公開日 2020年08月04日(Tue)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)-
校長 林 匡
今回は,創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次,第5代久木田実,第6代武政治先生の回顧録を紹介します。アジア太平洋戦争直後の困難な状況,関係者の方々の苦労や熱意などが伝わります。
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
3 頴娃工業時代の思い出(榎田栄次校長,昭和21(1946)年1月31日~昭和22(1947)年3月30日在職)
(前略)私は昭和21(1946)年1月末で頴娃工業学校長(※1)として赴任を命ぜられたのですが(中略)赴任してみると教室は戦災で焼け土台のみ,乾蚕倉庫だった3階の建築は白蟻の巣,台風で瓦はふきとばされ青天井の見える講堂を区切って仮の教室,隣りの講義が聞こえて生徒も大迷惑だった筈,職員室は3階建物付属の廊下(※2),全く惨憺たるものです。そのような惨状のもとに生徒諸君は何か知ら戦後の不安を感じつつ勉強したものです。しかし復興は急がねばなりません。
仮の校舎を建てるため頴娃町(※3)から間伐材を貰い受け数里の山奥まで全員切り出しに行って平木を作ってかついで来たこともある。食糧増産にため藷作りもやった。焼校舎の土台のあい間あい間に南瓜を作ったのもその頃である。そのように働きつつ学ぶという学校の姿も悪いものではないと考えます。(中略)あの時代の頴娃工業の先生は本当によく協力してくれました。ただ校舎も校具もないあの時代は学校の一致結束のみでその苦難を切り抜ける以外に途はないのですから仕方ないようなものの私常に感謝するのみでした。(後略)
4 思い出(久木田実校長,昭和22(1947)年3月31日~昭和23(1948)年3月31日在職)
私は昭和21(1946)年4月頴娃工業学校に転任を命ぜられ,終戦直後のこんとんたる世相の中を家族は加治木に残して(中略)加治木駅から汽車に乗った。山川駅(※4)につくと人々が一生懸命走るので自分も走ってみると,トラックは既に満員,仕方がないので次のトラックを待ちようやく乗車,荒むしろを敷いた木炭車で上り坂になると,乗客はみな降りてトラックの後押しをせねばならぬボロ自動車で,お客か人夫かわからないような仕事を何回かくり返し,ようやく頴娃に着いた。終戦の年の秋,薩摩半島に上陸した台風の被害は余りにも甚大で,その復旧作業は殆んど出来ておらず,倒壊家屋の残骸がいたる所に転がっていた。
牧の内の頴娃工業学校に着いてみると,ここも同様で校舎は空襲と台風のため,見るかげもなく,職員室は建物の横に取り付けた,さしかけ屋根で,硝子窓もなく吹き通しで,その中に板の長腰掛に十数人の職員が雑居しているという状態であった。生徒は頴娃を中心として近隣の町村から集まり,純朴で非常に元気のある生徒たちばかりでたのもしい限りであった。(中略)榎田校長を中心として授業の傍ら倒壊校舎の片付けや,バラック校舎の新築等目まぐるしいうちに一年が過ぎ,昭和22(1947)年4月,新制中学校発足(※5)に伴い,榎田校長は川内北中学校に転任され,私がその後任校長を命ぜられて責任の重さを感じた次第であった。(中略)愈々(いよいよ)校舎本建築の計画が進み(中略)焼失校舎の基礎の上にそのまま新築され,竣工式も無事終わったと思う間もなく,今度は昭和23(1948)年4月から新制高等学校として発足することになり,高校設立準備の仕事が始まった。
(中略)工業学校と女学校を統合して全日制とし,青年学校を定時制とする新制高校を設立し,設置学科としては普通科,電気,土木科の外に家庭科,農業科を置くこととに村当局とも意見の一致を得て着々と準備を進めていたが,県の設置科に対する方針が変更になり,普通科の外に実業科は二科しか設置出来ないことになった。
