既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)

公開日 2020年08月03日(Mon)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)-

                           校長 林  匡

 今回は,同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を掲載します。

 

I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)

 

2 開校当時の思出(多田茂校長,昭和6(1931)年4月1日~昭和16(1941)年6月13日,頴娃村立高等公民学校,頴娃村立青年学校,村立鹿児島県頴娃工業学校在職)

 

 頴娃の公民学校が全村民の殿堂として創設されたのは昭和6(1931)年(※1)4月のことでした。それに先だって当時の頴娃村長樋渡盛広氏は学校長の推薦を鹿児島農林専門学校(※2)長吉村清尚先生に委嘱された。それで私の母校では何人を其の初代校長として推薦するかにつき種々と協議された。と云うのは当時母校としては従来農業学校方面の校長は多数あり経験済みであるが,公民学校長として男女共学(※3)の学校経営者としての校長に就いては実のところ未経験で,しかも当時の状勢からして日本の将来の教育上此の教育を重視せねばならぬ事情にあったため,其の詮考には相当慎重であった様である。

 当時私は山口県小郡農業学校に在職中で教員としての経験もまだ僅に六年半の一平教員でありましたが,其の私に吉村校長先生から其の大任を引き受けるよう御懇切なる御書翰を頂いた。(中略)遂に私も意を決して御引受けする事として兎に角発令に先だって母校並に頴娃村(※4)御当局と事前に協議するため,現地視察を兼ねて遙々(はるばる)頴娃に赴いた。

 ところで頴娃に行って驚いた事は学校の敷地は全村民挙(こぞ)っての涙ぐましき御奉仕によって略(ほ)ぼ完成されて居ったが,あと1カ月を待たずして開校されると云うのに校舎とて一棟も完成されて居らず僅に村内の久玉小学校の古るき校舎一棟が移転される事となって其の移転改築中で他に数棟と附属建物が新築される計画で其の木取り等に多忙を極めて居る時であった。

(中略)

 此の全村統一の公民学校が建設せられる前の公民学校の教育の実状はどうであったかと云うと,当時は村内各小学校に併設せられた公民学校とは名ばかりの所謂(いわゆる)補習教育で専任職員は各校とも只一人他は全部小学校教員の兼任で其の場ふさぎの教育が実施されて居ったのである。只女子の教育は中央の頴娃小学校に実科高等女学校が併設せられて居って頴娃村女子教育の根幹をなして居った様な実状であった。

 それが昭和6(1931)年を限りとして実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止(※5)せらるる事となり,前期の通り中央なる三俣原頭に全村統一の公民学校が創設される事となり,毎日登校する通年生と仕事の都合を計って教育せらる期間生とが設置せられ通学生こは実科女学校と代るべき女学部と男子学部には電気,土木,家具,農業の各専門科と普通科が設置せられ,職員組織は(中略)其の数も専任20名兼任15名と云う膨大な公民学校が出来上がったのである。

(中略)役場の食堂を学校の臨時事務室として開校に先だって通年生の募集を開始する事となり役場と学校と一体となり,早朝より夜間に及ぶ涙ぐましき奮斗が毎日の様に繰り返され,漸く昭和6(1931)年4月10日開校の運びとなり,当日は乾繭(かんけん)組合の集繭所を開校式場として(中略)霊峰薩摩富士を眼前にして盛大裏に行われた(※6)。開校後も総ゆる苦難を克服して,開校前に劣らぬ涙ぐましき奮闘は村御当局,学校職員,生徒打って一丸となって建設の歩が続けられたのである。即ち校庭の一木一草に至るまで否村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて(※7)建設の魂が打ち込まれていった。従って職員と生徒との間は全く魂と魂の接触其のもので打てば響くと云う教育であった。

(中略)

 越えて昭和8(1933)年には第1回卒業の電気科,土木科生は大陸発展の先駆として大陸に渡り,彼等の何れもが中国語の教育を受けると共に当時,ややもすると軽視せられ勝ちであった徳育教育を重んじ智徳体三位一体の教育を受けた結果,大陸に於いては卒業生の一挙手一投足に至るまで目を見張るに至り,満州国からは留学生の派遣(※8)となり,年と共に学校の名声は国の内外にまで知られ,(中略)昭和9(1934)年実業教育40周年の記念大会が東都に於いて開催されるに当り私は鹿児島県代表として学校経営に就いて全国学校長の前に立って其の実状発表の機会を恵まれ学校の実状は漸く国の内外から注視の的となり,昭和10(1935)年の鹿児島,宮崎両県下に股がる陸海軍特別大演習の砌(みぎり)には畏くも勅使御差遣(※9)の光栄に浴し得たのである。

