公開日 2020年08月11日(Tue)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(7)-
校長 林 匡
今回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に紹介します。
一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。
IV 出典:『創立六周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)
1 学校長式辞(吉崎昭郎第16代校長,昭和63(1988)年4月1日~平成3(1991)年3月31日在職)
(前略)本校は昭和5(1930)年村立頴娃高等公民学校として設立が認可され,翌昭和6(1931)年5月5日第一期生の入学式が挙行されましてから,ちょうど六十年の歳月が流れたのであります。(中略)爾来,時代の変遷とともに,校名変更,分離統合,県立移管,学科の改廃,施設設備の拡充など,幾多の曲折を経て,現在普通科と,機械,電気,設備工業を含む工業科の十八学級,生徒数七百二十六名,常勤教職員六十三名の,南薩における総合高等学校として,堅実な歩みを続けているところであります。
その中で,設備工業科は,鹿児島ではただ一つ,本校にしかない学科で,時代の要請に応えるために,昭和六十一(1986)年度から始まった県の学科再編計画第一号として,建築科の廃止(※1)に伴い新設された学科です。現在建築物の冷暖房・給排水・防災といった設備は,より快適な居住空間・労働環境の追求により,現代社会に欠くことのできないものとなっています。設計・施工からメンテナンスまで,すぐれた技術と知識・経験が要求される設備工業科の分野は,新しいソフト技術として現代社会の大きな需要のある分野となっています。今年は全国設備工業教育研究大会が,去る八月二日三日の両日にわたり,指宿市で開催され,本校がその当番校として大任を果たしたところであります。
現在まで,本校卒業生は一万四千数百名を数えます(中略)この六十周年を記念し,その事業のメインとして,同窓会(※2)を中心にPTAや地域の方々のご協力により,六十周年記念館が建設されました(注・平成2(1990)年3月,専用食堂が取り壊され,同年11月5日にこの記念館が竣工)。すでに在校生はその恩恵に浴しているところですが,誠に感謝に堪えません。(中略)また国道拡幅工事により,正門通りが一新し,学校周辺が整備されたことは誠に有難いことでありました。(後略)
2 頴娃高校が発足した頃(武政治校長,昭和23(1948)年4月1日~昭和26(1951)年3月31日在職)
昭和二十三(1958)年四月一日,戦後の学制改革により,従来の公立中学校が全国一斉に新制高校として発足した。この意義ある日に,私は鹿児島女子専門学校教頭(現在の県立短大)から頴娃高等学校長に転任した。新制の頴娃高校は在来の工業学校に,普通科一学級が加えられた(※3)ものであった。学校は戦災に遭っていたので,その焼跡に急造された木造平屋建の校舎一棟と,焼残りの講堂のみが校庭にポツンと建っていた。生徒数も少なくごく小さな県立全日制高等学校であった。
翌年の昭和二十四(1949)年,近くの今和泉高等学校頴娃教場(※4)が,頴娃村立の定時制高校となり,家政科と共に本校に併置された。二十五(1950)年には県立に移管されたので,県立の全日制高校は急に拡大され総合制高等学校となり,生徒数も増加し,多彩な学園に拡張された。
この頃はまだ我が国が連合軍の占領下にあった時代で(中略)国民の意気も上がらない時代であった。しかし,ここ頴娃高校だけは,施設設備こそ貧弱であったが,新興の気にみち活気溢れるものがあった。
その一は新設の普通科の進学状態である。一学級に満たない生徒数でありながら,地元の鹿児島大学をはじめ,地方の高校からは極めて難関とされていた東京大学や一橋大学・九州大学などに,毎年現役から合格者を輩出した。これは歴史も伝統もない新設の普通科を立派な高校に育てあげようとする先生方の熱意と,希望に燃ゆる生徒達の進取の気性の賜物であった。(中略)
その二は,電気科の卒業生に,商工省より電気事業主任技術第三種の資格が認可されたことである。(中略。この間のことは第3回所収の武氏「回顧」も参照)昭和二十四(1949)年四月,電気事業主任技術資格第三種が認可された。一年がかりで取組んだ念願が達成され,学校は全校をあげて歓喜した。(後略)
