧作業は殆んど出来ておらず,倒壊家屋の残骸がいたる所に転がっていた。

     牧の内の頴娃工業学校に着いてみると,ここも同様で校舎は空襲と台風のため,見るかげもなく,職員室は建物の横に取り付けた,さしかけ屋根で,硝子窓もなく吹き通しで,その中に板の長腰掛に十数人の職員が雑居しているという状態であった。生徒は頴娃を中心として近隣の町村から集まり,純朴で非常に元気のある生徒たちばかりでたのもしい限りであった。(中略)榎田校長を中心として授業の傍ら倒壊校舎の片付けや,バラック校舎の新築等目まぐるしいうちに一年が過ぎ,昭和22(1947)年4月,新制中学校発足(※5)に伴い,榎田校長は川内北中学校に転任され,私がその後任校長を命ぜられて責任の重さを感じた次第であった。(中略)愈々(いよいよ)校舎本建築の計画が進み(中略)焼失校舎の基礎の上にそのまま新築され,竣工式も無事終わったと思う間もなく,今度は昭和23(1948)年4月から新制高等学校として発足することになり,高校設立準備の仕事が始まった。

    (中略)工業学校と女学校を統合して全日制とし,青年学校を定時制とする新制高校を設立し,設置学科としては普通科,電気,土木科の外に家庭科,農業科を置くこととに村当局とも意見の一致を得て着々と準備を進めていたが,県の設置科に対する方針が変更になり,普通科の外に実業科は二科しか設置出来ないことになった。

     村当局は土木科を廃止して農業科を設置したいとの希望であった。(中略)私は終戦後のわが国の復旧や,その他の面から考え,どうしても土木科は設置すべきである,今ここで土木科を廃止したら土木科の備品は他の同科設置校に保管転換となり,将来再び本校に土木科を設置することは困難であることを思い,万難を排して土木科存置を主張し(中略)県における最終審議の結果,全日制には普通科,電気,土木科をおき,青年学校の設置科を定時制とし,農業科は必要ならば後日設置することに決定した時は中村後援会長と手を取り合って喜んだ。そして愈々昭和23(1948)年4月から鹿児島県立頴娃高等学校として開校することになり(※6),ここに画期的学制改革が行われることになった。(後略)

    5 回顧(武政治校長,昭和23(1948)年4月1日~昭和26(1951)年3月31日在職)

      (前略)当時の憶い出として,最も印象に残っていることは,卒業生の職場開拓と,電気主任技術者第三種免状を獲得した運動である。

     現今では電気主任技術者の資格は国家資格に合格しなければ得られないが,当時は商工省(※7)の指定学校であり,我が頴娃工業の卒業生には資格が認められていなかった。この不合理は就職に大きなハンディキャップとなっていたので,何とかして指定学校に昇格させねばならないと思った。色々苦心をし(※8),鹿児島工業に協力を求めて1年がかりで目的を達成し,(中略)盛大に祝賀大運動会を催したものだった。

     当時の職員,生徒は校舎こそ貧弱であったが,協力一致しよく働らき,よく勉強し,真に学校が一丸となって向上の意気に燃えていた。(中略)現役から毎年東大や一橋大などに合格者を出したことも,本人の素質のよさもさることながら,やはり学校の意気が旺んであったことにもよると思う。

     又,本校の前身である高等公民学校や,頴娃工業の卒業生は戦時中に巣立ったために,その大部分が満洲に就職したものである。従って内地に同窓生の地盤を全くもっていない。それらの関係から北九州,阪神,京浜工業地帯への就職開拓には並々ならぬ苦労があった。頴娃高校に工業課程があることをほとんどの会社が知らない,それよりも頴娃という字をそのまま読める人事課長が一人もいなかったのである。殊に朝鮮戦争前までは,我が国の会社工場は殆ど戦災で壊滅に瀕したまま虚脱状態にあって,復員者の受入れもままならず,新規採用など全く考えてもいなかった時代であった。大阪の桜島にある住友電気で断られ,あの巨大な工場の残骸を見ながら日立造船所に向って炎天下をトボトボと歩いて行ったことを思うと,昨今の工業界の好況(※9)と思い合わせ全く隔世の感がする。

