既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(5)

公開日 2020年08月06日(Thu)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(5)-

                         校長 林  匡

今回は,創立40周年記念誌などから,かつての定時制の学科,特に農業科のことなどを紹介します。一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

 

II 出典:『創立四十周年記念誌』(昭和46(1971)年3月発行)

3 併設定時制の思い出(宮田己之助氏,昭和24(1949)年から同30(1955)年在職。本文の一部は第2回注7にも引用)

 私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立(注:昭和24年4月村立)として併設され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)

 定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設(※1)で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)・桶器(タンコ)・木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。その収益は生徒に還元して食費や学資に充当していたので,父兄からも喜ばれ,働きながら学ぶ制度になっていた。

 家庭科は,町立家政女学校として地域の信頼を集め,女子教育の伝統があり,専門の女教師から教育されていたのをそのまま吸収して,三課程をあわせて,定時制高校として設立され,全日制高校に併設されたのでした。農業科は新設(※2)で,設備としては青年学校の古校舎があり,実習地は荒廃された谷場茶園あるのみで,校庭の一部は戦時中,食糧難時代に掘り起こされて甘藷野菜畠に転じ,職員の耕作地に利用され,当時も尚,その名残りを止めていた。ある日農業科の乳牛(※3)が芋畑を荒し廻り,先生方から大目玉を喰ったことは今も面白おかしい思い出の一つです。

 町当局は,設立後年々財政的な援助と熱意を表わして,設備も年々増加し,振興が計られたが,当時は定時制高校には魅力が乏しく,毎年の生徒募集には苦労したものだった。時には県の指導による公開研究など催すなどして,地域の関心を高め,やっと生徒数も確保されるようになり,三年目に県立に移管されたが,運営の面で建築科の複雑な各分科は認められず,単純化せざるを得なくなり,それに伴い技術指導の講師の先生方が多くて(中略)一応落着いたようなものの気の毒なことも多かった。

 やがて建築科も別科から本科に昇格(※4)するなど,一応軌道に乗った形になって,(中略。宮田氏は昭和30(1955)年4月枕崎高校に転勤)農業科は,後に山川高校に合併する形になって,頴娃高校から消えたことは,卒業生はことさら寂しいでしょう。振興し得なかったことが残念でならない。(後略)

4 思い出すことなど(錨綱男氏,昭和34(1959)年から同39(1964)年在職)

 (前略)頴娃高校に赴任したのは昭和三十四(1959)年4月4日であった。当時汽車はなく,鹿交通バスに荷物と共に揺られて,未知の任地への不安感を抱きながら車窓より眺めた菜の花のあざやかさが,今だに印象に刻みこまれている。(中略)

 新任式は古い木造の講堂(※5)で行われたが床がきしんで崩れ落ちはしないかと心配したことを覚えている。(中略)主な担当は特作(茶)と加工。入料先生より製茶(紅茶)の手ほどきを受けて,どうにか一本立ち出来るようになったのは,二番茶か三番茶にかかる頃であったろうか。当時町内で紅茶の施設があるのは学校だけ(※6)だったので,谷場・粟ヶ窪・飯山の部落よりの委託加工が多く,製茶時期になると夜半に及ぶことがしばしばであった。

 二学期に入ると関係町村の学校案内。夜に入ってから三輪車を駆って部落ごとに家庭訪問をして,来年度の生徒募集を行ったが山川高校の農業科と競い合い開聞町が関ヶ原となっていた。当初はこのような生徒募集に対して批判的であったが,家庭に入って話し合ううちに生徒本人の進学の手助けとなり,かつ父兄の教育に対する啓蒙の役割りも果たすことになると悟って,今まで東奔西走された農業科の先生方のご労苦に対し,頭の下がる思いであった。このような苦労の甲斐あって三十五(1960)年四月の新入生は五十名を突破し将来明るい見通しをお互い抱き合ったが,それもつかのまで三十六(1961)年度は県教育庁の方針により農業科は募集停止。代わりに機械科が新設。(中略)三十九(1964)年三月には農業科の最後の卒業生四十五名をめでたく送り出すことが出来て心おきなくその年の春には山川高校に転任して今日に及んでいる。