村当局は土木科を廃止して農業科を設置したいとの希望であった。(中略)私は終戦後のわが国の復旧や,その他の面から考え,どうしても土木科は設置すべきである,今ここで土木科を廃止したら土木科の備品は他の同科設置校に保管転換となり,将来再び本校に土木科を設置することは困難であることを思い,万難を排して土木科存置を主張し(中略)県における最終審議の結果,全日制には普通科,電気,土木科をおき,青年学校の設置科を定時制とし,農業科は必要ならば後日設置することに決定した時は中村後援会長と手を取り合って喜んだ。そして愈々昭和23(1948)年4月から鹿児島県立頴娃高等学校として開校することになり(※6),ここに画期的学制改革が行われることになった。(後略)
5 回顧(武政治校長,昭和23(1948)年4月1日~昭和26(1951)年3月31日在職)
(前略)当時の憶い出として,最も印象に残っていることは,卒業生の職場開拓と,電気主任技術者第三種免状を獲得した運動である。
現今では電気主任技術者の資格は国家資格に合格しなければ得られないが,当時は商工省(※7)の指定学校であり,我が頴娃工業の卒業生には資格が認められていなかった。この不合理は就職に大きなハンディキャップとなっていたので,何とかして指定学校に昇格させねばならないと思った。色々苦心をし(※8),鹿児島工業に協力を求めて1年がかりで目的を達成し,(中略)盛大に祝賀大運動会を催したものだった。
当時の職員,生徒は校舎こそ貧弱であったが,協力一致しよく働らき,よく勉強し,真に学校が一丸となって向上の意気に燃えていた。(中略)現役から毎年東大や一橋大などに合格者を出したことも,本人の素質のよさもさることながら,やはり学校の意気が旺んであったことにもよると思う。
又,本校の前身である高等公民学校や,頴娃工業の卒業生は戦時中に巣立ったために,その大部分が満洲に就職したものである。従って内地に同窓生の地盤を全くもっていない。それらの関係から北九州,阪神,京浜工業地帯への就職開拓には並々ならぬ苦労があった。頴娃高校に工業課程があることをほとんどの会社が知らない,それよりも頴娃という字をそのまま読める人事課長が一人もいなかったのである。殊に朝鮮戦争前までは,我が国の会社工場は殆ど戦災で壊滅に瀕したまま虚脱状態にあって,復員者の受入れもままならず,新規採用など全く考えてもいなかった時代であった。大阪の桜島にある住友電気で断られ,あの巨大な工場の残骸を見ながら日立造船所に向って炎天下をトボトボと歩いて行ったことを思うと,昨今の工業界の好況(※9)と思い合わせ全く隔世の感がする。
就職斡旋の旅費もなかった。(中略)三週間の就職運動日程に,村当局に融資してもらった2万円を懐にして出かけていったが,宿費が足りなく駅のベンチを野宿みたいにして歩き廻ったことを憶い出す。北九州,阪神をまわって漸く東京までたどりつき,当時好況にあった郷土の大先輩アポロ商会の大迫社長の御厚意に接した時は,今考えても涙が出るほど嬉しかった。 色々次々に追憶の種はつきないが,日本の目醒しい復興と共に,本校もその面目を一新し,現在では,内容外観共に県下の高校中屈指の高校に発展したことは誠に喜びに堪えない。(後略)
※1 頴娃工業学校
昭和16(1941)年4月1日に村立頴娃青年学校から電気科・土木科が村立鹿児島県頴娃工業学校として独立。昭和19(1944)年4月県立移管。
平川常彦第2代校長(昭和16年6月14日~昭和18年12月9日在職)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行)には,「当時村立の甲種工業学校はおそらく全国で始めてのこと」とある。当時の状況は「青年学校の二三教室を拝借して職員数名,第一回生徒電気,土木各四十名位というわけでした。(中略)物資は大変窮屈で実習設備など不十分であり,職員組織も不完全でした。土木科には青年学校時代使用した測量機械が若干ありましたが,電気科においてはモーター一台さえもないという有様」だったという。