     就職斡旋の旅費もなかった。(中略)三週間の就職運動日程に,村当局に融資してもらった2万円を懐にして出かけていったが,宿費が足りなく駅のベンチを野宿みたいにして歩き廻ったことを憶い出す。北九州,阪神をまわって漸く東京までたどりつき,当時好況にあった郷土の大先輩アポロ商会の大迫社長の御厚意に接した時は,今考えても涙が出るほど嬉しかった。 色々次々に追憶の種はつきないが,日本の目醒しい復興と共に,本校もその面目を一新し,現在では,内容外観共に県下の高校中屈指の高校に発展したことは誠に喜びに堪えない。(後略)

    ※1 頴娃工業学校

     昭和16(1941)年4月1日に村立頴娃青年学校から電気科・土木科が村立鹿児島県頴娃工業学校として独立。昭和19(1944)年4月県立移管。

     平川常彦第2代校長(昭和16年6月14日~昭和18年12月9日在職)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行)には,「当時村立の甲種工業学校はおそらく全国で始めてのこと」とある。当時の状況は「青年学校の二三教室を拝借して職員数名,第一回生徒電気,土木各四十名位というわけでした。(中略)物資は大変窮屈で実習設備など不十分であり,職員組織も不完全でした。土木科には青年学校時代使用した測量機械が若干ありましたが,電気科においてはモーター一台さえもないという有様」だったという。

     頴娃工業学校の本館は,昭和16年12月起工,同17年12月上棟式を行う。平川校長によれば「青年学校の西隣りに敷地が定められ,その地ならしに取りかかることとなり,われらの校舎はわれらの手でとの気構えから生徒諸君は毎日モッコで土を運びました。青年学校の諸君,さては村役場の皆さん達までこれに参加して下さいました。」とある。昭和19(1944)年5月12日,新校舎で授業が開始されるが,翌年戦災に遭う。県立頴娃工業学校は昭和23(1948)年3月閉校。同年4月,電気・土木・普通科の全日制鹿児島県頴娃高等学校が開校認可される。

    ※2 戦災,青天井の見える講堂

     昭和20(1945)年8月8日,空襲によって本館全焼。8月31日に寄宿舎を教室に利用して授業を開始することとなったが,9月17日の枕崎台風で乾繭倉庫と講堂の他は全壊した。この空襲前後や枕崎台風について,昭和22(1947)年3月土木科卒の中村三郎氏の「ありし日の学舎」【機種依存文字】と田中瑞穂氏の「「頴娃工業」の思い出」【機種依存文字】(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)記載),鶴田周文氏の「思い出」【機種依存文字】(『創立四十周年記念誌』記載)から以下引用する。

    (1) (昭和19(1944)年入学)「今運動場の国道沿いで知覧街道の松の木で建設した木造2階建の素晴らしい校舎に入校出来た。(中略)2年生になってからは同級生も動員にかり出され学校には宮脇,頴娃,九玉校出身の生徒だけが学校に残り,本校の備品,大切な書類測量器械等何事でも背負って出られるように待機の日々が続いた。(中略。1度目の機銃掃射,2度目の爆撃で電気科生徒1名と校舎前に畑仕事に来ていた女児が亡くなったことなど記載)3回目の空襲を受けその時は,2人か3人位の生徒と女の先生が残っていた。たまたま事務室には,非常持出の書類等を置いてあることを先生が思いつき,2階は炎で燃え盛る中を生徒が勇敢にもその書類を持出した事を今でも覚えています。(中略)枕崎台風の襲来で校舎は雨もりし,隙間から入いる木枯の風は冷たく,それに教科書はお粗末なもの,字を書くにもノートはないし寄せ集め紙でノートを作ったものでした。」

