既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(6)

公開日 2020年08月07日(Fri)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(6)-

                         校長 林  匡

今回は,創立50周年記念誌記載の文章を中心に紹介します。

一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

III 出典:『創立五十周年記念誌』(昭和56(1981)年2月発行)

1 学校長式辞(安田善内第14代校長,昭和54(1979)年12月1日~昭和59(1984)年3月31日在職)

 (前略)本校は昭和5(1930)年村立頴娃高等公民学校として設立が認可され,翌昭和6(1931)年5月5日第一期生の入学式が挙行されましてから,五十周年となります。(中略)大頴娃村の村長樋渡盛広先生が,つとに南薩子弟の教育の重要性を看破され,昭和初頭の不況の時代に青少年に職を与え,海外雄飛を期待して,財政難のため多くの反対もあったそうでありますが,私事を顧みず,ご尽力説得して下さいました先見によるものであります。(中略)

 更に,初代校長多田茂先生(※1)をはじめ,創立当時の先生方及び生徒の皆さんが,開学の主旨にのっとり,校舎,校具など不充分な悪条件を乗り越え,実学に徹した教育がなされたと承っております。本校校是であります開拓精神が培われたゆえんであります。爾来,学科の改廃,統合分離,校名の変更,県立移管,施設設備の拡充など,長い波乱に満ちた幾多の曲折を経て,現在普通科及び機械,電気,建築を含む工業科の二十三学級,生徒数九百三十四名,常勤教職員七十一名を擁する南薩における伝統ある総合的高等学校として発展して参った次第であります。

 思うに,本校がたどって参りました五十年は,昭和の激動の時代であります。戦前の卒業生は工業技術者として中国大陸その他海外に雄飛される方が多かったのが本校の特徴でありました。また,学徒動員として,県外各地の工場に徴集された方々もおられます(※2・3)。戦後は,食糧難のため,食糧増産をしながら学習に励んだ時代もありましたが,その後,我が国が平和国家の建設のため,産業立国を目指して,産業教育の振興や技術革新を行い世界の経済大国として目覚ましい発展をなしとげてきました近年においても,私達の先輩は大いに貢献の一翼をになって参られたのであります(後略)。

2 回想(久保政司第9代校長,昭和37(1962)年4月1日~昭和42(1967)年3月31日在職)

 私が頴娃高校に勤務した昭和37(1962)年からの5年間は,高校生徒の急増期に当たり,学校は拡張を急ぎ活気に満ちていました。設置課程も校舎も新旧交代の時期でありました。定時制農業科は廃止して機械科を新設。家庭科は普通科に吸収しました(※4)。古い歴史をもつ木造の老朽校舎は解体して姿を消し,新に鉄筋三階建の工業科普通教室と理科室や,工業四科の実験実習室を新築しました。旧本館に家庭科実習室と社会科教室の増築など,毎年古校舎を取壊しては新築工事の連続でした。この県費事業と併行して,PTAが単独で行った学校造りへの協力は忘れることができません(※5)。予算750万円で図書館,柔剣道場,卓球場,職員住宅の建築と,9,200【機種依存文字】の農地を買収して運動場の拡張をしました。正門の移動,東門の改造,校内造園等は経費をPTAが負担して,職員・生徒の奉仕作業で立派にできました。(中略)新旧交代期はとかく混乱するものですが順調に進行したのはPTAと,教職員・生徒の和合協力によるものでした。(中略)この地域には海外移民の多いこと(※6)も知りました。こんな歴史と環境の中にある頴娃高校の教育精神として,開拓精神の強い生徒を育成したいと思いました。(後略)

3 ある回想(安田新駒第13代校長,昭和52(1977)年4月1日~昭和54(1979)年11月30日在職)

(前略。突然の鹿屋高校への異動となり,50周年記念事業の推進や生徒指導研究推進等のことなど後任に託さざるをえなかったことなど記載)土木科の廃止(※7)に伴う施設・設備の転用と整理,危険校舎の取壊し作業と玄関前のロータリー・庭園跡地への視聴覚室や音楽室等の特別教室の建設工事,運動場の排水工事,弓道場の建設等,いずれも着工したばかりで,最後まで見届けることはできなかった。一方,運動場の整地や第二体育館の建設,散在した工業科関係の施設・設備等のそれぞれの学科への集中整備計画,自転車置場や部室等の整備,図書館・礼法室・同窓会館・PTA会館食堂等を含む特別会館の建築構想の青写真と将来への展望は,すべて机上のプランのままであった。

