既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(10)

公開日 2020年08月12日(Wed)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(10)-

                         校長 林  匡

最終号として,平成22(2010)年度,創立80周年記念誌から紹介します。

一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

 

VI 出典:『創立80周年記念誌』(平成23(2011)年3月発行)

1 時代の流れと母校(濵﨑貢第23代校長,昭和41(1966)年普通科卒,平成17(2005)年4月~平成19(2007)年3月在職)

 (前略)昭和38(1963)年は本県の高校進学率が6割に達したばかりでしたが,団塊の世代の入学とあって,生徒の急増にどの高校も学級定員や学級数の増加,学科増設で対応しました。特にこの年は指宿枕崎線が全線開通したことと相まって,頴娃高校の生徒数は1,280名に達する勢いでした。牧之内の街角には生徒の笑顔が弾け,西頴娃駅の朝夕は列車通学生で溢れかえりました。頴娃の町が最も活気に包まれていた頃でした。

 東京オリンピックを契機とした我が国の目覚しい高度経済成長は,ブルーカラーの人気がホワイトカラーを凌いでいました。この様な社会志向が工業系学科の生徒の進路幅を著しく拡大させ,その入学倍率は上昇の一途を辿るばかりでした(※1)。進取の気鋭をもった頴娃高校の当時の工業系4学科(注・電気,土木,建築,機械科)は,官公庁,国鉄,電電公社をはじめ,我が国のメジャーな企業にあまたと卒業生を排出する名門でした。本県工業高校の四天王と呼ばれた所以です。

 質と量に富んだ技術力に担保された国の高度経済成長は,国民の価値観と生活スタイルに変化をもたらし,40(1965)年代後半には人々の職業意識にはブルーカラーからホワイトカラーからホワイトカラーへの逆のうねりが生じ,高校進学の志向を専門系学科から単独の普通科系高校へ転換させました。この社会事象が頴娃高校創立以来,輝かしい歴史と実績を誇る普通科に,向かい風を煽ることになったのです。さらに,道路交通網の整備(※2),少子化や学区の拡大(※3)などによって状況は一層厳しくなりました。

 私は昭和38(1964)年に普通科に入学し,42年ふりの平成17(2005)年に母校に帰ってきました。学科の構成は普通科2学級,電気,機械,設備工業科がそれぞれ1学級,生徒数は42年前の3分の1でした。赴任当時の私に,卒業生や地域の人々の声が怒濤のように押し寄せました。「母校の開拓精神はどこに消えたのか?」,「頴娃高校のかつての実績を取り戻せ!」,「再び国立大学の合格者を出せ!」などなどです。私にはこの声を理不尽な怒号と受け流すことは許されませんでした。地域を発展させ,遠く北は樺太や満州,南は東南アジア諸国の電源開発や国土整備に赴き,天地を動かした卒業生(※4)の切なる声であると受け止めたからです。頴娃高校出身の者として,この切なる声のたとえ一部でも応えることが私の命題であると認識しました。