    (2) 「昭和19年4月県立頴娃工業学校土木科1年へ53名が,新築新装の木造2回建校舎に県立移管初の一期生として入学した。(中略,戦時下の状況,学徒動員などを記載されている。)忘れもしない8月8日,我々は2回目の学徒動員で赤崎部落(牧之内区)の県道沿いで兵隊とともに防空壕を掘さく中,異様な爆音と機銃の音とともに敵機来襲,その間7~8分位と思う。壕の中からようやく外に出ると,附近部落民より「頴娃工業が燃えている」との情報,急ぎ赤崎の岡の上に登る。確かに学校が燃えている。(中略)作業を終え急ぎ学校にたどり着くと,後片もなく全焼で同僚の留守班約10名が教職員とともに茫然と立ちすくんでいたことを記憶している。終戦とともに学徒動員の上級生も帰校し全校生徒はなお学校の後片付け等の作業が続く,頴娃村有林の示山で炭火(や)き,仮校舎建築用材の切出し,屋根葺用平木の原木を新牧の製材工場へ運搬,そして平木の製品を学校まで人肩運搬,又薩南工業建築科より授業用机,椅子の人肩運搬,そして仮校舎焼残りの旧講堂,倉庫等で戦時から戦後の学生生活が始まった。教科書はなく,正常な授業はできない毎日でした。そして昭和22(1947)年3月43名が土木科を卒業した。卒業時担任の先生が言われた。「皆さんは今,土木科3年を卒業するが戦時中のため2年の1学期課程の程度しか不幸にしてできていない。社会で努力してもらいたい」との言葉を覚えている。」

    (3) 「昭和十九年大陸への就職を夢みて進学を立志,運よく入学出来ましたが(中略)戦雲急を告げる頃とあって,先輩諸氏の土木科は長崎川棚へ,電気科は佐世保へと学徒動員され,一年生の我々のみが留守番役として学校に残った。(中略)青戸飛行場の整地作業,そして赤崎高峰山での陣地構築へとすぐに動員された。(中略)この頃は,殆ど,授業らしき授業はなく軍事教練が主であった。そして二年の一学期終戦を迎え,二学期より,再び,学校生活が始まった。しかし,木造二階建の新校舎は,戦火のため灰と化し,基礎コンクリートの残がいだけが,見るも哀れな姿で残っていた。(中略)これからの授業が大変であった。幸いにして,隣接の旧青年学校の講堂が戦火から焼残り,全校生徒が衝立仕切りの仮教室で,授業が始まったのである。隣教室での授業が騒ぞうしく,とても落着いて勉強が出来るものではなかった。また,雨の日等は,雨漏りがひどく,授業中止の時もあった。

     やっと三年の卒業年次に落着いた教室が町立乾繭倉庫のボイラー室である。これがまたひどい,土ほこりのする土間教室で,教室の中央には大きなボイラー管が突き出ており,時折り頭を打つ人もいた。机は,四・五名宛の長机であった。また実習用の測量器械は戦火で焼け,古びた器械が,二・三台しか残っていなかった。(中略。鹿児島市復興部に就職され連日測量をされたことなど記載)このような学校生活を送った私等に社会人として何が出来るであろうか何も解らなかった。基礎知識の足りない私は,只々一生懸命頑張った。校訓であった「誠と熱」をもって…。」

     枕崎台風後の講堂の状況については,昭和21(1946)年から36(1961)年まで在職された土木科担当の鮫島宗起氏も「講堂は倒れなかったが,屋根瓦が吹き飛んでいても,教室がないので,それを四つに仕切って教室に使用していた。雨の時には漏るので机を移動してしのいでいた。」(『創立四十周年記念誌』)と記されている。

     また,薩南工業からの机・椅子の提供一件は,中村一平元PTA会長によれば「(榎田)校長と私が机を作ってもらうつもりで,薩南工業に相談にまいりましたところ,幸いに枕崎水産のために作ってあった机,いすがありました。その机といすを懇望して譲ってもらいました。それで全生徒を徒歩で知覧までやり,知覧から机,いすをかつがせて持ってきました。」という。(回顧座談会『創立四十周年記念誌』昭和46(1971)年3月発行)

    ※3 昭和25(1950)年に頴娃村から町制施行し頴娃町となる。

    ※4 国鉄指宿線は,昭和5(1930)年に西鹿児島(現鹿児島中央)駅-五位野駅間で開業,同9年(1934)年12月に指宿駅まで延伸され,翌年に指宿-枕崎間の国鉄バスが運行された。鉄道が昭和11(1936)年3月に山川駅まで延伸されると,バスも山川港-枕崎間となる。昭和32(1957)年に枕崎線起工,翌年に成川トンネルが開通し,同35(1960)年3月に指宿線山川駅-西頴娃駅間が開通した。昭和37(1962)年3月には水成川まで完成,山川から枕崎駅まで全線開通したのは昭和38(1963)年10月である(西鹿児島-枕崎駅,指宿枕崎線と線名改称)。