(中略)女子部は家政女学校(※10)として,男子部の電気科,土木科,家具科,採鉱科,農業科は其の内容益々充実せられ,創立満10年を記念して工業科は発展的解消して,村立工業学校として独立し,続いて県立となり(※11)遂に今日の頴娃高等学校として名実共に県内は勿論,国内に其の名を歌わるに至った次第で,頴娃の公民学校こそ今日の高等学校の卵であり種子であった事に思いを致す時,往事を顧みて感慨無量なるものがあります。(後略)

※1 昭和6(1931)年当時,日本は昭和恐慌の影響下にあった。鹿児島県教育界の状況は,例えば「中学校でも志願者が減少し,郡部の中学校では定員を下回る学校もあった。女子中等教育機関である高等女学校へのしわよせはもっとひどかった。郡部の女学校では定員を半減させたりしたが,廃校に追い込まれた高等女学校や実科高等女学校は四校を数えた。」(原口泉・宮下満郎・向山勝貞『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)というものだった。なお同年9月,満州事変が起こる。

※2 鹿児島農林専門学校明治41(1908)年設立の鹿児島高等農林学校が,昭和19(1944)年鹿児島農林専門学校となる。(現鹿児島大学農学部の母体)

※3 男女共学 『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の多田校長回顧「創立当時の思い出」によれば,「(樋渡村長から)村民の一部には年頃の男女生徒を同じ学校で教育する事には相当強い反対があったが,校長は此の問題をどう考えるかとの御尋ねがあった。村長殿は嘗て英国の大使館付武官をなされた経験者故彼地には男女を一つの学校に収容して教育する学校は無いのかと反問したところ,勿論英国にも同じ学校に男女を収容する所(今日の日本の様に)男女を同一の一教室で同一の科目に就て教育して居るとの御返事に先方で実現して居る事に,日本でも出来ない事は無い筈だと御返事しましたところ,私の手を固く握り締め「その意気,その意気」と非常に喜ばれ」たと記されている。

※4 頴娃村 明治22(1889)年,市制町村制が施行され,頴娃郷は頴娃村に改められ,旧頴娃郷7か村(別府・上別府・御領・牧之内・郡・十町・仙田)は頴娃村の大字となる。明治29(1896)年,郡区画法改正により指宿郡に所属した。

 昭和25(1950)年,頴娃村に町制を施行し頴娃町となる。昭和26(1951)年に東南部の仙田・十町・川尻地区が開聞村として分村した。

※5 実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止

 『創立四十周年記念誌』の回顧座談会で豊満ユキヱ氏(昭和23(1948)年6月から保健科職員として12年間在職)は実科高等女学校について「当時女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室を借りて勉強していました」と話されている。

※6 『創立四十周年記念誌』の多田校長回顧

 「創立当時の思い出」によれば,職員室も当初はなく,村長の好意で役場(頴娃村郡(こおり)の麓に明治42(1909)年建てられた旧役場庁舎。昭和44(1969)年に現在の場所(頴娃町牧之内)に新築移転)の職員食堂で職員組織を整えたこと,5月1日に男女合計約100名の生徒を確保し,5月5日に開校式(入学式)を挙げたこと,開校したものの職員室も校舎もなく,授業は敷地に近い(頴娃中学校下の)松林で行ったという。

 第一校舎となる九玉小学校の一部移築は6月半ばで4教室,職員室もようやく役場から移転,9月には第二の校舎が落成,6教室となったことなどが記されている。

※7 村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて

 以下は,『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での岩崎友二氏(電気科卒,電気科職員)による。

 「一番思い出深いのは昭和十七(1942)年だったと思いますが,台風がやってきまして,当時は村で村内の電気を管理していたのですが,村内が全部停電しました。私達二年生は実習という形で,二か月間ほど授業はやらなくて,復旧作業を続けました。村内の全ての地域で,二か月間,小笠原先生と復旧作業をやりました」

 この伝統は,アジア太平洋戦争後の新制高等学校にも引き継がれた,例えば『創立四十周年記念誌』所収の宮田己之助氏(昭和24(1949)年4月~昭和30(1955)年3月在職)の「併設定時制の思い出」には次のように記されている。