 赴任当時,部活動は野球(※5),ソフトテニス,剣道,吹奏楽(※6),自動車(※7),図書の各部をはじめ多くの部活動がかなりの成果を挙げていました。資格取得や物づくり(※8)においても,県内優勝や九州大会出場を果たすなど他校に秀でた活躍を見せていました。したがって最大の課題は,生徒を国立大学に合格させることでした。「進学指導に求められるのは,生徒に自己実現の意欲を掻き立たせる教師の情熱である」,私が38年間貫いた単純な信念です。これを汲み取ってくれたのが,進路主任と3年の学級担任をはじめとする多くの職員でした(※9)。さっそく始まった課外授業は,大規模の普通科高校のそれとは異質の形態です。生徒一人ひとりに張り付いた職員は生徒の心に入り込むことから始め,人の在り方生き方を語り,学問の意義や価値についても議論してくれました。次第に意欲に目覚めた生徒たち,驚くほどの集中力を見せ膨大な学習量をこなしました。勿論,彼らに笑顔の日ばかりがあった筈はありません。学習が進むにつれ教師の要求の高さと指導の厳しさに涙を流す者も出ました。受験前夜は深夜に及ぶ学習も常でした。このような学校生活を日常として1年後,彼らの学力は確実に大学入試を制するまでになったのです。この集大成として平成18(2006)年の春には,九州内外の国立大学と名門私立大学にそれぞれ数名が合格しました。この実績を当時の生徒数から割り出せば,大規模の普通科高校のそれを十分に凌駕しているとして,県内外の高校からの学校訪問を受けるほどになりました。職員が誇りにしたのは実績としての数値や割合ではありません。生徒と教師の間に繰り広げられる瑞々しい人間模様こそ教育の本質であり,それが頴娃高校に蘇ったことを誇りにしたのです。(中略)頴娃高校はこれまで地域の発展に大きな役割を果たしてきた学校です。一方,地域において頴娃高校の存在とその果たす役割は一層大きくなるに違いありません。頴娃高校と地域はどのような相補関係を保持していくのか頴娃高校の課題ではありますが,むしろ同時にこれは地域にとっても喫緊にして最大の課題であるはずです。(中略)

 生徒として頴娃高校に学び教師の最後を母校で締め括った者として,私には母校の八十周年の歴史に感慨ひとしおのものを禁じえません。頴娃高校に活気が薄れてなどしていません。頴娃高校の日常に開拓精神は,今なお健在なのです。

 地域の全ての皆さんが,頴娃高校に繰り広げられる肌理(きめ)の細かい理想ともいえる教育を,地域の高い教育資産であると認識して,地域の生徒を地域の頴娃高校に学ばせて欲しいものです。

 

※1 集団就職列車,高度成長期の状況など 

 鹿児島県で初めて,全国でも初めてという試みだった集団就職臨時列車が鹿児島駅から発車したのは昭和31(1956)年3月30日だった。以後,昭和49(1974)年の最終便まで毎年編成され,計14万人以上が大阪・名古屋・東京方面へ運ばれた。背景には,敗戦後の経済復興から高度成長期を迎え,工業立国が図られる中で,その労働力として若年労働者が求められた。昭和35(1960)年の鹿児島県経済振興計画でも,県農業の体質改善が図られる。この中で,職業紹介活動の強化,県外労働市場の開拓,海外移民の促進などが進められた。この影響が学校教育にも影響を与え,産業教育の推進が図られ,高校へ進学する者も,就職率のよい工業系・商業系に進み,農村地区では普通科が敬遠されたという。

 なお,中学生の進学率が就職率を追い越したのは昭和33(1958)年で,同46(1971)年には80%を越える。また,集団就職者は昭和39(1964)年をピークに減少していく。県外就職者の多くは帰ってこなかったが,昭和30年代の県民所得からは,県民分配所得に比べて個人所得が常に上まわること,県外就職者からの送金などによる送金所得がその大部分を占めていた。

   (参考文献『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)

※2 道路交通網の整備

 例えば『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)には,「昭和から平成への架け橋,瀬平橋建設工事」の写真(昭和63(1988)年頃)が収められており,その解説には「かつての国道は,麓,鬼口集落を過ぎて開聞方向に進むと,大きく左に迂回していた。円滑な進行のために,昭和62(1987)年度から平成2(1990)年度にかけて瀬平橋の建設が始まった。」とある。なお,同書には,昭和40(1965)年代の頴娃町三俣商店街の風景も収められている。(三俣は,文字どおり,三差路交差点を中心にして,昭和以降発展した町。頴娃高校の前身である高等公民学校もこの地において,昭和6(1931)年創立された。三俣商店街は,昭和44(1969)年の町役場移転(8月新庁舎開庁)や県道の整備に伴い発展した。)昭和49(1974)年には,国道226号から頴娃小学校に向かう三差路に,歩行者の安全確保のため,手動交通信号機が設置され,神事が執り行われた時の写真もある。