 (中略。生徒指導上のことなど記載)校内指導態勢の確立を図り,学級PTA,学年PTA,特に地区PTAの活動を促進して,家庭との深い連帯のもとで,これらの指導を図るべく微力を尽した。(中略)会則の一部改正や,組織・機構の見直し等が行なわれ,研修するPTA,活動するPTAへの脱皮が図られた。特に,地区PTAの活動は次第に活発化し,郡内4高校(注・頴娃,山川,指宿,指宿商の4高校)の合同地区会の開催や高校生クラブの結成等もみられ,ご父兄の関心もいよいよ高まってきた。また,この時期に,婦人部も結成されて,母親たちの研修会や文化祭への参加もあった。一方,「PTAだより」も発刊され(中略)これらの活動の基礎基盤には,役員や評議員の方々の,学校教育への理解と協力並びに,係の先生方の骨身惜しまぬご尽力に負うところが大であった。(中略。昭和54(1979)・55年に文部省指定生徒指導研究推進校となったことなどを記載)

 正面玄関上の,西満州雄氏(注・昭和34(1959)年3月普通科卒)寄贈の「光の大時計」は,いまもコツコツ時を刻んでいるだろうか・・。在学中はほとんど視力を失い,学業の継続が困難な状況の中で,よく忍苦に耐え,時の校長先生や先生方の暖かい指導と激励を受け,優秀な成績で卒業。その後,大阪の針灸師学校に学び,いまでは,奈良県生駒で療院を経営しているという。西氏の善意と不屈の精神は,本校創立の建学の精神であり,このことについて一文を,県高校長会の会誌にも掲載してもらった。

 また,県当局わけても頴娃町当局の特別のご理解とご配慮により,中村部落の樫子山の地に,1,724【機種依存文字】の教職員住宅用地を確保することができ(中略)条件整備をしていただいたことは,まことに有難く,ここに衷心からお礼申し上げます。(後略)

4 亡師亡友の碑の建立

 創立50周年記念事業として,記念式典のほか,校旗の新調,校内庭園の整備,楽器の購入等学校内容の充実とともに,亡師亡友の碑の建立がなされ,記念式典当日には,除幕式及び慰霊祭が執り行なわれた。

 当時の同窓会副会長新留直光氏の経過報告(『創立五十周年記念誌』所収)によれば,この碑文は鎌田要人県知事の揮毫,ブロンズ像の設計制作は,頴娃高等学校美術担当西俣敏弘教諭,碑の背面文は,書道担当馬場正則教諭が書かれたものとある。

亡師亡友の碑文

   「すぎ行し 時の流れに 師よ友よ 逝きて還らず

    祈りもて 心に聞かん しず行くも 君が御声を

    創立五十周年を記念し建立す

      昭和五十五年十一月八日

      鹿児島県立頴娃高等学校 PTA 同窓会

      碑文 鹿児島県知事 鎌田要人 書

     創案 像制作 西俣敏広  」

※1 『創立五十周年記念誌』所収の卒業生代表田原武雄氏(高等公民学校第1回卒業生,昭和8(1933)年卒)の祝辞(要旨)には,「何とか頴娃に,外地に雄飛する学校を作りたいということで,マレーシアで苦労する多田先生を見込んで呼ばれたのです。多田先生は静岡県三島の出身で,無類の努力家でありました。(中略)多田校長先生は,授業開始の時刻がくると,我々がまだ立っている間に教室に入って来る,すぐ入ってくる。私どもはガソリンポンプと名付けておりました。大変な努力家でした。毎日,地下足袋をはいて,脚絆をまいてこられたのです。(後略。戦争で多くの級友が応召し従軍して大部分が死去されたことなど記載)」と,初代多田校長の在りし日を記されている。

 なお,当時の生徒も「ゲートルに地下足袋が校則であったけれども,生徒は熱くて窮屈な地下足袋よりか,親にも負担を掛けないただのハダシで登校する者が大部分だった。足袋は旅行か儀式のみ履いた」とは井上正己氏(昭和8(1933)年土木科卒)の言である(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行所収「胸像・村長と校長と学生」)。

※2 動員に関して

【機種依存文字】 馬場岩雄氏(昭和16(1941)年頴娃工業学校電気科1年入学,同18年12月卒)「恩師・級友」(『同窓会誌 創立30周年記念号』1960年12月発行)から抜粋

