公開日 2020年08月05日(Wed)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(4)-
校長 林 匡
今回は,50年(半世紀)前の創立40周年記念誌から紹介します。一部抜粋になること,表記についてなどは,前回同様です。
II 出典:『創立四十周年記念誌』(昭和46(1971)年3月発行)
1 式辞(上妻芳助第10代校長,昭和42(1967)年4月1日~昭和46(1971)年3月31日在職)
(前略)県立頴娃高等学校は県立頴娃工業学校を母胎にして生まれ,高校としても既に二十三年の歴史をもち,この間にさえ複雑な変遷を経て来たのでありますがこの基になった県立頴娃工業学校は前身を村立頴娃工業学校に,更に村立頴娃青年学校,村立頴娃高等公民学校と遡るのであります。高等公民学校の創立は昭和六(1931)年であり,その第一期生の入学式の行われた五月五日を以て私どもは創立記念日といたしております。
高等公民学校を創立された時の村長樋渡護広先生は陸軍大学校を出て駐英大使館付武官をされた方でありますので,恐らく世界的視野の中で学校創設を企画されたのではなかろうかと推察いたされます。また当時の頴娃村は電気事業も経営されていて,それとの関連において公民学校に電気科・土木科を設置された(※1)もののようで,今のことばで言えば「産学協同」の実践であったと思われます。
ひるがえって本県における旧制中学校の設立を眺めますに,既に古く明治二十七(1894)年には一中が開設され,明治の末期には県立中学校は六校を数え,指導者層の育成に大きな役割を果たしております。がまだ実業の教育までには及んでおりません。
私どもの学校はそれらに比べて時代ははるかに下りますけれども創立の基を職能教育,実学においております。そして創立以来歴代の校長先生の苦心のご経営と多くの先生方野生との皆さんのご努力の結果が今日の発展を招き,現在では生徒数千二百余名,教職員数九十一名,卒業生八千四百余名を擁し,物的施設設備もまた充実するに至りました。これひとえに県ご当局の温かいご指導と地域内各界のご支援によるものでありまして,ここに衷心より厚くお礼申し上げます。
由来,頴娃の地は水に乏しいとされ,学校も創立以来高校発足の当初まで用水の確保には非常に難儀をして来た(※2)のでありますが科学の発達と技術の進歩は,この地に一日二千トンを超える湧水を掘り当て,四百トンに余る清水を満々と湛えるプールがつい先日完成いたしました(※3)。この一時は時代の進運と頴娃高校の発展を端的に象徴するものと信じます。(中略)
私どもは今日の記念日を機会に,人間にとって幸福とは何であるか,また我が校の伝統的精神である開拓精神を今の世に生かすにはどうしたらよいかを深く考えてみたいものであります。そして覚悟を新たにして頴娃高校の一層の発展を図りたいと存じます。(後略)
2 思い出すことなど(豊満ユキエ氏,昭和23(1948)年6月23日~昭和51(1976)年3月31日養護教諭として在職)
本校創立の昭和六(1931)年と申しますと,私は頴娃村立実科高等女学校(※4)一年生で,四月には二年生に進学する年でありましたが,女学校はその年の三月で廃校となり,新たに村立の公民学校が創立されることになることを聞かされ,何とも言えない情けない気持ちになったことを思いおこさずにはおられません。
転校出来ない者は来年の三月まで勉強を続けさせる,卒業だけはさせると言うことでしたが,私は,鹿児島の学校に転校しました。(中略。満洲から昭和21(1946)年に引き上げられたことなど記載。注・『創立六十周年記念誌』(1991年発行)の同氏「思い出」によれば鹿児島産婆看護学校に進学され,その後満洲から引き揚げ後,昭和22(1947)年9月から別府中学校に奉職され,翌年に頴娃工業学校が頴娃高等学校になった時に本校に勤められたとある。)本校に奉職することになろうとは,神ならぬ身の知る由もありませんでした。その赴任の日の私は,モンペ姿に運動靴で朝礼台に立って,挨拶をしたのですが,この時の格好は,ちょっと想像もつかないでしょう。その頃の生徒の皆さんも,わらぞうり,または下駄をはいていたものでしたが,中には,はだしの生徒も多数まじっていたことを思い出します。