※3 戦後,新制高校は,始め教育委員会法(1948-56年)に基づき,総合制と男女共学,学区制の導入が進められた。自治体(市町村)に一校とされていたので,例えば,鹿児島市にあった県立高校は,鹿児島工業・二高女・一高女・二中・一中を合併して鹿児島高等学校と称し,順に一部から五部までの部制であった。しかし卒業生を1回出した後,三部と五部,二部と四部が合併し,鶴丸高等学校,甲南高等学校に,一部は男子校の工業学校となる。           (参考文献『鹿児島県の近現代』)

 鹿児島県では「職業教育と普通教育を統合して,地域に根ざして総合的な教育を実施していこうとする地域総合高等学校という理念は実現しにくいものをもっていた」こと,地域総合制の理念に基づく学区制の実施は1950年度から実施(普通科課程は学校ごとに学区制をつくり,職業科課程は全県からとして学区制を設けなかった。)されたこと,一高等学校一学区制の方式は6年しか続かず,実施から間もなく撤廃の意見が出され,昭和31(1956)年4月から中学区制に変わっていたこと,学区制も実質的には市郡単位にしたものが多く,広域的なものであったこと,などが指摘されている(神田嘉延「町村立高校の形成と勤労青年の学習-鹿児島県の事例を中心として-」『鹿児島大学教育学部研究紀要』教育科学編第48巻,1997年)参照)が,通学区の広域化は,地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法,1956年制定)に基づき全国的に見ても,多くの県で進んだとされる。1960年代後半以降,普通科高校の増設により学区内の学校数が増加し,大学区化傾向が続く。1970年代にかけて,「高校進学率は一挙に90%を突破するところとなり,高校受験がすべての中学生を対象とするようになったのである。この時期の政策意図としては高卒の労働力養成機関として職業科の増設を望んだが,住民は大学進学に有利な普通科高校の増設を期待した。そうした軋轢の中で各県は高校増設に取り組み,主に普通科高校の量的拡大が図られた。その際に広域に設定された通学区内に多くの普通科高校が併存することになり,交通手段の発達とともに序列化が進み学校間格差が生まれていったのである。」(水上和夫・野﨑洋司「高校通学区制度に関する研究」『神戸大学発達科学部研究紀要』第6巻第1号,1998年)

※4 『創立80周年記念誌』及び『創立七十周年記念誌』(2001年3月発行)から,卒業生の活躍事例を以下に紹介する。

(1) 海外

○ 企業就職・退職,大学卒業を経て建設コンサルタントに入社され,メコン河開発(国連と世界銀行が組んだナムグムダムプロジェクト)に参加,ジャングルの中,マラリヤに罹患された苦労もありながら技術支援に当たった経験を基に,海外に出て異文化に触れ友人をつくろうと寄稿された東望氏(昭和36(1961)年土木科卒,『創立80周年記念誌』所収「海外の仕事で学んだこと」)

○ 土木関係の仕事をされ,20代後半に青年海外協力隊に応募し,アフリカのタンザニアに2年余の間,土木施工の隊員として派遣され道路建設プロジェクトに参加された,和田賢志氏(昭和51(1976)年土木科卒,『創立80周年記念誌』所収「世界へはばたけ」)

(2) 国内

○ 戦前,華北電信電話株式会社に就職され天津で勤務,戦後,厚生省(現・厚労省の前身)本省の採用試験に合格し,以後,頴娃工業学校の校訓「誠と熱」(いかなる問題に直面しようとも誠意と熱意を持って対処すれば必ず道は開ける)を道標に,福祉行政で老人福祉法制定や老人医療制度の制定に携わり,身体障害者福祉法改正では提案責任者として取り組まれたほか,国民年金法による障害基礎年金適用の課題解決に当たったことなどの御経験を寄稿された池堂政満氏(昭和18(1943)年電気科卒,『創立七十周年記念誌』所収「母校の教訓を心の支えに福祉に取り組み五十年」。池堂氏は『創立六十周年記念誌』(1991年3月発行)にも「在学時代の思い出」として寄稿されている。)