 「電気科の2年の終り頃になると同級生の中から現役で入営するし,3年頃になると恩師も応召して何となく落着かない毎日が続いたようです。現在は応召され,入営した恩師,級友の大半が戦争のために還えらぬ師となり友となったことを思うと(中略)心から懐故の念に堪えない。私は恩師応召の後約1年間母校の電気科に手伝いとして残ったが,この頃は戦争も一段と烈しく電気科3年生を連れて佐世保の海軍工廠や土木科の青戸飛行場と学徒動員に必死の努力を続けたり,職場動員で福岡の飛行機会社に動員されたりで母校をせわしく通り去った感が深い。」

【機種依存文字】 川野次男氏(昭和19(1944)年から同31(1956)年在職)「頴娃工業の歩み」(『創立五十周年記念誌』)から抜粋

 「19年の秋,時は敗色濃い戦争の真唯中,工場技術者養成が叫ばれ,私は富士の麓の静岡工業に奉職が内定していましたが,熊本の私のところにはるばる村上校長(注・第3代)が来られて,小笠原先生が応召し電気の先生がいないので,ぜひ郷里の後輩の育成に帰ってきて欲しいと説得され,富士ならぬサツマ富士の懐に方向を転ずることになりました。

 当時の頴娃工業は1棟の2階建がカライモ畠の中に聳(そび)えているだけの一見,兵舎風でもあり,施設設備は貧弱そのものでした。(中略)校外の民家も瀬川文具店の他1,2軒ぐらいでしたか。時々,校舎の上空を敵機が飛来しては校舎をめがけて機銃弾の掃射をしてゆき,その都度,生徒たちと一生懸命電気計器類をイモ畠の中に運び出しました。私は独身のせいもあって既に佐世保の海軍工廠の動員に行っている生徒たち(一回も顔を合わせたこともない)のもとへ引率者として赴くはめになり,日夜工廠内での作業と宿舎でのシラミ・空腹と戦場そのものでしたが,遂に最悪の日がきました。工場は勿論,多数の学徒の中でわが校の生徒数名が爆死と重傷という悲惨さに生徒と共になす術もなく,その夜は宿舎には帰らず残り全員でお通夜で明かしました。今も生々しく蘇って悪夢でもみている感じです。心からご冥福を祈っています。

 佐世保の苦難の要務を終えて帰任すると,間もなく斬込隊の隊長訓練とかで熊本に武装して赴きましたが,ここでまたまた空襲を受け市内5割以上の被災に辛うじて帰校した頃でした。わが唯一の学び舎が機銃掃射で全焼し茫然,(中略)以後は例の講堂(雨の時は室外同然)を借りて鋭意授業を続行しましたがここでまた電気3年生1人が投下された爆弾で重傷を受け,応急手当の甲斐もなく昇天してしまいました。痛魂の極みでした。」

 なお,川野氏は校章案の制作者でもある。上記文章中,校章改制の際に御自身の案が採択されたことにふれ,「端麗にして静かなる開聞岳は女子の,黒汐の躍動を男子のそれぞれ理想像といたしました」と書かれている。

※3 青戸飛行場(※2【機種依存文字】馬場岩雄氏の記述にもみえる。)について

 頴娃町上別府の青戸周辺には,かつて知覧飛行場の補助として秘密裏に2,000m級2本のV字形滑走路を持つ飛行場が建設されていた(現在の県道頴娃川辺線、南九州市頴娃町青戸と加治佐の間の台地、通称加治佐原(かっちゃばい))。「ち(知覧の知)のひ(飛)」の暗号を持つ知覧に対して,当初この補助飛行場の建設予定地が枕崎だったため「ま(枕崎)のひ」と呼ばれた。九州には本土防衛のため多くの臨時飛行場が建設され,青戸飛行場もその一つである。この飛行場は,昭和18(1943)年春に航空写真による現地調査がされ,間もなく着工される。「軍,土木業者,朝鮮人労働者のほか,南薩一帯の男女,国民学校六年以上の少年たちも駆り出され」(『記憶の証人 かごしま戦争遺跡』)動員は一日一万人といわれた。この時代の青戸一帯は固いコラ層が覆い,水に恵まれない土地で衛生状態は最悪だったという。1944年秋ごろには芝張りの滑走路の形が整ったとはいえ,1945年3月には頴娃でも空襲が始まり工事は中断が続き,遂に未完成のまま終戦を迎えた。竹筋コンクリートのトーチカ(防御陣地)や簡易型掩体壕(えんたいごう),貯水槽がわずかに残されている。