当時は通学もたいへんで,川尻(※5)から毎日はだしで本を読みながら通学し,それを卒業まで通して,卒業式には表彰を受けた生徒もいたように記憶しています。(中略)その当時の本校は,下のグラウンドもせまく,運動会等も,今の第一本館と第二本館のあたりを使用していました。また下のグラウンドの北側では薩摩芋を植えたり,今の体育館(注・現在の正門右側駐車場の場所にあった屋内運動場)あたりは高台になっていましたが,そこでは野菜などを作っていたものです。その頃は今のように経済事情もよくありませんでしたので,資金カンパのため,いろんな労力奉仕もしました。
池田湖近くの烏帽子岳に,全校生徒職員で杉の木を植えに行ったり,また,示山(※6)に木材の引き出し作業のため,一晩泊りででかけたりしたものです。また二十六(1951)年のルース台風では,本校もひどい被害を受けました(※7)が,その後片づけに,汗水たらして頑張った生徒さんの姿が思い浮かんでまいります。
卒業前の奉仕作業(※8)は,その頃から毎年続けられていますが,このような苦しい時代の先輩の努力が,今の本校の発展を,もたらした基になったものだと思います。
楽しかった思い出も沢山ありますが,中でも毎年の行事として農業科の謝恩会が施行されるたびに私も呼ばれて,家庭科(※9)の皆さんの手作りで,ぶたとじゃがいも,こんにゃく等のおにしめや,おすし等をおいしく戴きながら,思い出話に花を咲かせたことも忘れえぬ思い出となっております。(後略)
※1 当時の頴娃村は電気事業も経営
頴娃町内を流れる高取川は,吉見山の南斜面の湧き水を水源として,河道流域の出水を集め豊かな水量を保つ。高さ18mの伊瀬知滝を流れ落ちて南流し,高取下で河道を大きく西に変えて馬渡川に合流。江戸時代から用水が造られ新田の灌漑用水となっている。大正9(1920)年に伊瀬知滝の水力を利用して薩南水電株式会社の発電所が建設されたが,昭和18(1943)年,九州配電会社に統合されて廃止された。(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版,頴娃町,1990年)
また『創立六十周年記念誌』(1991年3月発行)に転載された,昭和53(1978)年4月「わが青春の母校・青春有情」(鹿児島新報社)の中には「樋渡(注・頴娃村立高等公民学校創立に当たった当時の頴娃村長)はまた知覧の麓川発電を買収して,村営の「薩南水電株式会社」をつくり,全戸もれなく配線してランプ生活を追放した。発電所は電気科の技能教育に大いに役立った。日本広しと言えども発電所を持っていた学校は頴娃だけではなかろうか。学校に実習の設備が乏しかったため,電気科の生徒は夏休みになると自転車のペダルを踏んで,十二【機種依存文字】の山道を越え,知覧の発電所に出かけ,一週間から十日間泊まり込んで実習した。頴娃町上別府の里中新吉は電気科の一回卒(昭和8(1933)年)。「実習で鍛えられたので卒業と同時に日本水電に入社したが,おかげで困るようなことはなかった」という。卒業生の評判はどこの職場でもよかった。」と記載されている。井上政己氏(昭和8年土木科卒)も「電気科は村営の発電所で,土木科は辺木園先生や村土木課で測量をみっちり仕込まれた。県土木課出張員の手先にもなって技術をみがいた。」と記している(『創立四十周年記念誌』所収「胸像・村長と校長と学生」)。
薩南水電に関して,平成11(1999)年から同18(2006)年度に在職された福永勇二氏は,3年担任の時に「頴娃高校の電気科は鹿児島県で最も古い伝統を誇り,設立には頴娃村(現・南九州市)伊瀬知にあったといわれる水力発電所が大きく関わっている。これを調査して,ホームページにまとめて情報発信してみないか!」と,課題研究のテーマ設定の一つとして生徒に呼びかけ,これに3名の生徒が興味を持ち,発電所跡地の探索などを経て素晴らしい調査研究結果のページが作成されたことを記されている(『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。
