既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(8)

公開日 2020年08月11日(Tue)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(8)-

                         校長 林  匡

今回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に,部活動のことなども紹介します。

一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。

 

IV 出典:『創立六十周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)

4 回想(京田薩夫氏,昭和23(1948)年4月~昭和36(1961)年3月電気科在職)

 (前略)着任当時学校は敷地内に頴娃高校,頴娃工業高校,家政女学校,今和泉高校分教場となった家具科,村立定時制高校としての農業科,家庭科,建築科それに頴娃中学校の一部と雑居の状態でした。工業科は工業学校が戦災で焼失し,その跡地に木造平屋造りで廊下は板張りでなく土間で,内側の窓は障子,教室の出入り口も障子張りの引き戸で出来ており,学期毎に障子の張り替えをしていました。電気科の実験室は使わなくなった村立の乾繭倉庫(※1)をそのまま一階を強電,二階を弱電関係の実験室,三階を製図室にしていました。三年生は工業学校を卒業して高校三年に編入した者,戦場に征き,終戦で復学した者と年齢も様々で,私より年上の生徒もいました。普通科は普通科を誘致するため,当時旧制の指宿中・指宿女学校に入っていた頴娃村内の子弟を郷土の高校に普通科を作るため転校させ発足させたのです。普通校として伝統ある指宿高より帰してまで普通科を作りたいという郷土愛に燃える人々の努力は,現在の有名校指向の親達には考えられないことではないでしょうか。高校初代校長は武政治先生で,先生も県立女子専門学校(注・第一高女専攻科を基にする。現鹿児島県立短期大学の前身)の教頭の要職より郷里の子女を教育するため,あえてその当時頴娃国といわれていた僻地だったこの学校に赴任されたのです。軍国主義教育から民主主義教育への脱皮,アメリカ軍政下(※2)の教育と私共の知らない苦労があられたことと思います。二十四(1949年)には電気科は電気主任技術者三種免許認定校になりましたが,認定を受けるには戦災で焼失し設備が基準に足らないため,基準に引き上げるのに,学校は勿論生徒の勤労奉仕による資金作りと生徒達も必死で頑張りました。村有林の示山(現在スカイラインの頴娃インターの手前)にキャンプを張り,薪の切り出しに汗みどろの毎日でした。土木科も最終日応援に来てもらい嬉しかったことを今でもはっきり覚えています。

 (中略)二十三・四(1948・49)年当時の通学についてふれてみます。生徒も先生も,まともな靴を持っておらず,運動靴は年数回の配給で,それも抽選でクラス数名ずつしかわたらない状態で,男女生徒とも下駄か裸足通学でした。私も自分で作ったわらじをはいて実家の開聞町から徒歩で通っていました。(中略)鉄道は三十六年頃(注・山川駅までは昭和11(1936)年に延伸され山川港から枕崎までバスが走った。西頴娃駅は同35(1960)年3月,枕崎までは同38年10月)開通したわけで,バスも国鉄の省営バスといっていた木炭を燃やして走るバスで故障も多く,バス通学生も朝は何とかバスで登校しても帰りは歩くことが常識となっており,舗装のない石ころとほこりの道路を教師生徒わいわい話しながら通学したものでした。青戸・別府・川尻ぐらいまではほとんど徒歩通学でした。自転車は万年タイヤといって空気の入ったチューブはなく,硬質ゴムだけで作ったもので,石だらけの道で尻は痛いし,スピードはでない大変な代物でした。遠くは指宿・知覧町松ヶ浦,浮辺あたりから通っていました。この通学による体力と精神力こそ卒業生が大いに社会で活躍している源になっているのではないでしょうか。

 (中略)三十五(1960)年までは県内に電気のある高校は鹿児島工業高校と二校だけでした。それだけに南薩地方全域から優秀な人材が集まってきていて競争試験には絶対に負けないといった自負心を皆持っていました。

 土木科も伝統を誇る県内有数の科であっただけに科がなくなったことは残念でなりません。普通科の進学は四回生ぐらいまでは,東大,一橋大,京都大,九大医学部,鹿大医学部など一流大学を始め相当数が大学進学していました。図書館もなく,参考書を買うにも本屋らしい本屋もなく学校の授業だけで合格していたわけです。それに田植,稲刈時期には農業休暇が一週間ぐらいあり家に帰れば大きな労働力であり大変だったことと思いますが,普通科に限らず工業科の生徒も南薩の雄としての誇りを持って勉強していたと思います。(中略)