○ 頴娃高校吹奏楽部創部時の生徒で,映画・放送・演劇界から大学教授となり,作曲家,芸術情報研究で活躍され,三州倶楽部監事や関東鹿児島県人会連合会副会長なども歴任された新徳盛史氏(昭和31(1956)年普通科卒,『創立80周年記念誌』所収「母校の傘寿で思うこと」)

○ 企業の研究所で海水淡水化装置や各種電池など新製品開発,石炭の利用技術や排ガスからの窒素酸化物除去などのエネルギーや環境関係などにも当たられた西昭雄氏(昭和36(1961)年普通科卒,『創立80周年記念誌』所収「回顧50年とこれからを思う」)

○ 企業就職後,学士資格を取得し国鉄に採用され,大型プロジェクト工事や民営化(JR),その後も鉄道電気設備を中心に様々な企画運営等に当たられた齊藤功氏(昭和38(1963)年電気科卒,『創立80周年記念誌』所収「記憶・実践・期待」)

○ この他にも,県外企業,公務員など様々な方々が活躍されています。

(3) 県内

○ 警察署使丁から教員検定試験を受け小学校教員,校長の道を歩まれた電気科第1回卒業生の園田實則氏(昭和8(1933)年卒,『創立80周年記念誌』所収「創立80周年に思う」)をはじめ,この他にも教職に就き,本校を始め活躍された方や公務員として実績を挙げられた方々

○ 小児科医として活躍され,鹿児島県小児科医会会長も務められた鮫島信一氏(昭和29(1954)年普通科卒,『創立七十周年記念誌』所収「只今65歳「子育て支援」に頑張っています」)

○ 九州電力を経て,昭和54(1979)年,40歳で県議会議員に当選され,以後5期20年県政に関わり,平成11(1999)年退任された後,高齢者福祉事業に取り組まれた松村武久氏(昭和34(1959)年電気科卒,『創立80周年記念誌』所収「人生はドラマなり!」)

○ たばこ・米・甘藷等の農業経営と自動車学校勤務について寄稿された福留順一氏(昭和36(1961)年農業科卒)

 このように,周年記念誌からだけでも,挫折や逆境にも負けず各方面で,活躍された先輩達が確認できます。皆さんは思いを込めて,後輩たちへのエールを送ってくださいました。

 例えば,高校時代からマンガを描き始め,2年生の時に新人賞,3年生の時にマンガ賞を受賞し,星のカービィなどの作品で活躍されているマンガ家の川上ゆーき氏(平成21(2009)年設備工業科卒)からは,「やりたいことをやってやろうじゃありませんか。ただ,前だけを見て生きていけばいい」との励ましをいただいています。(『創立80周年記念誌』所収「マンガ」から)

※5 野球部

 塗木哲哉氏(平成11(1999)年4月~平成18(2006)年3月数学科在職)指導のもとでの頴娃高校野球部の活躍は,同監督の「7年間の軌跡」(『創立80周年記念誌』所収)に詳しく書かれている。塗木監督は「自分の可能性を信じ,決してあきらめないで人生を過ごしてほしい」という思いから,部日誌表紙に「可能性への挑戦」と書かれ(これは御自身にも言い聞かせていたのだと後に回顧されている。),平成12年度から監督となり,生徒の感情と意識を高めようと,初めの関西遠征で甲子園を生徒に体感させたという。