(参考文献 『記憶の証人 かごしま戦争遺跡』(南日本新聞社,2006年),西俊寛「幻の旧陸軍まのひ(青戸飛行場)-平成七年八月 戦後五十年に寄せて-」(『薩南文化』第3号,南九州市,2011年)

※4 昭和38(1963)年4月1日,機械科新設

 迫田雅人氏(昭和38年から同42年3月在職)「機械科創設当時の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)によれば「県立高校で機械科を設置してある学校は,昭和三十三(1955)年では,わずかに三校であった。(中略)昭和三十四年からあちこちの県立高校で設置科の改廃,新設がさかんに行なわれ,昭和三十八年には県立の十一校に機械科が設置された。頴娃高校でも時代の要請に従って,長年,地域産業振興に貢献した農業科の代わりに,昭和三十八年四月から機械科二学級が新しく募集されて,希望に満ちあふれた若人,八十八名が機械科第一回生として,ほかの科の生徒約三百三十名と共に入学した。

 (中略)機械科教室は敷地の端に近く,二教室続きの平家建一棟であり,新築当初はモデル建築といわれていたそうだが,最近の建物に比べると,明るさが足りなかった。しかし,当時,それ以外には普通教室として使用可能の教室はなかった。機械科研究室(職員室)は,建築科の先輩達が実習時間に丹精こめて作った施工実習室の一部,約三十三平方メートルが使われた。(中略)

 工業各科にとっては,実習と製図が大切な科目である。まず製図については,建築科製図室を機械科生徒にも使用させてもらったので,非常に助かった。生徒は真面目に精進を続けて,二年生になってからユニ製図コンクールで銀賞を受賞する生徒もいた。その後,新館三階建が竣工したので,製図室は現在では食堂に使っている建物に移転した。

 つぎに,実習は週三時間ずつで,苦肉の策として手仕上とスケッチの二班に編成され(中略)スケッチの場所は,塩蔵室の二階の一部が使われた。二階の一部といっても,そこは屋根裏に等しい状況であった。しかし頴娃高校の場合は当時,農業科の建物が残っていたのだから,他の新設校に比べると,まだよかった。手仕上実習室としては製茶工場あとが使われた。(中略)その後,新しく機械工場ができたので,製茶工場の建物は,不必要でもあり,また白蟻の被害がひどくなっていたので,取り壊し,その跡に前記の二教室を移転することになった。」(以下,機械科生徒が分担することとなった,白蟻の巣探しの顛末が記されている。)

 回顧座談会(『創立四十周年記念誌』所収)において,白尾満氏(昭和38(1963)年4月から同47年在職)によれば,当時,実習工場がなく,農業科の後片づけ,土運び,白蟻さがしを実習時間に行ったこと,旋盤は当初7台だけ,万力を15台ほど入れ,農業科の三輪車で土運びや分解組み立てを行ったこと,翌年工場ができ,紅茶工場に入れてあった機械を移転し,現在の機械工場ができたという。また同座談会で,当時の機械科1期生,和田英夫氏(昭和40(1965)年3月機械科卒)は「鎌を持ったりスコップで土運びなどをしたりした時,機械科に来てなんでこんなことをしなければならないのかと,何回も思ったことです。しかし一期生でもあるし,学校のモットーでありました開拓精神ということもあって,これから機械科を育てて行かねばならないと思っていました。一期生で,責任を痛感し,皆が向学心に燃えてやっていました。」と話されている。

 また,同じく機械科1期生の田之脇勇氏「懐しき思い出」(『創立五十周年記念誌』所収)には,「私たちは戦後の第1次ベビーブームの時に生まれた世代で,小学校に入学しても,中学校へ入学しても大幅に学級が増加していきました。」と記され,高度成長期の社会情勢を背景に1期生としてかなり気概をもって入学したものの,当初,機械らしきものは一つもなく新設機械科のために建てられたものも全くない中でスタートしたこと,1年次1学期の授業は「2学級しかない老朽木造校舎の中で授業を受け,実習の時間になると(中略)実習服だけ身につけ,これまた,もと農業科が養豚舎として使っていた古い木造建物を機械科の実習室にかえるべく,カナヅチとタガネを持って豚の糞尿で汚れた石壁を削ったり,槌やツルハシで不要な石壁や床などをたたきこわしたり,整地等をしておりました。(中略)自分は本当に機械科に入ったのだろうかと疑いたくなるほどでしたが,2学期に入るころには,その木造建物の中に万力ややすり,ボール盤,グラインダーなど簡単な道具や機械が入り,何とか機械科らしい体裁を整えてきました。(中略)その後,学年が進むにつれ,教室も新築なった鉄筋4階建の4階に移り,実習工場もできて,旋盤や型削り盤,小型の溶鉱炉等が逐次整備され,それに伴って,ねじ切りや溶接,鋳型を作っての鋳造,鍛造等の実習も次第にできるようになりました。3年生になると,水力学の実習室も整備されて,こっちの方の実習もできるようになりました。」と当時のことを振り返っておられる。