3 回想(安田善内第14代校長,昭和54(1979)年12月1日~昭和59(1984)年3月31日在職)
(前略)私は第一回目は昭和二十五(1950)年より八年間お世話になりましたが,私の教師としての初任校でもありました。当時は,全日制に普通科・電気科・土木科,定時制に農業科・家庭科・建築科があり,校舎や設備も極めて粗末なもので,廊下は土間で障子の教室や村時代の遺物の建物で教育が行われたものでした。当時学区制が施行された当初で普通科には優秀な生徒が多く集まり,電気科は県下に鹿児島工高と二校だけというこれまた優秀な生徒が多く,定時制建築科は実技修得に力を入れた教育が行われ各地で実地の建物建造の実習を行うなど,その他の学科を含めて生徒諸君は創立以来のフロンティア精神を受け継ぎ,悪条件を乗り越え自主的に学業に取り組み,教師に対する対応も積極的で打てば響くといった教育ができ(中略)私は八年間で二回普通科の担任をしましたが,生徒の学力啓発のため父兄を説得し先生方の協力を得て,現在の頴娃中附近にあった古い男子寮(※5)に希望者を入れ,夜間補習と生徒達自身による集団ディスカッションの学習をさせたことなどもありました。(中略)
第二回目は学校長として昭和五十四(1979)年十二月の途中から在籍させて頂きました。(中略)在職時代に思い出しますのは,五十周年に遭遇し(中略)盛大な記念行事を挙行する光栄に浴したことです。寄附金も同窓生や地元の方々のご協力で予定以上に集まり,その残金を足掛かりとして六十周年記念事業の同窓会館建設を将来計画したものでした。次に五十四年・五十五年と引き続いて単車による生徒の痛ましい交通事故死を契機に,交通道徳の意識高揚のため職員会・PTA臨時総会・生徒会の決議をへて月一回ノーカーデーを設定し一ケ年実施しました。(中略)
施設設備の充実については,芸術教室棟は前校長からの引継ぎで私の赴任後完成しましたが,新体育館・電気科実習棟の建設,私の最初の在職時代ルース台風災害復旧事業でできた本館第一棟の窓枠サッシ取り替え工事,旧木造図書館(※6)の白蟻被害による取りこわし,それに伴う本館旧社会科教室の図書館への模様替え及び,職員共済住宅の建設など充実に力をそそぎました。新体育館建設は多年の懸案でありましたが旧体育館があるため国庫補助が得られず実現できなかったのですが,当時の岩崎県振興課長に見て頂き,天井の高さが規準より低いことを発見し不適格体育館だという理由で新体育館の建設が実現したものでした。(中略)小工事ではありましたが,単車置場増設の要望があり,工業科の先生方に相談し生徒の実習の応用として師弟同行で一棟を建設しました。費用は県に交渉し材料費としてもらって来ましたが,先生方特に建築科篠原・佐多先生,機械科栄先生及び生徒諸君が大変頑張ってくれました。(後略)
※1 設備工業科と建築科の廃止
昭和61(1986)年4月,建築科の募集停止,設備工業科1学級の募集が行われた。
建築科実習室を設備工業科関係の実習室に所属替を行い,昭和63(1988)年3月には210平方メートルの実習棟(衛生設備実習室)増築もなされた。第26回全国設備工業教育研究会の開催は平成2(1990)年8月である。平成21(2009)年4月,設備工業科の募集停止,同23年3月に閉科式を実施した。設立された時期に在職された外園芳美氏(在職昭和62(1987)年から平成4(1992)年)の「在職時代の回顧」(『創立七十周年記念誌』平成13(2001)年3月発行)から紹介する。
「(前略)赴任当初,第一期生の二年生四十二名と第二期生四十一名の一年生が在籍しており,新設学科ということで,生徒・職員とも大変意気込みがあり,活気に満ちていました。そんな中で建築科の三年生が在学していて,廃科という厳しい状況もあり(中略)時代の流れとはいえ可哀想でなりませんでした。職員室も二学科が混在で建築専門三名,機械専門一名と実習助手の五名で構成されておりました。建築科の生徒は,設備工業科のものに改装されたりして,生徒の気持ちにも複雑なものがあったように思われます。それに代え設備工業科は,建築物の快適な居住空間や労働環境など,近代的なインテリジェントビルの設計・施工からメンテナンスまでのソフト技術を学ぶ学科として,脚光を浴びている時期でもありました。