頴娃工業学校の本館は,昭和16年12月起工,同17年12月上棟式を行う。平川校長によれば「青年学校の西隣りに敷地が定められ,その地ならしに取りかかることとなり,われらの校舎はわれらの手でとの気構えから生徒諸君は毎日モッコで土を運びました。青年学校の諸君,さては村役場の皆さん達までこれに参加して下さいました。」とある。昭和19(1944)年5月12日,新校舎で授業が開始されるが,翌年戦災に遭う。県立頴娃工業学校は昭和23(1948)年3月閉校。同年4月,電気・土木・普通科の全日制鹿児島県頴娃高等学校が開校認可される。
※2 戦災,青天井の見える講堂
昭和20(1945)年8月8日,空襲によって本館全焼。8月31日に寄宿舎を教室に利用して授業を開始することとなったが,9月17日の枕崎台風で乾繭倉庫と講堂の他は全壊した。この空襲前後や枕崎台風について,昭和22(1947)年3月土木科卒の中村三郎氏の「ありし日の学舎」【機種依存文字】と田中瑞穂氏の「「頴娃工業」の思い出」【機種依存文字】(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)記載),鶴田周文氏の「思い出」【機種依存文字】(『創立四十周年記念誌』記載)から以下引用する。
(1) (昭和19(1944)年入学)「今運動場の国道沿いで知覧街道の松の木で建設した木造2階建の素晴らしい校舎に入校出来た。(中略)2年生になってからは同級生も動員にかり出され学校には宮脇,頴娃,九玉校出身の生徒だけが学校に残り,本校の備品,大切な書類測量器械等何事でも背負って出られるように待機の日々が続いた。(中略。1度目の機銃掃射,2度目の爆撃で電気科生徒1名と校舎前に畑仕事に来ていた女児が亡くなったことなど記載)3回目の空襲を受けその時は,2人か3人位の生徒と女の先生が残っていた。たまたま事務室には,非常持出の書類等を置いてあることを先生が思いつき,2階は炎で燃え盛る中を生徒が勇敢にもその書類を持出した事を今でも覚えています。(中略)枕崎台風の襲来で校舎は雨もりし,隙間から入いる木枯の風は冷たく,それに教科書はお粗末なもの,字を書くにもノートはないし寄せ集め紙でノートを作ったものでした。」
(2) 「昭和19年4月県立頴娃工業学校土木科1年へ53名が,新築新装の木造2回建校舎に県立移管初の一期生として入学した。(中略,戦時下の状況,学徒動員などを記載されている。)忘れもしない8月8日,我々は2回目の学徒動員で赤崎部落(牧之内区)の県道沿いで兵隊とともに防空壕を掘さく中,異様な爆音と機銃の音とともに敵機来襲,その間7~8分位と思う。壕の中からようやく外に出ると,附近部落民より「頴娃工業が燃えている」との情報,急ぎ赤崎の岡の上に登る。確かに学校が燃えている。(中略)作業を終え急ぎ学校にたどり着くと,後片もなく全焼で同僚の留守班約10名が教職員とともに茫然と立ちすくんでいたことを記憶している。終戦とともに学徒動員の上級生も帰校し全校生徒はなお学校の後片付け等の作業が続く,頴娃村有林の示山で炭火(や)き,仮校舎建築用材の切出し,屋根葺用平木の原木を新牧の製材工場へ運搬,そして平木の製品を学校まで人肩運搬,又薩南工業建築科より授業用机,椅子の人肩運搬,そして仮校舎焼残りの旧講堂,倉庫等で戦時から戦後の学生生活が始まった。教科書はなく,正常な授業はできない毎日でした。そして昭和22(1947)年3月43名が土木科を卒業した。卒業時担任の先生が言われた。「皆さんは今,土木科3年を卒業するが戦時中のため2年の1学期課程の程度しか不幸にしてできていない。社会で努力してもらいたい」との言葉を覚えている。」