 私が着任した頃はバレー部が頑張っていました。野球部はアメリカにいる在留邦人からの寄贈(※3)で道具一式が送ってき発足したようでした。陸上部発足より顧問をしていた陸上部についてですが,二十五(1950)年の県大会で土木科の坂元君が1500mで決勝に残った時のことです。彼は決勝では最下位で,私と応援をしていた武校長が「京田君負けたのは力でなくスパイクの差だね」といわれた言葉が今でも残っています。一人だけ裸足でした。何しろスパイクなんて高価なもので,当時私の一カ月の給料全額はたいても買えないぐらいの金額でした。翌年から二・三足学校で買って,足にあったのをはいて出場していました。女子は短距離に投てきにと,三十年代前半までは県代表として常に出場していました。次にボクシング部の活躍ですが,私が学生時代やっていたボクシングは県連盟ができて,競技が正式にできるようになった三十(1955)年より指導を始めましたが,部員達は農作業で鍛えた足腰と南薩地区独特のねばりと闘争心で,数年にして九州の強豪といわれるまでになり,全日本高校ランキングに名を連ねる選手も続出し,国体でも団体入賞を果たしました。(後略)

5 生徒が輝いていた思い出(田村俊一郎氏,昭和38(1963)年4月~昭和49(1974)年3月,同52(1977)年4月~同63(1988)年3月31日電気科在職)

 (前略)私が赴任した当時は,まだ古い校舎がたくさん残っていましたし,校庭も今よりずっと狭いでした。今の西門近くに電気科の実習室,変電室がありましたし,第三棟のあたりには家庭科の和裁室,そして機械科の実習室のあたりに,農業科のふ卵室,教室等。当時の建物で今でも残っているのは第一棟と第二体育館だけのようです。昭和四十(1965)年当初は建物の建築の連続で,毎年のように工事,工事で,騒音の中での授業でした。またこの間,科の改廃も目まぐるしくありました。特に実業系の学科は産業構造に合わせて(※4),高校教育を見直してゆく教育制度の影響を受けて,その波をもろに被った地方校の悲哀とも言えます。(中略)

 就学児童生徒数の減少により,頴娃高校の生徒数も,最も多かった頃の千二百名から現在は約半数になっておりますが,生徒の気質にも変化が見られます。二十年前は,粗野ではあるが元気で,活気がありました。(中略)

 振り返ってみますと,生徒が何かをしようと,活発に行動していた時代は学校の雰囲気もいきいきしていたようです。そんな思い出を二,三あげてみたいと思います。

 私が赴任した当時,指宿枕崎線が西頴娃駅まで開通したばかりで,今和泉,指宿,山川,開聞方面の生徒はほとんど列車通学でした。客車も一輌か二輌で,すし詰めもいいところでした。ところが生徒達は「シート上げ運動」を行って,座席をあげて中まで詰めました。皆立ちっぱなしの通学でしたが,誰も文句を言う者はいません。また車内では三年生が率先して本をひろげ,下級生の指導もしていました。学年毎の乗車区分もありませんので,勉強なども教えたりして,上級生と下級生の中もよく,つながりも強かったようです。

 生徒手帳にのっている「交通安全宣言」(※5)がなされたのは昭和四十一(1966)年で,当時の生徒会が会長の本門君を中心に全生徒に呼びかけて,運動をおこし,執行部や交通委員が先進校の訪問,他校との情報交換等,こまめに走り回り,代議員会,交通委員会を頻繁に持って,宣言にこぎつけたわけです。準備に一年位かかったと思います。確か,公立高校では県下で初めてだったと記憶しています。この運動のきかっけは当時バイクが急に流行しだして,この前の年,生徒の交通事故が七件位発生し,この中には他人に大怪我をさせたものも含まれていました。それで事故撲滅を目指して,生徒会が立ち上がったのです。宣言してから何年かは事故,違反とも激減しました。交通安全が叫ばれますが,生徒一人一人が自分の事として真剣に考えなければ目的は達せられないと思います。

 もう一つの思い出が「長髪問題」です。それまで生徒総会でたびたび要求が出されていた長髪許可の問題を,昭和四十六(1971)年に坂元君等の生徒会執行部が積極的に取り上げ,どうしたら学校の許可が貰えるかと,代議員会,風紀委員会を何回も開き,案を作って,学校側と話し合いを繰り返しながら,ついに「長髪自由規制」を作り上げて,長髪の許可を得たものです。これも半年以上かけて成し遂げたもので,彼等の粘りと努力のたまものでした。(後略)