     頴娃村(町)では,大正末から期成同盟会も結成されたように,早くから鉄道敷設の要望は強かった。全面開通の祝賀会は頴娃高校体育館で行われている。

    (参考文献『目で見る南薩の100年』(郷土出版社,2004年),『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年))

    ※5 新制中学校発足

     山内廣行氏(昭和27(1952)年4月頴娃高校入学,昭和31(1956)年普通科卒)によれば「入学式のため正門をくぐったのは2回目です。(中略)最初は,昭和24(1949)年に頴娃中学校に入学した時でした。当時は新制中学校として発足間もない頃で校舎が整備されていなかったため,我々1年生は頴娃高校の校舎を借りて授業が始まったからです。当時の高校は,学制改革等で旧制中学からの編入生も多く,我々中学生も加わり,とても賑やかな学校風景でありました。そして,二度目は晴れて頴娃高校生として正門をくぐりました。」とのこと(「80年の歴史に光を!」『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。頴娃中学校は,昭和22(1947)年5月,開校式を行い頴娃・宮脇・九玉・粟ヶ窪(一部)の各小学校を校区として分校授業を行い,同年10月,用地買収を始め,同23年10月から順次校舎が落成していく。

    (参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))

    ※6 昭和23(1948)年4月,普通科・電気科・土木科3科の全日制県立頴娃高等学校として開校,県立頴娃工業学校と村立頴娃高等家政女学校(昭和15(1940)年4月,村立頴娃青年学校家庭科が村立頴娃青年学校から独立)の敷地を合併。青年学校は昭和22(1947)年度末をもって完全廃止となったが,頴娃青年学校の設置科は定時制とされ,昭和24(1949)年4月,農業科を本科,家庭科・建築科を別科とする村立(翌年県立移管)定時制高等学校が併置された。全日制を第1部,定時制を第2部と称した。

    ※7 商工省は大正14(1925)年設立。商工業の奨励や統制を担う。昭和18(1943)年,軍需省・農商省に改組,戦後間もない昭和20(1945)年8月,商工省再設置。昭和24(1949)年,通商産業省改組,平成13(2001)年に現在の経済産業省へ移行した。

    (参考文献 百瀬孝著『事典昭和戦後の日本』(吉川弘文館,1995年)等)

    ※8 昭和23(1948)年に電気科教職員として赴任された京田薩男氏は「電気科の実習室は乾繭倉庫跡で焼け残った計器とモーターが少々というあわれな状態だった。しかし電気科は鹿児島県で最も歴史が古く,県下に鹿児島工業高校と二校しかなく,優秀な人材が集まり,戦場より復員してきた年配者もいたが,みなファイト満々で,先生と生徒の間も兄弟のような仲で,(中略)職員,生徒,父兄が一体となって学校を建設するのだという意気と連帯感があったからだと思う。(中略)24年4月に電気科卒業生に電気事業主任技術者資格第三種免許が下附されたが,それまでが大変で設備を規準にあうよう充実するため,父兄に寄附をお願いするとともに,生徒も青戸の先の「しめじ山」の町有林を伐採して薪にして資金作りをしたが,電気科職員生徒全員が山に泊りこんで汗みどろになって働いたことなど懐かしく思い出される」と当時のことを記されている(『創立五十周年記念誌』)。

    ※9 昨今の工業界の好況

     敗戦後戦前の1935年までに到達していた状況からはるかに後退した工業化について,朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)の特需を経て50年代半ばに高度成長が始まる。1930(昭和5)年代後半から1970(昭和45)年代初頭に至る時期の,日本の産業化の王者は機械器具産業であったこと,戦時を超えて高度成長期を経過する時期において,機械産業と金属産業が全産出額中上位を占めることが多かったこと,しかもその趨勢は時とともに増す勢いにあり、これら2者のリーダーシップを握ったのが機械産業であったこと,また建築・土木もこれら両産業ほどではないが,占有率の上昇が目立ったことなどが指摘されている。

    (参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5 現代1 日中戦争期から高度成長期(1937-1972)』岩波書店,2018年)

      次回は,注でも引用してきました,創立40周年記念誌から紹介します。今から50年(半世紀)前のものです。南薩特有の土壌で水に苦労されたお話なども関連して掲載予定です。お楽しみに。

  • 2020年08月03日(月)

    既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)

    鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

    -既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)-

                               校長 林  匡

     今回は,同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を掲載します。

     

    I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)

     