 「私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立として併設(注:昭和24年4月村立,同25年4月県立移管)され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)桶器(タンコ)木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。

 従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。」

 また,『創立50周年記念誌』(1981年2月発行)所収の福留善秀氏(建築科昭和34(1959)年卒,昭和37(1962)年~昭和54(1979)年本校在職)「思い出」によれば以下のとおり。

 「建築科(注:昭和35(1960)年に定時制募集停止,全日制募集。昭和61(1986)年募集停止,設備工業科新設)は町内の民家を請負い工具箱を自転車の荷台に載せ週に12時間は校外実習に取り組み,遣方実習から墨つけ,加工建方と内部仕上まですべて生徒の手で行われました。」

※8 留学生

 昭和9(1934)に中国からの留学生写真が残されている。(『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)

※9 陸海軍特別大演習と勅使御差遣

 昭和10(1935)年11月8日に鹿児島港に到着した昭和天皇は,鹿児島県の隼人野外,宮崎県都城で行われた陸軍特別大演習を視察され,宮崎方面をまわり15日に再び鹿児島に戻り照国神社など諸社や鹿児島高等農林学校など諸学校,鹿児島地方裁判所など,その他県内各地を巡幸して19日に鹿児島を出発された。この間に天皇の言葉を伝える使者(勅使)が派遣されたことを示すもの。(9日に予定されていた鹿児島湾での海軍大演習は,天皇が体調を崩したので中止されている。)

 本校正門を入って右側に,昭和11(1936)年11月30日付の「行幸記念水道碑」がある。この石碑と,樋渡・多田先生両胸像の間に,「御使御差遣」記念碑が設置されている。碑の正面には「御使御差遣記念碑 従二位勲二等功四級侯爵西郷従徳」とある。西郷従徳氏は従道の次男で西郷隆盛の甥に当たる。背面の碑文は摩滅して判読しがたいが,「昭和十二(1937)年十一月九日建之」と,当時の濱田森七村長・多田茂校長の連名がかろうじて確認できる。この石碑を後ろにして修養団修了式記念の写真が残されている(『目で見る南薩の100年』郷土出版社発行,2004年)。

 行幸記念水道碑には,牧之内水道組合長鶴留盛衛氏ほか関係者・団体の名が四面に刻まれている。寄附者の中には「頴娃青年校後援会」「頴娃青年校卒業生」,奉仕者の中には「頴娃青年学校全員」も確認できる。

(参考文献 南日本新聞社編『鹿児島百年(下)』(春苑堂書店,1968年),『写真アルバム南薩の昭和』,『鹿児島県の近現代』等)

※10 村立頴娃高等家政女学校

 村立頴娃青年学校から,家政科が昭和15(1940)年4月1日独立。昭和17(1942)年の裁縫授業風景や運動会での集団写真演技の写真が残されている(『写真アルバム南薩の昭和』掲載)。

※11 村立頴娃工業学校

 村立頴娃青年学校から,電気科・土木科が昭和16(1941)年4月1日独立,同19(1944)年4月1日県立移管(県立頴娃工業学校)。

 以下は『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での田畑実幸氏(土木科卒,土木科職員)による。

 「青年学校の中に電気科,土木科があり,電気科は二学級,土木科は一学級でしたが,十回生で終わりということになり,私はその十回生で,一旦青年学校を卒業してから工業学校の二年に編入しました。(中略)校舎そのものはなくて,下の今のグランドになっているあそこに整地がなされていただけのことでした。先生方も,青年学校としての先生,工業学校としての先生とあったわけです。電気科,土木科とも四十名が定員で,一学級ずつでした。学校生活のことですが,太平洋戦争勃発の頃でありまして,戦時態勢によって全てが動いていました。授業そのものよりも勤労奉仕が大部分でした。今の生徒は充実した授業が受けられるわけですが,私どもは奉仕作業や実践農場での作業が毎日の生活でした。しかしそれが,開拓精神や根性の養成につながり,簡単にはへこたれない粘りを私どもに植えつけたのではないかと思います。(中略)卒業も繰り上げ卒業で,前年の十二月に卒業させられて職場にやられたのでありました。」

 

 次回は,同じく創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次先生,第5代久木田実先生,第6代武政治先生の回顧録を予定しています。お楽しみに。