※2 創立以来高校発足の当初まで用水の確保には非常に難儀
昭和6(1931)年から同23(1948)年まで在職された貴島テル氏「創立の頃の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)には「その頃の悩みの種は何と云っても水の無いことであった。料理の実習ともなると水汲当番は朝早くから汲んで教室の後ろに用意しておく心がけのよさ。可哀想なのは暑い盛り埃の立つグラウンドで教練を終り汗まみれになって我先にと水のみにかけ込んでくる男生徒が,からっぽになった水瓶をうらめしそうに見ながら小使室から出て行く姿はあわれであった。」とある。
現在,校内に行幸記念水道碑が残る(第1回注9参照)。「昭和10(1935)年秋には畏(かしこ)くも御使御差遣の光栄に浴し,記念事業として水道が布設され,水不足の学園も至る処に清水がカックより湧き」(松永友義氏「30周年を顧みて」『同窓会誌 30周年記念号』1960年12月発行)とみえるが,この時もやはり水での苦労は続いていた。先の貴島氏の文を続ける。
「やがて新しい校舎も次々と建ち,学校運営も軌道に乗ると村外からの入学志願者も多く,県内は勿論県外からの参観者もひんぱんに訪れ遂には勅使御差遣と云う大変なお客様をお迎えするまでになった。しかし当時三俣には旅館も食堂もなく,校内での宴会は絶対禁止されてはいたが,来客の昼食接待などは引受けねばならなかった。その度に女生徒は水桶をかついで水之元に走」たとある。その後,「水の問題も飯山部落の自然湧水を水源とする簡易水道が,戦死された辺木園先生と土木科の生徒のなみなみならぬ苦心と努力によって完成し,始めて水道の蛇口から水が出た瞬間の歓声。水に苦労した者のみの知るよろこびの叫びでもあった。」と記されている。
土木科の辺木園氏と生徒の活躍に関して『創立六十周年記念誌』に転載された「わが青春の母校・青春有情」(鹿児島新報社)によれば「学校で一番の悩みは水の問題だった。学校には水道も井戸もなかった。(中略)多田校長は後援会長の鶴留盛衛村会議員と相談,水道施設をつくってくれるよう村長にたのんだ。だが,村政が苦しいのでとてもそんな財源はないという返事。思い余った多田は材料代だけなんとかしてくれたら,学校で水道工事を引受けるからともちかけ,農工銀行から一万八千円を引き出すことに成功した。飯山部落に水源を見つけ,早速工事用のエタニットパイプを購入,土木科担任の辺木園保が工事の設計,監督にあたり,土木科の生徒が学校の裁縫室に泊まり込み,昼間は野外作業,夜は図面書きと昼夜兼行の工事が進められた。」とある。
この作業と図面書きは,新吉義則氏(昭和11(1936)年土木課卒)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』所収)による。「当時の学校は水が乏しく,飲用は中村部落のもらい水,用水はタンクの雨水であった。飯山の川から取水して水道を敷設する事となり,その測量・設計を土木二年の者が学校に泊まりこみ,昼間は野外作業をし,夜は図面を書いたのですが,その内業が終らぬ内に夜が明けることもあった。当番制で家事室で炊飯し,弁当持ちで出かけていた」と記述されている。
ただ以後も,水の確保には相当難儀されたことが分かる。野添ヲサワ氏(昭和12(1937)年家政科卒,同23(1948)年4月から同56(1981)年3月まで用務員として在職)の「思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)には「昭和十五年(1940)頃水道は敷設されてはいたものの,(昭和23年頃は)くる日も断水,また断水,生徒数は今の半数ぐらい(注・昭和45年度の生徒数は,『学校要覧』によれば普通科437人,機械科287人,電気科246人,建築科119人,土木科123人の計1,212人)だったと思います。約600名の飲料水を確保するのに,松虫のジイジイなく真夏の太陽をあびながら額の汗を拭き拭き部落の方々と列をなしての中村までの水汲み,(中略)私共の水タンゴをになった姿を見るや水桶をとりまき,われ先にとひしゃくをうばい合う生徒の輪,十分間の休みに見る見るうちに水桶はからっぽ。そのつどため息が出る始末。(中略)それから七年,昭和三十(1955)年頃だったと思います。第二水道工事がはじまり,水汲みからやっと解放された時の気持,書きますときりがありません。」と当時の苦労が記されている。なお,汲んできた水は,旧軍隊から払い下げられた十石入りの大きな瓶だったと,野沢氏は回顧座談会で話されている。