 塗木氏の尽力と生徒の意識向上により,野球部は平成13(2001)年に3年ぶりのベスト16入り,翌14(2002)年第110回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選では8年ぶりの県大会ベスト8,5月の第44回NHK旗大会でもベスト8(準々決勝の樟南戦では全校応援実施),10月の第111回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選では,優勝した平成5(1993)年以来,9年半ぶりの県大会ベスト4(秋季大会初)という成果を挙げる。

 これらの結果,第75回記念選抜高等学校野球大会21世紀枠の鹿児島県推薦校に選出される。平成15(2003)年の,第112回九州地区高等学校野球大会鹿児島県予選もベスト4,10年ぶりの九州大会に出場し,県勢唯一のベスト8となる。部員数は増加し,最大時70名に及んだ(全校男子生徒の5分の1)という。

 なお,塗木氏は,進学指導についても記載されている。2回目の1年生普通科担任時,国立大学合格者を出したいという思いを深くされ,生徒・教職員に働きかけたこと,結果,4名の合格者を出したこと,御自身がされたことは「受験する気持ちを作ってあげること」であり,職員が「みんなで学校を良くしよう,盛り上げようと思っていたと思います」と記されている。

※6 吹奏楽部

 脇兼光氏(平成11(1999)年4月~平成19(2007)年3月芸術科(音楽)在職)は,「私が赴任した時には吹奏楽部員はほんの数人で,ほとんど休部状態でした。楽器も古いものが少ししかなく,部活動としてはできない状態でした。(中略)その後平成14(2002)年から吹奏楽部経験者が入部してきて,吹奏楽部が10人ほどで再スタートしました。楽器も順次購入していただきました。それまでテープをながしていた入学式や卒業式,そして体育祭等の学校行事,さらには鴨池球場での野球の全校応援で吹奏楽の生演奏ができるようになりました。その後老人ホームや保育園で訪問演奏も行い,施設の方々に喜んでいただきました。平成17(2005)年と18年には少人数でしたが定期演奏会を開催しました。(中略)終了後の反省会で生徒たちの本当に喜び満足げな表情を見た時,大変だったけれども開催して本当に良かったと思いました。多いときでも20人弱の部活動でしたが貴重な思い出の一つになりました。」と寄稿されている(『創立80周年記念誌』所収「思い出あれこれ」)。

※7 自動車

 機械部の活動である。『創立80周年記念誌』所収の,吉永和人第21代校長(平成12(2000)年4月~平成14(2002)年3月在職)「年年歳歳その2」に,「当時,本校は県下唯一,「エコカー」を研究・製作しておりました。権堀先生,吉元先生の指導のもと,毎年,全国大会で優秀な成績をおさめておりました。」とある。

 これは,権堀栄一郎氏(平成8(1996)年4月~平成13年(2001)年3月機械科在職)による「燃費1000km/リットルを目指して」(『創立80周年記念誌』所収)によれば,「「1リッターのガソリンでどこまで走れるか」という無限の可能性をテーマにしたエコノパワーレースへの挑戦」であったという。契機は,権堀氏が機械部顧問となったことと,県の「魅力ある高校生活づくり」事業への応募だったことが記されている。

 権堀氏が担任したクラスの生徒に声を掛けたところ「話が広がり機械科だけでなく,電気科と設備工業科の生徒も巻き込んで燃費1000km/リットルへの挑戦が始まりました」。1年目は車体製作で試行錯誤され,鹿児島市の自転車専門店の協力で,無料で車輪を作っていただいたこと,地元のバイク店では「レアな部品を無料で提供して頂いただけでなく,翌年には九州大会にまで応援に来て頂きました」という。

 この2年目の夏,熊本県で開催された九州大会に初出場し,参加52台中362km/リットルの記録で第7位という快挙を成し遂げ,翌年にはエンジンを改良,九州大会で457km/リットルの記録更新,栃木県で開催された全国大会に初出場し,479km/リットルの自己最高記録を出したものの,全国でのものづくりのレベルの高さもまた実感されたとある。