(中略)初めての教育課程に従い,試行錯誤の中,先進校を視察したりしながら,生徒とともに学び合うことも多々ありました。二年目にはビル四階建てに適用できる実習用空調設備や溶接実習室が完成,三年目には給排水,防災設備の実習棟とダクト製作装置・機械加工装置などが導入され,設備工業科実習棟の改装工事が完成,さらに教職員も機械専門三名,電気専門一名,建築専門一名と実習助手一名に充実され,教育内容や施設設備も完成し,専門に関する資格取得にも力を入れ,全員がガス溶接と小型ボイラ取扱を取得,二級ボイラ技士・電気工事士・危険物取扱の各種等に,毎年数名のものが合格するようになりました。(中略)平成二年八月には,北海道から沖縄まで,設備工業科に関する教師や関係者が一同に集まり(中略)全国設備工業教育研究協議会・鹿児島大会を盛大に開催し,名実ともに,全国に頴娃高等学校設備工業科を知らしめ,面目を確立したのではないかと思っています。(後略)」
※2 同窓会
創立40周年記念の回顧座談会(昭和45(1970)年11月4日,『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)所収)において,田畑実幸氏(昭和17(1942)年3月土木科卒,元土木科職員,当時同窓会副会長)によれば,同窓会として形あるものとしては,青年学校関係(電気,土木科を主にした)の同窓会と工業学校関係の同窓会の2つがあり,会長が2人いたこと,30周年記念の時に両同窓会を合わせて,現在の頴娃高等学校同窓会ができたという。(昭和35(1960)年5月5日合併)
※3 普通科のはじめと昭和30年代の頃
普通科のはじめについて,創立40周年記念の回顧座談会から抜粋する。
(1) 牛垣卓郎氏(昭和22(1947)年11月~同37(1962)年3月在職)
「普通科の場合,一期生は入試をやっておらず,指宿中学とか,指宿女学校からの転校生,頴娃工業学校の卒業生などが一年二年に入って来ました。皆,向学心に燃えた人々でした。食糧事情が悪かったので,父兄の方々も自分の足もとで勉強させようという考えがあったものと思います。(中略)生徒たちは張りきっていて,我々教員が引っぱられて行ったといえるほどでした。生徒会,スポーツ,学習,全ての面で自発的であったようです。」
(2) 東正人氏(昭和25(1950)年3月普通科卒,一期生)
「私個人のことを申しますと,終戦当時朝鮮にいまして,釜山中学二年のときに終戦になりました。二学期の十一月に引き揚げてまいりまして,指宿中学に編入したわけです。そこで二年を終えて,頴娃に高校ができるということで,経済的に苦しかった点もあって,頴娃高校普通科の二年に編入しました。普通科は一学級でしたが,二十六名いたと記憶しています。陸士とか予科練とか旧制中学の卒業生といった方々が一緒で,私などがもっともスムースに行った方で最年少だったと思います。(中略)当時,進学熱は高くて,東大にも合格した者があったわけです。とにかく経済面で苦しかった時でしたが,しかし学校だけは出ようというわけで,大学に進んだ人が相当数いたと思います。」
さらに,昭和30(1955)年代はじめまでについて以下掲載する。
(3) 鮫島信一氏(昭和29(1954)年普通科卒)「只今65歳「子育て支援」に頑張ってます」(『創立七十周年記念誌』所収)
「(前略)中学校を卒業したら殆どの同級生が就職する中で,地元の高校に入学を許可された時は天にも昇るうれしさを感じました。担任の中村重義先生は「君たちは世の指導者になるのだから,自覚して勉学に励め」が口癖でした。(中略)普通科は揖宿郡に,指宿,山川,頴娃,と3校もあり,近くに枕崎や薩南高校もあるとの理由で,廃校候補に上げられたとの情報もあり,存続の為には大学合格率を上げるのが一番良いとの立場から教職員一体となって進学指導に心血を注いで頂きました。お陰で同級生の殆どが,希望する大学に入学しました。西郷記念館館長の山田尚二先生は当時大学を卒業したばかりの新米教師でありました。その後先生は県内あちこちの有名高校で教鞭を取られたのですが,「あの頃の君たちのクラスほど進学率を挙げたクラスは,経験出来なかった」と述懐しておられます。我々の成果が効を奏したのか否かは知りませんが,頴娃高校の普通科が今も歴然と存続していることに誇りと感銘を覚えます。」