薩南台地は,四万十層や第三紀安山岩類を基盤に,阿多火砕流を主体とした溶結凝灰岩の台地で,姶良カルデラの入戸火砕流がシラス層を形成する。諸火山の活動で,火山灰や火山礫が風積して台地を覆っているが,頴娃町域を広く覆う土壌は,開聞岳の噴火による黒色火山灰(クロボク)とコラ層である。コラ層は透水性がなく,植物の毛根の発育を阻害する不良土壌のため,昭和27(1952)年から特殊土壌法の適用を受けて土地改良事業(コラ排除)が行われた。
旧頴娃町内には複数の河川があるが,水の確保は課題であった。江戸時代以降,灌漑用水路も開かれてはいたが例えば,示山から石垣浜まで全長9,500mの石垣川は,河川だが,途中から潜流となり谷壁の深い涸れ川となっているため,かつて周辺集落の人は,涸谷に堰を築いて水たまりを造り,雨水をためて日用水としていた。「水がなくては農業の近代化は考えられないという願いから,昭和45(1970)年,指宿市・山川町・開聞町を含めた6,072㏊の畑地灌漑事業が,国営・県営事業として始められた。集川・高取川・馬渡川の河水を自然流下によって池田湖に誘水し,池田湖を調整池として揚水して,各市町のファームポンド(農業用ため池)に導水するものである。」(『頴娃町郷土誌』改訂版,頴娃町,1990年)とあるように,生活・産業の上で必要な土壌改良や用水確保が進められて現在に至る。
※3 プール建設,40周年事業
創立40周年事業として樋渡村長・多田校長胸像の移築,庭園造成とプール建設がなされた(第1回注6参照)。なおこの他に,元PTA会長祝迫敏男氏など関係者の尽力により,歴代校長写真9枚が校長室に掲げられている(『創立四十周年記念誌』)。
※4 頴娃村立実科高等女学校
昭和6(1931)年当時,「女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室とを借りて勉強していました。」(『創立四十周年記念誌』所収「回顧座談会」豊満ユキエ氏)とあるように,この女学校は大正12(1923)年5月,頴娃小学校に併置されていた。頴娃小学校は昭和6年に公民学校に統一される。
※5 西頴娃駅まで国鉄が延伸されたのは昭和35(1960)年である(第3回注4参照)。遠隔地からの登校について,例えば『創立五十周年記念誌』(1981年発行)に寄稿された福留善秀氏(昭和34(1959)年建築科卒,同37(1962)年から同54(1979)年在職)は「昭和31(1956)年頃指宿枕崎線は山川駅迄でしたので,身動きもできないほどすしづめにされ,舗装でもない凸凹の路面を南鉄,国鉄バスで通学するのはまだ良い方でした。遠くは指宿池田,川尻徳光,知覧青戸方面から,炎天下に石コロの坂道をオンボロの自転車を押しながら又,雨の日ハンドルをとられて転倒したり,カーブの多い下り坂で土手に突こんだりしながらの通学は忘れられない思い出でもある。」と記されている。
また,それ以前の状況について,例えば昭和24(1949)4月に入学された浜島幸盛氏(普通科三回卒。昭和42(1967)年から同44年度数学科在職)によれば,「大学進学を目標に,片道十五粁(km)余りを毎日先輩や,友人達と自転車で通学しました。雨の日も風の日も,瀬平の七曲では曲芸をやり,時には自動車と競争し,真夏の下校時には道路わきの木陰に休み,アイスキャンデー売りを待ったり,秋の天気の良い時には,四時頃から開聞岳に挑戦したり,楽しく通学したものでした。道路も,今のように整備されておらず,考えてみれば通学だけでも大変だったろうと,もし今だったらと思うくらいです。しかし(中略)先輩や同級生の中には,開聞からはもちろん,川尻からも教科書を片手にひろげ,勉強しながら徒歩で通学する人が何人もありました。先輩の中には,クラブ活動をやりながら,現役で東大・京大・九大に合格し,後輩達は,さらにいろいろな方面に進んでいったようです。」と記されている。