(3) 「昭和十九年大陸への就職を夢みて進学を立志,運よく入学出来ましたが(中略)戦雲急を告げる頃とあって,先輩諸氏の土木科は長崎川棚へ,電気科は佐世保へと学徒動員され,一年生の我々のみが留守番役として学校に残った。(中略)青戸飛行場の整地作業,そして赤崎高峰山での陣地構築へとすぐに動員された。(中略)この頃は,殆ど,授業らしき授業はなく軍事教練が主であった。そして二年の一学期終戦を迎え,二学期より,再び,学校生活が始まった。しかし,木造二階建の新校舎は,戦火のため灰と化し,基礎コンクリートの残がいだけが,見るも哀れな姿で残っていた。(中略)これからの授業が大変であった。幸いにして,隣接の旧青年学校の講堂が戦火から焼残り,全校生徒が衝立仕切りの仮教室で,授業が始まったのである。隣教室での授業が騒ぞうしく,とても落着いて勉強が出来るものではなかった。また,雨の日等は,雨漏りがひどく,授業中止の時もあった。
やっと三年の卒業年次に落着いた教室が町立乾繭倉庫のボイラー室である。これがまたひどい,土ほこりのする土間教室で,教室の中央には大きなボイラー管が突き出ており,時折り頭を打つ人もいた。机は,四・五名宛の長机であった。また実習用の測量器械は戦火で焼け,古びた器械が,二・三台しか残っていなかった。(中略。鹿児島市復興部に就職され連日測量をされたことなど記載)このような学校生活を送った私等に社会人として何が出来るであろうか何も解らなかった。基礎知識の足りない私は,只々一生懸命頑張った。校訓であった「誠と熱」をもって…。」
枕崎台風後の講堂の状況については,昭和21(1946)年から36(1961)年まで在職された土木科担当の鮫島宗起氏も「講堂は倒れなかったが,屋根瓦が吹き飛んでいても,教室がないので,それを四つに仕切って教室に使用していた。雨の時には漏るので机を移動してしのいでいた。」(『創立四十周年記念誌』)と記されている。
また,薩南工業からの机・椅子の提供一件は,中村一平元PTA会長によれば「(榎田)校長と私が机を作ってもらうつもりで,薩南工業に相談にまいりましたところ,幸いに枕崎水産のために作ってあった机,いすがありました。その机といすを懇望して譲ってもらいました。それで全生徒を徒歩で知覧までやり,知覧から机,いすをかつがせて持ってきました。」という。(回顧座談会『創立四十周年記念誌』昭和46(1971)年3月発行)
※3 昭和25(1950)年に頴娃村から町制施行し頴娃町となる。
※4 国鉄指宿線は,昭和5(1930)年に西鹿児島(現鹿児島中央)駅-五位野駅間で開業,同9年(1934)年12月に指宿駅まで延伸され,翌年に指宿-枕崎間の国鉄バスが運行された。鉄道が昭和11(1936)年3月に山川駅まで延伸されると,バスも山川港-枕崎間となる。昭和32(1957)年に枕崎線起工,翌年に成川トンネルが開通し,同35(1960)年3月に指宿線山川駅-西頴娃駅間が開通した。昭和37(1962)年3月には水成川まで完成,山川から枕崎駅まで全線開通したのは昭和38(1963)年10月である(西鹿児島-枕崎駅,指宿枕崎線と線名改称)。
頴娃村(町)では,大正末から期成同盟会も結成されたように,早くから鉄道敷設の要望は強かった。全面開通の祝賀会は頴娃高校体育館で行われている。
(参考文献『目で見る南薩の100年』(郷土出版社,2004年),『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年))
※5 新制中学校発足