※5 回顧座談会『創立四十周年記念誌』において,久保政司氏は,生徒数の膨張期(1,200名)に校舎の拡張が追いつかず,まず最初に狭さを感じたのは図書館(三十周年記念に作られた)だったこと,体育館でも多くの部活動生が活動していたため,柔剣道場と卓球場建設を決意したこと,当時古い木造校舎が次々に解体されていたため,その古材を再利用することとして校舎を無償払下げにしてもらい,PTAの協力をいただいて,図書館,二棟の柔剣道場,卓球場を五か年計画で建てた経緯を話されている。なお,その際に「あとで第一本館に接続して家庭科の二つの実習室,その上に,三階に社会科教室を作ったんですが,その時,惜しいと思ったのは,その敷地が松林で,青年学校時代奉安殿のあった所で一段高く,松の木の下に芝生があって生徒の憩の場所であったんですが,そこをつぶしてしまったことです。」とも語っておられる。(青年学校の面影をそのまま止めていた場所だったという。)

※6 海外移民の多さ

『頴娃町郷土誌』改訂版(1990年発行)によれば,旧頴娃町内の出移民の約90%は摺木・耳原・石垣・大川・水成川出身の人たちであり,成功者を「アメリカどん」と呼んで尊敬したという。「別府地区は海運業が盛んで,進取の気性に富み,情報を得やすかったこともあり,移民先駆者の強い愛郷心と移民希望者の精神的安定感から同郷同族による移民が主であった。」

 最初の移民は,明治27(1894)年,摺木の摺木寅吉,前村松之助氏以降とされ,大正13(1924)年,頴娃・知覧の出身者が相互扶助をはかるため,「頴・知同志会」が結成され,昭和30(1955)年9月,難民救済法による契約移民が始まり,鹿児島県から第一次移民として96人がカリフォルニア州に出発した時には,頴娃町から1/3の30人が渡米したという。31年4月には26人。同年5月には52人の多数が渡米した。

 この他,中南米やフィリピンへの移民も出している。

※7 土木科廃止

 昭和6(1931)年の高等公民学校,同10(1935)年の青年学校,同16(1941)年の頴娃工業学校,戦後の昭和23(1948)年の全日制頴娃高等学校と,その歴史を紡いだ学科であった。

 『創立六十周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)所収の堀之内優氏(頴娃工業学校土木科一期生)「思い出すがままに」によれば,2年生・3年生の夏休み,夏期実習に「県内はもちろん県外の各事業場に出かけて約一か月間土木の専門を実施に勉強した」という。堀之内氏は,山口県の国道ルート測量に従事され,「トランシットやレベルを担ぎながら延々と続く田圃の中でヒルに足を喰われ,夏の炎天下に汗を流しながら測量をしたことは終生忘れ得ない思い出である。」と振り返っておられる。また,3年生2学期には担任(加藤教諭)から,「同級生四人で頴娃村牧之内飯山の農道の設計をするように申し渡され,四人でセンター・縦横断・平板の各測量を行い幅員三メートルの道路を八百メートル設計した」こと,何とか設計図面を完成できた時の感激を記されている。

 この『創立六十周年記念誌』に転載された,『わが青春の母校・青春有情』(鹿児島新報社,昭和53(1978)年4月発行)「頴娃高校沿革」には「創立以来続いている土木科は優秀な人材を次々に世に送り出した。とくに土木科の生徒が水不足のために始めた水道工事は,すばらしい成果をおさめ“頴娃高校に土木科あり”と有名になった。この土木科も五十一年三月には募集停止となり,卒業生を寂しがらせている」とあるように,昭和51(1976)年春に土木科は募集停止とされた。

  今回は,土木科の募集停止,電気科の新設に関して取り上げるとともに,創立50周年記念事業として行われた亡師亡友の碑の建立も踏まえて,これまでに記載できなかった,戦時中の生徒・職員の動員などについても触れました。

  次回は,平成3(1991)年3月に発行された,創立60周年記念誌を基に紹介する予定です。平成に入り,昭和期の頴娃高校を関係者の皆さんがどのように振り返っておられるのか,お楽しみに。