(中略)農業科生徒全員をあげての谷場茶園の終日実習。家庭科の別科(二年)のある頃は,年に一度は茶摘みの奉仕を気持ちよくしてくれたことも楽しい思い出として残っている。最後の農業科卒業生となった四十五名(※7)は「立つ鳥あとを濁さず」のことわざとおり,学習に実習に,運動によくがんばったものである。(後略)

 

※1 『創立四十周年記念誌』所収の「回顧座談会」に,宮田氏は「定時制は村立であって,予算は村のお世話になっていた次第でした(中略)農業科のごときは新設だったものですから,畜舎,作業場があるわけじゃないし,教室は養蚕室をなんとか雨が漏らないようにして授業をやりました。農業科のばあい,生徒がおらず,着任と同時に生徒募集に歩き回る有様でした。(中略)わずか8名の農業科の生徒で発足したわけです。(中略)経理面では財源がないものですから,生徒が仕事をし,その報酬で先生方の給料も払い,また生徒は全寮制でしたがその費用もまかなっていたわけです。一種の自活でした。」と発言されている。

※2 『創立四十周年記念誌』所収の「回顧座談会」の下赤謙治氏(昭和29(1954)年3月農業科卒,同年から昭和38(1963)まで農業科在職)によれば,当時の農業科が「施設設備が貧弱でありまして,生徒が週一回農家に働きに行き,その稼ぎで設備を整えてゆきました。その中で特に記憶にあるのは,生徒の稼ぎで四十二万円の温室をつくった時のことです。土曜日がホームプロジェクトの日で,家庭実習の日だったんですが,この日を稼ぎの日と決めて,日当二百五十円ぐらいで稼ぎに出て,その金を持ち寄って温室を作り上げました。」という。

 さらに下赤謙治氏の「思い出」(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)所収)から一部を引用する。同誌には「昭和25年~27年頃の頴娃高校の様子」として平面図が挿入されており,農業科教室,紅茶工場,農業科教室,花壇,堆肥舎・畜舎・農具舎,実習地,塩蔵室など農業科関係の建物と,家庭科教室,建築家教室や木工科実習室などが,普通科,電気科関係の施設とともに見て取れる。

 「(前略)頴娃高校に定時制が併設され(中略)施設といえば旧青年学校当時の煙草乾燥室,塩蔵室(漬物加工室),新築の農産加工室(紅茶工場),実習農場は,旧工業高校当時の実習地が現Aコープ前のパチンコ店のところに40aと現グラウンドの北側に実習農場がありました。グラウンドの拡張工事のたびに農場がつぶされ,校舎が新築するたびに農場が狭くなったことを記憶している。青年学校当時の荒廃された谷場の茶園と山林50aを開墾して農場を拡張した。そして八十八夜の頃農業科・家庭科の生徒全員による茶摘み作業で賑わったことが楽しい思い出として残っています。毎年11月23日の勤労感謝の日には,農業科全員終日実習で秋の取り入れ作業で年1回の試食会,大きな風呂釜で芋をふかし品種別の試食,豚の解剖実習,豚肉の販売,残りは家庭科の料理実習で豚骨料理,豚汁等で試食会で美味しかった。

 (中略)昭和27(1952)年頃だったと記憶しておりますが畜舎,堆肥舎,倉庫が新築され真新しい畜舎に乳牛1頭,生産豚2頭,緬羊2頭が導入され,当番制で1週間泊り込みで家畜の世話,花壇の手入れ,製茶時期になると紅茶製造に職員・生徒ともども夜間作業で深夜まで及ぶこともしばしばあった。家畜当番は毎朝5時起床,お湯沸し,乳房の清掃,搾乳殺菌,牛乳配達と毎日忙しい家畜当番でありました。放課後は,家庭科の生徒まで動員して草刈をし,飼料の確保を図ったものです。」