山内廣行氏(昭和27(1952)年4月頴娃高校入学,昭和31(1956)年普通科卒)によれば「入学式のため正門をくぐったのは2回目です。(中略)最初は,昭和24(1949)年に頴娃中学校に入学した時でした。当時は新制中学校として発足間もない頃で校舎が整備されていなかったため,我々1年生は頴娃高校の校舎を借りて授業が始まったからです。当時の高校は,学制改革等で旧制中学からの編入生も多く,我々中学生も加わり,とても賑やかな学校風景でありました。そして,二度目は晴れて頴娃高校生として正門をくぐりました。」とのこと(「80年の歴史に光を!」『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。頴娃中学校は,昭和22(1947)年5月,開校式を行い頴娃・宮脇・九玉・粟ヶ窪(一部)の各小学校を校区として分校授業を行い,同年10月,用地買収を始め,同23年10月から順次校舎が落成していく。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※6 昭和23(1948)年4月,普通科・電気科・土木科3科の全日制県立頴娃高等学校として開校,県立頴娃工業学校と村立頴娃高等家政女学校(昭和15(1940)年4月,村立頴娃青年学校家庭科が村立頴娃青年学校から独立)の敷地を合併。青年学校は昭和22(1947)年度末をもって完全廃止となったが,頴娃青年学校の設置科は定時制とされ,昭和24(1949)年4月,農業科を本科,家庭科・建築科を別科とする村立(翌年県立移管)定時制高等学校が併置された。全日制を第1部,定時制を第2部と称した。
※7 商工省は大正14(1925)年設立。商工業の奨励や統制を担う。昭和18(1943)年,軍需省・農商省に改組,戦後間もない昭和20(1945)年8月,商工省再設置。昭和24(1949)年,通商産業省改組,平成13(2001)年に現在の経済産業省へ移行した。
(参考文献 百瀬孝著『事典昭和戦後の日本』(吉川弘文館,1995年)等)
※8 昭和23(1948)年に電気科教職員として赴任された京田薩男氏は「電気科の実習室は乾繭倉庫跡で焼け残った計器とモーターが少々というあわれな状態だった。しかし電気科は鹿児島県で最も歴史が古く,県下に鹿児島工業高校と二校しかなく,優秀な人材が集まり,戦場より復員してきた年配者もいたが,みなファイト満々で,先生と生徒の間も兄弟のような仲で,(中略)職員,生徒,父兄が一体となって学校を建設するのだという意気と連帯感があったからだと思う。(中略)24年4月に電気科卒業生に電気事業主任技術者資格第三種免許が下附されたが,それまでが大変で設備を規準にあうよう充実するため,父兄に寄附をお願いするとともに,生徒も青戸の先の「しめじ山」の町有林を伐採して薪にして資金作りをしたが,電気科職員生徒全員が山に泊りこんで汗みどろになって働いたことなど懐かしく思い出される」と当時のことを記されている(『創立五十周年記念誌』)。
※9 昨今の工業界の好況
敗戦後戦前の1935年までに到達していた状況からはるかに後退した工業化について,朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)の特需を経て50年代半ばに高度成長が始まる。1930(昭和5)年代後半から1970(昭和45)年代初頭に至る時期の,日本の産業化の王者は機械器具産業であったこと,戦時を超えて高度成長期を経過する時期において,機械産業と金属産業が全産出額中上位を占めることが多かったこと,しかもその趨勢は時とともに増す勢いにあり、これら2者のリーダーシップを握ったのが機械産業であったこと,また建築・土木もこれら両産業ほどではないが,占有率の上昇が目立ったことなどが指摘されている。
(参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5 現代1 日中戦争期から高度成長期(1937-1972)』岩波書店,2018年)
次回は,注でも引用してきました,創立40周年記念誌から紹介します。今から50年(半世紀)前のものです。南薩特有の土壌で水に苦労されたお話なども関連して掲載予定です。お楽しみに。