    2 開校当時の思出(多田茂校長,昭和6(1931)年4月1日~昭和16(1941)年6月13日,頴娃村立高等公民学校,頴娃村立青年学校,村立鹿児島県頴娃工業学校在職)

     

     頴娃の公民学校が全村民の殿堂として創設されたのは昭和6(1931)年(※1)4月のことでした。それに先だって当時の頴娃村長樋渡盛広氏は学校長の推薦を鹿児島農林専門学校(※2)長吉村清尚先生に委嘱された。それで私の母校では何人を其の初代校長として推薦するかにつき種々と協議された。と云うのは当時母校としては従来農業学校方面の校長は多数あり経験済みであるが,公民学校長として男女共学(※3)の学校経営者としての校長に就いては実のところ未経験で,しかも当時の状勢からして日本の将来の教育上此の教育を重視せねばならぬ事情にあったため,其の詮考には相当慎重であった様である。

     当時私は山口県小郡農業学校に在職中で教員としての経験もまだ僅に六年半の一平教員でありましたが,其の私に吉村校長先生から其の大任を引き受けるよう御懇切なる御書翰を頂いた。(中略)遂に私も意を決して御引受けする事として兎に角発令に先だって母校並に頴娃村(※4)御当局と事前に協議するため,現地視察を兼ねて遙々(はるばる)頴娃に赴いた。

     ところで頴娃に行って驚いた事は学校の敷地は全村民挙(こぞ)っての涙ぐましき御奉仕によって略(ほ)ぼ完成されて居ったが,あと1カ月を待たずして開校されると云うのに校舎とて一棟も完成されて居らず僅に村内の久玉小学校の古るき校舎一棟が移転される事となって其の移転改築中で他に数棟と附属建物が新築される計画で其の木取り等に多忙を極めて居る時であった。

    (中略)

     此の全村統一の公民学校が建設せられる前の公民学校の教育の実状はどうであったかと云うと,当時は村内各小学校に併設せられた公民学校とは名ばかりの所謂(いわゆる)補習教育で専任職員は各校とも只一人他は全部小学校教員の兼任で其の場ふさぎの教育が実施されて居ったのである。只女子の教育は中央の頴娃小学校に実科高等女学校が併設せられて居って頴娃村女子教育の根幹をなして居った様な実状であった。

     それが昭和6(1931)年を限りとして実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止(※5)せらるる事となり,前期の通り中央なる三俣原頭に全村統一の公民学校が創設される事となり,毎日登校する通年生と仕事の都合を計って教育せらる期間生とが設置せられ通学生こは実科女学校と代るべき女学部と男子学部には電気,土木,家具,農業の各専門科と普通科が設置せられ,職員組織は(中略)其の数も専任20名兼任15名と云う膨大な公民学校が出来上がったのである。

    (中略)役場の食堂を学校の臨時事務室として開校に先だって通年生の募集を開始する事となり役場と学校と一体となり,早朝より夜間に及ぶ涙ぐましき奮斗が毎日の様に繰り返され,漸く昭和6(1931)年4月10日開校の運びとなり,当日は乾繭(かんけん)組合の集繭所を開校式場として(中略)霊峰薩摩富士を眼前にして盛大裏に行われた(※6)。開校後も総ゆる苦難を克服して,開校前に劣らぬ涙ぐましき奮闘は村御当局,学校職員,生徒打って一丸となって建設の歩が続けられたのである。即ち校庭の一木一草に至るまで否村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて(※7)建設の魂が打ち込まれていった。従って職員と生徒との間は全く魂と魂の接触其のもので打てば響くと云う教育であった。

    (中略)

     越えて昭和8(1933)年には第1回卒業の電気科,土木科生は大陸発展の先駆として大陸に渡り,彼等の何れもが中国語の教育を受けると共に当時,ややもすると軽視せられ勝ちであった徳育教育を重んじ智徳体三位一体の教育を受けた結果,大陸に於いては卒業生の一挙手一投足に至るまで目を見張るに至り,満州国からは留学生の派遣(※8)となり,年と共に学校の名声は国の内外にまで知られ,(中略)昭和9(1934)年実業教育40周年の記念大会が東都に於いて開催されるに当り私は鹿児島県代表として学校経営に就いて全国学校長の前に立って其の実状発表の機会を恵まれ学校の実状は漸く国の内外から注視の的となり,昭和10(1935)年の鹿児島,宮崎両県下に股がる陸海軍特別大演習の砌(みぎり)には畏くも勅使御差遣(※9)の光栄に浴し得たのである。