6 あの日,あの頃(寺田幸一氏,昭和38(1963)年4月~昭和43(1968)年3月国語科在職)

(前略)あれは確か二年目だったと思う。土木科の担任として私は初めてクラスを受け持った。二学期か三学期か定かではないがロングホームルームの時に「空手部をつくってほしい」という生徒たちからの要望があった。私自身学生時代空手道を通して青春を模索した体験もあり,早速,久保校長に相談にいった。しかし「空手は危ないし,後々の指導者にも困る。他にポピュラーなスポーツは知らないか」と言われた。そこで「サッカーなら少々」と申し出たところ,「それがいい」ということになり,サッカー部が誕生することになったのである。

 当初は同好会という形でスタートし,昭和四十(1965)年四月から部として発足。当時,サッカー部のある高校は薩摩半島では頴娃一校だけであった。(中略。基礎練習の々,高取浜での走り込みや一年目の失敗談などを記されている。)創部二年目の夏にはベスト4入り。続いて昭和四十二年(1967)秋の全国高校サッカー選手権鹿児島大会の準決勝では鹿商を倒し,見事に決勝進出を成し遂げた。優勝戦では鹿実に0-1で惜敗したものの,堂々たるゲーム内容であった。技術的にはもう一歩だったが,グラウンドいっぱい走りまくり,「負けてたまるか!」というすさまじきファイティングスピリットを持った頴娃イレブンの活躍はすばらしかった。(中略)更に嬉しかったことは,伝統校の鹿商と公式戦で二度対戦して二勝したことである。当時のサッカー専門誌に「頴娃高校の台頭」という記事を掲載されるなど,サッカー部(※6)創成期の頴娃の選手たちの頑張りは目を見張るものがあった。(後略)

※1 乾繭倉庫

 養蚕・製糸業は近代日本の輸出産業の中心であった。この倉庫の工事竣工は昭和6(1931)年,頴娃高校前身の頴娃村立高等公民学校創立の年である。倉庫は3階建て約1,993平方メートル(うち乾燥倉庫約505平方メートル)だった。この「乾繭組合の集繭所」が高等公民学校開校式場となる(第2回の2,多田初代校長「開校当時の思い出」参照)。

 乾繭倉庫前に建てられていた「乾繭倉庫設立記念碑」(当時の山内廣助組合長書)は,現在,正門から入って左側にある「亡師亡友の碑」の奥,国道沿いの体育館側に遺されている。『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年)には,国・県の乾繭(かんきん)取引奨励策を背景に,頴娃村の関係者が村会の援助を受け,三俣の地に「揖宿郡を一円とする鹿児島県南薩東部乾繭共同組合販売利用組合」を設立,主務省の認可を得て施設完了に至ったとの,碑文の内容が記録されている。なお,頴娃町の養蚕は,昭和四十(1965)年頃に姿を消したという。

 頴娃の三俣商店街は,高等公民学校創立,南薩東部乾繭倉庫の開設を機に周辺集落の人々の移住により開発された。本校の発展,交通機関の充実,町役場や銀行の移転などにより発展した。

           (参考文献 『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年),『頴娃町商工業史』(頴娃町商工会発行,1990年))

※2 アメリカ軍政下

 武政治第6代校長の「回顧」(『同窓会誌 創立30周年記念号』(1960年)所収)の中に,戦後の就職開拓の苦労談(第3回記載の5参照)とともに「就職斡旋の旅費もなかった。折角PTAの就職運動費として工業課程の生徒から一人当り月30円宛集めようという議決も,このことが軍政官の耳に誤り伝えられ,私は自宅からジープで鹿児島まで連行されるという破目になった。然し実情を説明するとよく了解されかえって激励された。この結末は,県立学校の就職斡旋旅費は県が支出すべきであるということになり(後略)」とある。

 牛垣卓郎氏(昭和23(1948)年4月から同37(1962)年3月社会科在職)の書かれた「青春の譜」(『創立五十周年記念誌』(1981年)所収)中には「軍政官ストッカー氏の学校訪問。戦後の民主教育をすすめるために鹿児島に進駐していたストッカー(数学の教師)が調査のため来校するということで緊張したのは父兄への寄付行為が問題となった時である。高校のスタートにあたって教育条件の整備に力を注いでいたPTAの発議が誤解されて投書されたからである。武政治校長,中村一平会長の熱意と誠意を知った軍政官は労をねぎらい激励のうえ引揚げていった。」と記されている。