※6 示山
標高460m,頴娃町北に位置し薩南山地の一部を形成。昭和44年3月,示山から指宿市大迫まで千貫平など尾根伝いに指宿スカイラインが開通した。
※7 ルース台風被害
10月14日にあったこの台風被害については,周年記念誌に度々記載されている。例えば,『創立五十周年記念誌』所収の牛垣卓郎氏(昭和22(1947)年から同36(1961)度年在職)「青春の譜」には「われわれの眼前で工業科の校舎を吹き倒し,実験室,本館の屋根を吹き飛ばす猛威をふるって去っていった。浜田校長は職場開拓のため上京不在中の出来事であった。翌日から全校あげての復旧作業に汗を流す日が続いた。(中略)PTAは資金づくりとして「カライモ」を集めた。そして県内でも珍しい鉄筋二階建ての白亜の殿堂(現在の本館)が実現したのである。本館にアクセントをつけるため村田教頭は山水の池を設計し自らスコップを握って作業を進めた。」と記す。同氏の回顧談(『創立四十周年記念誌』)には「一部地元負担ということで,PTAも甘藷を出し合ったりして協力して下さいました。県下でも戦後鉄筋が作られたのは,佐多の小学校に次いで二番目ではなかったかと思います。」とある。災害復旧工事でこの本館が完工したのは昭和28(1953)年10月だった。
当時のことについて,浜田彬甫第7代校長(昭和26(1951)年4月1日~同32(1957)年3月31日在職)は「職場開拓のため,九州の官庁,会社歴訪中ルース台風の被害を熊本放送局で聞き,急いで帰途についたのですが,鉄道,道路の破損で3日後帰校出来ました。無残に倒壊した2棟の教室,半壊した電気実験室,現在の電気実験室,農業科教室,寄宿舎,校内住宅等その他全棟の屋根の大被害には目を蔽(おお)いたく茫然自失の策無きを嘆きましたが(中略。関係者の善後策等記載)校舎の被害後片づけ,応急修理は生徒職員の手で2日間で終え,翌日から正規の授業に復し得たことは感謝であり,又幸甚」と述べ,以下鉄筋校舎新築の運動を記載されている。
※8 卒業前の奉仕作業
久保政司第9代校長(昭和37(1962)年4月1日~同42(1967)年3月31日在職)の「高校急増期五ヶ年間の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)に「毎年卒業生諸君が,卒業記念の奉仕作業で整備してくれたものがあります。校門の移動と旧校門跡地の造園。前庭の芝生庭園の造成。運動場の樟並木植栽。東校門の改造等でありました。卒業間近の二月,生徒と教師が一緒になってよく動いてくれました。」とある。
この東門について,小原争時氏(昭和34(1959)年土木科卒,同36(1961)年から47(1971)年在職)は「先生方の指揮の元,東門工事の施行実習は,大きな思い出である。今思い返すと,後輩達は寒い中良くやったものだと心が熱くなる。」と記している(『創立七十周年記念誌』平成13(2001)年3月発行)。
※9 定時制家庭科
村立頴娃高等家政学校は,昭和24(1949)年4月,村立定時制高等学校別科とされ,同25年4月,県立に移管された。昭和31(1956)年4月,定時制本科前期課程となり,女子教育での実績を重ねたが,同36(1961)年4月,定時制農業科とともに募集停止となる。昭和37年3月までの定時制家庭科卒業生は533名。
なお,家政学校卒業生は昭和24年3月までで1,295名。昭和18(1943)年3月卒業の第2回生福吉ツギ子氏が『創立五十周年記念誌』に「思い出の記」として,戦時中の興亜奉公日(5月1日)や農作業,労働奉仕日,毎月8日の代用食の日のことなどを記されている。
次回は,創立40周年記念誌などから,上記の家庭科をはじめ,かつての定時制農業科,建築科のことなどを紹介する予定です。お楽しみに。