    (中略)女子部は家政女学校(※10)として,男子部の電気科,土木科,家具科,採鉱科,農業科は其の内容益々充実せられ,創立満10年を記念して工業科は発展的解消して,村立工業学校として独立し,続いて県立となり(※11)遂に今日の頴娃高等学校として名実共に県内は勿論,国内に其の名を歌わるに至った次第で,頴娃の公民学校こそ今日の高等学校の卵であり種子であった事に思いを致す時,往事を顧みて感慨無量なるものがあります。(後略)

    ※1 昭和6(1931)年当時,日本は昭和恐慌の影響下にあった。鹿児島県教育界の状況は,例えば「中学校でも志願者が減少し,郡部の中学校では定員を下回る学校もあった。女子中等教育機関である高等女学校へのしわよせはもっとひどかった。郡部の女学校では定員を半減させたりしたが,廃校に追い込まれた高等女学校や実科高等女学校は四校を数えた。」(原口泉・宮下満郎・向山勝貞『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)というものだった。なお同年9月,満州事変が起こる。

    ※2 鹿児島農林専門学校明治41(1908)年設立の鹿児島高等農林学校が,昭和19(1944)年鹿児島農林専門学校となる。(現鹿児島大学農学部の母体)

    ※3 男女共学 『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の多田校長回顧「創立当時の思い出」によれば,「(樋渡村長から)村民の一部には年頃の男女生徒を同じ学校で教育する事には相当強い反対があったが,校長は此の問題をどう考えるかとの御尋ねがあった。村長殿は嘗て英国の大使館付武官をなされた経験者故彼地には男女を一つの学校に収容して教育する学校は無いのかと反問したところ,勿論英国にも同じ学校に男女を収容する所(今日の日本の様に)男女を同一の一教室で同一の科目に就て教育して居るとの御返事に先方で実現して居る事に,日本でも出来ない事は無い筈だと御返事しましたところ,私の手を固く握り締め「その意気,その意気」と非常に喜ばれ」たと記されている。

    ※4 頴娃村 明治22(1889)年,市制町村制が施行され,頴娃郷は頴娃村に改められ,旧頴娃郷7か村(別府・上別府・御領・牧之内・郡・十町・仙田)は頴娃村の大字となる。明治29(1896)年,郡区画法改正により指宿郡に所属した。

     昭和25(1950)年,頴娃村に町制を施行し頴娃町となる。昭和26(1951)年に東南部の仙田・十町・川尻地区が開聞村として分村した。

    ※5 実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止

     『創立四十周年記念誌』の回顧座談会で豊満ユキヱ氏(昭和23(1948)年6月から保健科職員として12年間在職)は実科高等女学校について「当時女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室を借りて勉強していました」と話されている。

    ※6 『創立四十周年記念誌』の多田校長回顧

     「創立当時の思い出」によれば,職員室も当初はなく,村長の好意で役場(頴娃村郡(こおり)の麓に明治42(1909)年建てられた旧役場庁舎。昭和44(1969)年に現在の場所(頴娃町牧之内)に新築移転)の職員食堂で職員組織を整えたこと,5月1日に男女合計約100名の生徒を確保し,5月5日に開校式(入学式)を挙げたこと,開校したものの職員室も校舎もなく,授業は敷地に近い(頴娃中学校下の)松林で行ったという。

     第一校舎となる九玉小学校の一部移築は6月半ばで4教室,職員室もようやく役場から移転,9月には第二の校舎が落成,6教室となったことなどが記されている。

    ※7 村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて

     以下は,『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での岩崎友二氏(電気科卒,電気科職員)による。

     「一番思い出深いのは昭和十七(1942)年だったと思いますが,台風がやってきまして,当時は村で村内の電気を管理していたのですが,村内が全部停電しました。私達二年生は実習という形で,二か月間ほど授業はやらなくて,復旧作業を続けました。村内の全ての地域で,二か月間,小笠原先生と復旧作業をやりました」

     この伝統は,アジア太平洋戦争後の新制高等学校にも引き継がれた,例えば『創立四十周年記念誌』所収の宮田己之助氏(昭和24(1949)年4月~昭和30(1955)年3月在職)の「併設定時制の思い出」には次のように記されている。