(4) 田之上司氏(昭和34(1959)年普通科卒)「十数年前の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)
「私の入学した昭和31(1956)年当時の頴娃高校普通科は,A・B二クラスに別れ,Aクラスは男子生徒全員と進学希望の女生徒数人で構成され,Bクラスは残りの女生徒全員で構成されていました。このような状態でしたので,男子生徒すべてに対して,教室と講堂とその周りの掃除が与えられました。
講堂と言いましても,私たちの卒業する年までは,現在建っているようなりっぱな建物ではなく,当時正門をはいってすぐ右側に建っていたぼろぼろの木造の中二階付の建物でした。雨もりはほとんどなかったようですが,床にはいたる所に穴があき,つぎはぎだらけでした。このような所が普通科一年生の受け持ちの掃除区域であったわけですが,先輩方の伝統により床はちり一つなく,しかも黒びかりしていました。(中略)このような講堂でさえ,みがき上げられていることですから,他は言うまでもなく,外部から来られる先生方が靴をはいたまま上るのをちゅうちょするぐらいでした。これが当校の誇りの一つであったのは事実です。
この講堂は,年間儀式一般のことはもちろんのこと,体育館代りの室内競技の場としても使用されていました。その中の一つにクラス対抗の卓球大会がありました。クラス対抗と言いましても優勝戦近くになりますと「科」対抗的な状態になるものでした。すなわち,当時は普通科・電気科・建築科・土木科・農業科・家庭科の六科があり,この中で男生徒の部は家庭科を除いた五科のクラスで競われるわけですが,勉学上は何の共通の場を持たない「科」という障壁を持ったクラスどおしの対抗試合ですので,その競争意識はきわめて強く,周りには同科,相手科の応援団がつめかけ,やじや床をたたいての応援合戦が行われるのが常でした。競技後はもちろん対抗意識は全く消え,常の学友にもどります。
応援合戦と言いますと,それの最高の場は年一回の秋季運動会でした。(中略)年々盛んになり卒業の年には中央の国旗より高い旗ざおを各科競って建て「科」の旗をかかげ,その下で色々趣向をこらして応援合戦がくり広げられました。(後略)」
※4 今和泉高等学校頴娃教場
現在の指宿市立指宿商業高等学校は,昭和23(1948)年に鹿児島県今和泉高等学校として発足し,教場を指宿,喜入,利永,頴娃に置いた。昭和24(1949)年,喜入教場を廃止し,利永教場及び頴娃教場が分離する。この頴娃教場は,頴娃村立青年学校の家具科の後身であった。なお,今和泉高等学校は昭和31(1956)年に指宿市立今和泉中学校(現在の指宿市立西指宿中学校)の敷地と換地し移転し,同32年,現在の校名に改称した。
※5 昭和44(1969)年3月,寄宿舎舎監室や女子寄宿舎(『学校要覧』中の「学校見取図」は昭和43年度まで記載あり)等の取り壊し売却がなされ,同50(1975)年2月,男子寄宿舎の売却がなされた。
※6 旧木造図書館
昭和54(1979)年に普通科を卒業された徳永(上村)みつよ氏「追想-想い出は力へと」(『創立六十周年記念誌』所収)に「図書館は,樹々に囲まれて,いつもその影が延びていた為か,懐かしいようで,少しもの寂しげな印象がある。(中略)『もっと足繁く通い,もっと多くの本を読書していたら』と,今さらながら考えるのも,図書館への想いである。」とある。
旧木造図書館は,昭和38(1963)年度に竣工し,同56(1981)年9月に取り壊された。この旧木造図書館について,丸山喬氏(昭和38(1963)年から同42年在職,国語科)「頴娃高校賛歌のころ」(『創立六十周年記念誌』所収)に,同氏が赴任された二学期「古校舎の廃材を活用しての新図書館の建設が始まったが,私が学校司書の肩書を持っていたため,いろいろと意見を聞かれることが多く,現場へも始終顔を出した。建築科の生徒諸君の実習作業を兼ねての工事なので,作業は超スピードで進み,年内に工事は完了した。私も図書主任として入室することになった。三学期に入り,授業を担当した三年生が卒業すると,毎日のように基本カードを手に書架の本を一冊ずつ照合し,蔵書全部の点検を完了したが,これは私一人のきわめて地味な作業だったので,校長・教頭,司書嬢以外にはほとんど御存じなかったはずである。」と記されている。
次回は,創立60周年記念誌記載の文章を中心に,部活動のことなど生徒の活動なども取り上げる予定です。どうぞお楽しみに。