※3 昭和34年度電気科卒業生の久保(当時)貢氏の「思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)にも「運動場の片隅にはいつも二・三頭の乳牛がつながれていた」とある。

※4 建築科について,『同窓会誌 創立30周年記念号』(1960年発行)所収の浜田彬甫第7代校長(昭和26(1951)年4月1日から同32(1957)年3月31日在職)の「思い出」には,「定時制建築科にありました5課程が家具,左官,構築の3課程となっておりましたものを,更に時代の変遷,地域の要望によりまして,構築のみを建築科として三カ年の別科を四カ年制の本科に変更しました」とある。

※5 久保貢氏の「思い出」(※3参照)によれば,当時「天然記念物」と言われていたという。

※6 頴娃は,鹿児島の茶業を支える,茶の栽培・生産・加工が極めて盛んな地域である。明治時代に発展し大正時代に入って経営合理化や機械製茶への転換が進んだ。昭和10(1935)年1月20日には,頴娃高等学校の前身である頴娃高等公民学校を会場として,茶業振興発展を図り,県下の茶業関係者が参加し,当時の早川知事も臨席した第6回茶業振興大会が開催されている。

昭和30(1955)年代には紅茶生産が推進されるようになり,鹿児島県でも紅茶産業化計画が立てられ優良品種の普及や紅茶品種改善,流通合理化等が図られた。

 頴娃町(当時)では既に昭和24(1949)年に紅茶が奨励され始め,緑茶とともに長期振興計画が立てられた。紅茶の栽培製造は昭和26(1951)年に取り組まれ,同30年までに個人工場が3箇所建設されたという。生産面積拡大により昭和37(1962)年度には新農村建設事業で青戸農協に紅茶工場が建てられた。ただし紅茶は国際競争に圧迫され緑茶への転換が進められ衰微,昭和38(1963)年から育苗圃の苗木を焼却処分するなどの措置がとられて同42年に完了,紅茶栽培は行われなくなる。

   (参考文献 『頴娃町茶業振興会沿革史』(頴娃町茶業振興会,2002年11月発行),『頴娃町商工業史』(頴娃町商工会,1990年発行))

※7 里中勝氏(昭和39(1964)年農業科卒)「良き時代を思う」(『創立七十周年記念誌』(2001年3月発行)所収)から以下掲載する。

 「(前略)当時の農業科は東門を入って直ぐ右手にガラス温室や車庫があり,県道頴娃川辺線沿いに花壇や育苗床等がありました。県道から民有地境を運動場の方に向かうと製茶加工実習室や棟違いの校舎が続き,農業科職員室,農業科の教室,保健室,家畜当番室がありました。これらの前にコンクリート育苗施設などがありました。校舎をさらに西へ進むと鶏舎二階建ての畜舎があり,これらの前に農業科の三教室と家庭科の二教室がありました。

 農業科では伝統的に施設の充実のため生徒が農業実習をかねて農家に出向きアルバイトを行いその益金の一部を学校に納入していました。(中略。飯山集落の芋掘り,摺木集落の菜種収穫,谷場集落近くの実習農場での終日実習などを記載されている。)夏休みには毎日のように先生に連れられて時には三年生の先輩に連れられて,家畜審査練習を希望する数人と自転車で町内はもとより指宿・山川・開聞へと牛や豚の審査練習に明け暮れました。(後略。先輩二名の家畜審査競技県大会優勝,全国大会優良四校に入った快挙,愛知県での県外実習などが記載されている。)」

 

 次回は,昭和56(1981)年2月に発行された,創立50周年記念誌記載の文章を基に紹介する予定です。どうぞお楽しみに。