     「私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立として併設(注:昭和24年4月村立,同25年4月県立移管)され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)桶器(タンコ)木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。

     従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。」

     また,『創立50周年記念誌』(1981年2月発行)所収の福留善秀氏(建築科昭和34(1959)年卒,昭和37(1962)年~昭和54(1979)年本校在職)「思い出」によれば以下のとおり。

     「建築科(注:昭和35(1960)年に定時制募集停止,全日制募集。昭和61(1986)年募集停止,設備工業科新設)は町内の民家を請負い工具箱を自転車の荷台に載せ週に12時間は校外実習に取り組み,遣方実習から墨つけ,加工建方と内部仕上まですべて生徒の手で行われました。」

    ※8 留学生

     昭和9(1934)に中国からの留学生写真が残されている。(『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)

    ※9 陸海軍特別大演習と勅使御差遣

     昭和10(1935)年11月8日に鹿児島港に到着した昭和天皇は,鹿児島県の隼人野外,宮崎県都城で行われた陸軍特別大演習を視察され,宮崎方面をまわり15日に再び鹿児島に戻り照国神社など諸社や鹿児島高等農林学校など諸学校,鹿児島地方裁判所など,その他県内各地を巡幸して19日に鹿児島を出発された。この間に天皇の言葉を伝える使者(勅使)が派遣されたことを示すもの。(9日に予定されていた鹿児島湾での海軍大演習は,天皇が体調を崩したので中止されている。)

     本校正門を入って右側に,昭和11(1936)年11月30日付の「行幸記念水道碑」がある。この石碑と,樋渡・多田先生両胸像の間に,「御使御差遣」記念碑が設置されている。碑の正面には「御使御差遣記念碑 従二位勲二等功四級侯爵西郷従徳」とある。西郷従徳氏は従道の次男で西郷隆盛の甥に当たる。背面の碑文は摩滅して判読しがたいが,「昭和十二(1937)年十一月九日建之」と,当時の濱田森七村長・多田茂校長の連名がかろうじて確認できる。この石碑を後ろにして修養団修了式記念の写真が残されている(『目で見る南薩の100年』郷土出版社発行,2004年)。

     行幸記念水道碑には,牧之内水道組合長鶴留盛衛氏ほか関係者・団体の名が四面に刻まれている。寄附者の中には「頴娃青年校後援会」「頴娃青年校卒業生」,奉仕者の中には「頴娃青年学校全員」も確認できる。

    (参考文献 南日本新聞社編『鹿児島百年(下)』(春苑堂書店,1968年),『写真アルバム南薩の昭和』,『鹿児島県の近現代』等)

    ※10 村立頴娃高等家政女学校

     村立頴娃青年学校から,家政科が昭和15(1940)年4月1日独立。昭和17(1942)年の裁縫授業風景や運動会での集団写真演技の写真が残されている(『写真アルバム南薩の昭和』掲載)。

    ※11 村立頴娃工業学校

     村立頴娃青年学校から,電気科・土木科が昭和16(1941)年4月1日独立,同19(1944)年4月1日県立移管(県立頴娃工業学校)。

     以下は『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での田畑実幸氏(土木科卒,土木科職員)による。

     「青年学校の中に電気科,土木科があり,電気科は二学級,土木科は一学級でしたが,十回生で終わりということになり,私はその十回生で,一旦青年学校を卒業してから工業学校の二年に編入しました。(中略)校舎そのものはなくて,下の今のグランドになっているあそこに整地がなされていただけのことでした。先生方も,青年学校としての先生,工業学校としての先生とあったわけです。電気科,土木科とも四十名が定員で,一学級ずつでした。学校生活のことですが,太平洋戦争勃発の頃でありまして,戦時態勢によって全てが動いていました。授業そのものよりも勤労奉仕が大部分でした。今の生徒は充実した授業が受けられるわけですが,私どもは奉仕作業や実践農場での作業が毎日の生活でした。しかしそれが,開拓精神や根性の養成につながり,簡単にはへこたれない粘りを私どもに植えつけたのではないかと思います。(中略)卒業も繰り上げ卒業で,前年の十二月に卒業させられて職場にやられたのでありました。」

     

     次回は,同じく創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次先生,第5代久木田実先生,第6代武政治先生の回顧録を予定しています。お楽しみに。