 4年目には新たな車体・エンジン製作に取り組み,毎週日曜日に知覧自動車学校の教習コース(無料で貸していただいた)で練習を重ね,平成13(2001)年の全国大会では634km/リットルの記録更新を果たした後も,機械部の取組は続き,翌年には800km/リットル以上の好記録を出したという。

※8 ものづくりについて

 福永勇二氏(平成11(1999)年4月~平成18(2006)年3月電気科在職)「在職時代の思い出」(『創立80周年記念誌』所収)には,「頴娃高生の底力を発揮する出来事」として,平成16(2004)・17年,高校生ものづくりコンテスト電子回路組立部門に2年連続優勝し,九州大会に出場できたこと,県大会に出場したもう一人の生徒も,2年連続3位入賞という快挙を成し遂げたことを挙げられ,この県大会は,平成15(2003)年に始まり「当初は難しいと敬遠されていた部門で取り組む生徒が少なく,我々指導する側も何もかも初めてで,回路の動作を理解したり電子部品の調達など苦労しました。また,コンテスト課題も平成17(2005)年から設計・製作する回路に加えて,制御対象回路を組み合わせたコンピュータシステムを作り,一つの動作をするプログラムを完成させるという新しい分野が取り入れられ,大幅な課題変更に戸惑いました。しかし,やると決めたら難しい課題でも果敢に挑戦する生徒達と,試行錯誤しながら放課後遅くまで取り組めたのも,共に開拓精神の頴娃高魂が宿っていたからだと思っています。」と記されている。

 小野通男氏(平成13(2001)年4月~平成17(2005)年3月機械科在職)「80周年おめでとうございます」(同)にも,「自分自身も機械部としてエコカーやロボット競技に参加させて頂きました。機械部の生徒は,特に優秀で,旋盤や溶接機など自由自在に使いこなす技術屋さんでした。大会等近づくと,工場に生徒と寝泊まりしてエコカーやロボットを製作していました。今想えば,頴娃の生徒の努力やがんばりは,すばらしいものだったと思います。自分たちで,いろいろなアイデアや工夫を出し合って,九州大会や全国大会に出場しました。(中略)先生方も研究熱心で,指導力の優れた方達ばかりでした。スターリングエンジンを作ったり,溶接でいろいろなものを作ったりしました。」と記されている。

※9 稲本麻里氏(平成12(2000)年4月~平成21(2009)年3月国語科在職)の「頴娃高校の思い出」(『創立80周年記念誌』所収)に「(9年間の在職期間)中でも印象深いことの一つは,長く途絶えていた国公立大学進学者をだすという悲願が達成されたことである。」として,この目標達成に,まず生徒指導と授業を大事にする雰囲気,学習に向かう姿勢づくりなど基本的なことに取り組み,長い時間を要しながらも,普通科の悲願として継続され,生徒・職員が「一つの目標に向かって一丸となって向かっていくチームのような雰囲気ができていた」結果,平成18(2006)年春に達成されたことが記されている。

※10(編集後記中)胸像-井上知治氏と池田清氏の胸像

 井上知治氏(明治19(1986)年7月~昭和37(1962)年9月)は,大正6(1917)年東京帝国大学法学科卒,昭和5(1930)年に衆議院議員に初当選以来,4期連続当選。昭和17(1942)年,大政翼賛会の推薦にもれ落選したが,同21年の総選挙で当選,以来3期連続当選。この間,昭和22(1947)年2月に,帝国議会最後の副議長に就任,同23年10月には国務大臣・賠償庁長官に就く。昭和28(1953)年4月に参議院議員当選,次回の同34年の参院選は老齢を理由に辞退する。

 井上氏の胸像は西頴娃駅前に建立された。このため,昭和40(1965)年10月に,旧頴娃町有地と県有学校敷地の交換がなされている(頴娃町牧之内中諏訪原)。現在,頴娃高校西門手前に池田清胸像と並んである。