※3 野球部はアメリカにいる在留邦人からの寄贈

 ※2に取り上げた牛垣卓郎氏「青春の譜」中,スポーツ関係について触れた箇所に野球部草創期のエピソードがあるので以下抜粋する。

 「山村暢洋(東大へ進学,注・昭和25(1950)年普通科卒),長野昭夫(教育大へ進学,注・同27年普通科卒)らは同好の者を集めて野球チームを結成したが,道具が手に入らなかったので思いあまって私は在米頴娃村人会(ロサンゼルス)に寄贈を依頼した。数ヶ月後岡村さん(大川出身)から「汗を流して稼いだ1日2ドルから4ドルの日給から割いて故国の子弟のため皆んなが協力してくれた。大事に使ってほしい」との手紙と真新しい野球道具一式が送られてきた。この時の歓び感激は現在でも忘れられない。一回りも二回りも大きなプロテクター,レガース,グローブで大笑いになった。これが野球部のはじまりである。」(以下,女子ソフト部やボクシングの活躍を記載されている。)

 この時期を経た野球部について,川平睦氏(昭和40(1965)年建築科卒)は,3年生引退後レギュラーポジションをかけた,1・2年生による「野球で始まり野球で終わったと言っても言い過ぎではなかった」夏休みの練習について「野球部の思い出」を寄稿されている(『創立四十周年記念誌』(1971年)所収)。

※4 高度成長期,1950年代後半から1970年始めにかけて,産業構造や国民の生活水準が大きく変化した。この時期の資本と労働の投入増加を産業別に見て,「第1次産業より非第1次産業の方が,資本ストックと労働投入の増加率はともに高」かったことが指摘されている。また,第一次世界大戦(1914-18年)から現代までの,日本のサービス経済化については3つの局面があり,1920年頃から70年代初めまでは「工業化の進展と並行してサービス業のシェアも拡大した時期」で「産業構造変化の表舞台は製造業であり,その背後で緩やかにサービス経済化が進行した」と指摘されている。

      (参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5現代1 日中戦争期から高度成長(1937-1972)』(岩波書店,2018年)

※5 東門から入って右側に,頴娃高等学校生徒会による交通安全宣言が掲げられている。

     交通安全宣言

     宣言

       私たちはよりよき社会を築くため 交通事故の絶滅を計り 交通道徳を守ることを誓います

       遵守事項

       一 無免許運転はしません

       一 免許取得者は交通法規を厳守します

       一 自転車は必ず一列進行を実行します

       一 歩行者は必ず右側通行を実行します

       一 踏み切り及び横断歩道では安全を確認し敏速に渡ります

            鹿児島県立頴娃高等学校生徒会

※6 サッカー部の活躍について,長嶺一夫氏(昭和44(1969)年4月から49(1974)年3月,保健体育科在職)の「頴娃高校サッカーは私の青春」(『創立六十周年記念誌』所収)を以下に記載する。

 「揖宿地区は,高校は四校(注・指宿,指宿商業,頴娃,山川高校)しかないがどの学校も県大会では優勝する競技をもっており,活気のある地区であった。千三百人近くいる頴娃高校も活発で,放課後はにぎわっていた。どの部も県大会でベスト8以上の成績をあげていた。スポーツと勉強を両立させていたように思う。そんな中で,サッカー部も中心的なクラブであった。指宿や枕崎からの生徒が多かった。高校からサッカーを始める彼らは素直な性格で,練習熱心ですぐ上手になっていった。(中略)「鹿児島市内のチームに技術で負けるなら体力で勝とう」を合言葉で,走ることを中心にした練習だった。夏の合宿では,高取浜に良く行った。生徒はランニングと相撲で足腰を鍛え,(中略)この走るサッカーで,県大会ではほとんどの大会をベスト4まで勝ち進んだ。二回ほど決勝に進み,鹿商に挑戦したがついに優勝はできなかった。鹿商には頴娃高サッカー部を生み育てた寺田先生が監督をされていた。(中略)当時は,鹿児島国体前で,土・日曜はほとんど鹿児島に出て選抜チームの指導をしていたので,頴娃高校の練習を満足に見てやれないのが,悔しかった。そんな留守の時でも部員は私の与えた課題を良くやってくれていた。(中略)監督がいなくても,それほど素直でまじめに練習に取り組む生徒達であった。試合でいつも持てる力を十分発揮してくれていたので,負けた時でも実にさわやかであったように思う。」

 

 次回は,平成12(2000)年度,創立70周年記念誌から主に紹介する予定です。お楽しみに。