 池田清氏(明治18(1985)年2月~昭和41(1966)年1月)は,大正2(1913)年東京帝国大学卒,警察官僚として警視庁警部,大阪府警察部長を歴任し,昭和11(1936)年北海道長官,大阪府知事を経て,同14年9月,第46代警視総監となる。後に海南島司政長官となり,昭和27(1952)年10月,衆議院議員に初当選,2期2年8か月,代議士として活躍した。

 池田氏の胸像は,昭和43(1968)4月,建設に当たって校地交換がなされ,頴娃高校正門東側(頴娃町牧之内三俣下)に建立された。その後移され,現在は西頴娃駅から頴娃高校西門に向かう途中,井上知治胸像の右側に並んで置かれている。

(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))

【編集後記】

 令和2(2020)年4月,鹿児島県立頴娃高等学校に着任しました。新型コロナウイルス感染症対応での臨時休業明け,なんとか始業式,入学式を行うことができ,少し落ち着いた頃に,広い敷地の学校内外に現存する記念碑や胸像(※9)などについて,その来歴や意味に関心を持つようになりました。直接碑文などを確認しても,磨滅などで判読が難しいところもありましたが,過去に発刊された創立記念誌の各所に関係の文章が記載されていることや,既刊の『頴娃町郷土誌』などの書籍でも補足できると気付きました。

 今年度,頴娃高等学校では,創立90周年記念式典(11月)・事業等が予定されていました。しかし,新型コロナウイルス感染症対応として,4月下旬から再び本県公立高等学校の臨時休業が行われます。学校再開後,その後の全国的な状況を踏まえ,創立90周年記念事業実行委員会において,記念式典等の開催延期が決定されました(今年度予定されていた県内公立高校の記念式典関係は軒並み延期されました)。

 このため,今年度入学した生徒,新たに着任した私を含む教職員をはじめ,在学生・教職員が,学校の歴史や,校是「開拓精神」の由来や,関係職員・卒業生等がどのような想いでこの場で過ごし,卒業後,本校での学びを基に,どのように活躍され,苦難を乗り越えたのかといったことなどを振り返り,知り得る機会も延期されることになります。

この「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」シリーズをまとめようと考えた契機の一つは,現在本校に関わる生徒・教職員他多くの方々にとって,改めての参考になればと考えたからです。

 なお,私事ながら,記念誌の中に,頴娃高校で勤務された教職員に,私が初任校(錦江湾高校)社会科で御世話になった山田尚二先生(昭和28(1953)年4月~昭和38(1964)年3月社会科在職)の文章があり(『創立六十周年記念誌』所収「初任校・頴娃高校の思い出」と『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)所収「初任地の思い出」),懐かしく拝読しました。回顧には,当時の教員生活や生徒の指導,放課後の卓球や写真,囲碁にも打ち込んだこと,勤務10年目に小中学校の副教材用の頴娃沿革史の執筆を依頼され,この経験から郷土教育,文化財保護を考えるようになったこと,古文書による地域の歴史研究に関わっていかれたことなども書かれています。

 山田先生は,本校から大島高校,甲南高校に勤務され鹿児島県明治百年記念館(後の鹿児島県歴史資料センター黎明館)建設調査室勤務等を経て,研究者として,特に西郷隆盛研究で独自の位置を築かれました。私が,鹿児島県歴史資料センター黎明館にて学芸員として勤務した時期には,鹿児島市の西郷南洲顕彰館長として活躍されていました。頴娃町が編纂刊行した『頴娃郷土誌』,『頴娃郷土誌改訂版』の近世部門も執筆されています。

 さて,「既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校」は,この第10回で最終回とします。なるべく多くの方々の文章を紹介したいと考えましたが,十分に御紹介できないこともありましたこと,関係者の皆様には御海容を賜りますようお願い申し上げます。何らかのお役に立つことがあれば幸甚です。ありがとうございました。