既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(1)

公開日 2020年07月31日(Fri)

鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念

-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(1)-

                          校長 林  匡

 令和2(2020)年,鹿児島県立頴娃高等学校は,創立90周年を迎えました。この記念すべき年に当たり,本校の歴史とこ こに息づく様々な関係者の想いなどを振り返り,今本校で学ぶ生徒の皆さんをはじめ,保護者や地域の方々にも改めて本校の培ってきたこと,創立以来の本校の歴史を知っていただきたいと考え,ここに紹介いたします。

 今回は,今から60年前に発行された同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)から抜粋します。

 なお,原則として記念誌記載の文言に従い記載しますが,明らかな誤字・脱字等は適宜改めています。また,元号表記については,西暦表示が原文にない場合,( )で示しました。記載文中,補足説明の箇所には※印・番号を付しています。(以下同様)

 

I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)

 

1 式辞(寺崎豊志校長,昭和32(1957)年4月1日~昭和37(1962)年3月31日在職) 

 本日ここに本校創立30周年記念式典並に講堂の落成式(※1)を挙行致しましたところ雨天の中遠近を問わず県御当局をはじめ沢山の来賓の方々並同窓会PTA等多数の御参加を得まして厳粛にして然も盛大なる式典をあげ得ますことは本校の無上の光栄とし深く感謝する所であります。

 本校は昭和6(1931)年本月この牧之原原頭に頴娃村立高等公民学校(※2)として発足し昭和19(1944)年には頴娃工業学校となり同23(1948)年には学制改革により普通科を増設して電気科建築科の三課程の全日制高等学校となりました。一方青年学校(※3)を主流とし家庭科農業科建築科の三課程の頴娃村立定時制高等学校は昭和25年県立となり全日制と合体して六課程を持つ県下にも稀な綜合制高等学校として今日に及んでおります。

 此の間数々の試練を経て着たのでありますが中でも昭和20(1945)年8月8日終戦を目の前にして講堂のみを残して戦災により全焼加ふるに昭和26(1951)年10月14日のルース台風により再度の大災害を被り(※4)一時は学校の存廃問題になる程の大災害の記録も持っています。

 今ここに白亜の本館の大殿堂と今回落成せるこの講堂を今日まのあたり見る時参列の皆様も私共一同も感涙無量なるものがあると思います。

(中略)本講堂の左後方の森の中にみかげ石の二つの石像が並んで立っています。碑面には樋渡盛広村長の像(※5)多田茂校長の像(※6)ときざんであります。(中略)この地の青年諸君はすべて海外雄飛の大志を抱くべきとの卓見をいだき凡ゆる困難を克服して敢然としてこの地にこの学びやを建設された方々を代表する記念の石像だと思います。爾来敗戦によりその職場は幾分限定されたとは云え建学の精神を深く身に体し質実剛健の校風を樹立しながら本校に学んだ青年は四千数百名にも及び到る所で活躍して頴娃青年の名を天下にとどろかしつつあります。

 地元民による地元民の学校としてスタートした本校は一種独特の雰囲気と校風をかもし出し今や県立学校としても十指に屈せられる大規模な学校となりました。

 今や私共は並々ならぬこの皆様の御高恩にむくいるべく責任の重大さを痛感しながら一致団結日夜御期待に副う様努力いたす覚悟であります(後略)

 

※1 講堂の落成式

 体育館兼講堂(214坪)。昭和35(1970)年3月25日竣工。場所は,現在の正門右側,駐車場等の場所に建てられた。(本校学校要覧の建物配置図によれば,前年度まで正門左側に講堂があった。付属して音楽室があった(昭和53(1978)年に音楽室が竣工したため,器具室,倉庫となる)。

 この講堂は,昭和40(1965)年度以降の学校要覧では屋内運動場と表記される。平成18(2006)年3月に撤去され,作業倉庫・駐車場が新設された。

※2 頴娃村立公民学校・高等公民学校

 明治時代に創立された頴娃村内の小学校に実業補習学校が併設され,昭和5(1930)年以降公民学校と改称された。昭和6(1931)年に各校併設の公民学校を統一して開設。また,大正12(1923)年に,頴娃尋常小学校に併設して村立頴娃実科高等女学校が設置されていたが,頴娃高等公民学校家政科ができて廃止された。

(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))

※3 青年学校

 昭和10(1935)年青年学校令による,戦前の教育機関の一つ。尋常小学校6年卒業後勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う。実業補習学校と,大正15(1926)年施行の青年訓練所令に基づく青年訓練所が統合されたもの。頴娃村立青年学校は,家政科が昭和15(1930)年に村立頴娃高等女学校として独立。電気,土木科が翌年村立頴娃工業学校として独立(昭和19(1944)年に県立移管)する。

(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))

※4 ルース台風により再度の大災害を被り

 昭和26(1951)年10月14日,電気科・土木科教室や製図室・配線室,その他諸施設全壊,大破。被害状況は22日付けの「ルース台風による災害状況調書」(本校保管)に記録されており,壊滅的打撃を受けたことが図面からも分かる。

※5 樋渡盛広村長の像

   (正面)

「樋渡盛廣村長之像」

   (背面)

 「樋渡盛廣先生は明治十年四月五日旧頴娃村郡に生まれ長じて後鹿児島高等中学校を経て陸軍士官学校陸軍大学校へ進み大正八年陸軍大佐をもって退役された 又昭和二年から昭和九年まで頴娃村長を勤めその間昭和六年に村立頴娃高等公民学校を設置して職業教育青少年教育の振興に努められ

 これが後の工業学校高等学校の母胎となったのである 昭和二十一年三月二十一日満洲瀋陽市で死去された」

※6 多田茂校長の像

   (正面)

「多田茂校長之像」

   (背面)

 「多田校長は静岡県の生まれで大正二年七月鹿児島高等農林学校を卒業しマライ半島ゴム園生活十年の後帰国して山口県立小郡農業学校勤務を経て昭和六年四月本校の前身である頴娃村立高等公民学校の初代校長として来任された以後十年間行学一体開拓者精神の養成等を通じて堅実な校風の樹立と有為な青少年の育成に努められそして昭和十六年三月兵庫県豊岡農業学校へ転出された」

 

 補足して,この樋渡盛広村長・多田茂校長の胸像は,昭和19(1944)年3月に「多数の卒業生の篤志寄附を仰いで建立し除幕式を挙げ」(『創立30周年記念号』回顧録中,2部電1卒の松永友義氏「30周年を顧みて」)たものです。

 両胸像は,寺崎校長式辞に「本講堂の左後方の森の中」と示されたとおり,現在より東側に建立されました。「昭和25~昭和27年頃の頴娃高校の様子」図(『創立50周年記念誌』(昭和56(1981)年2月発行)』所収)によれば,正門側から見て右側に多田校長,左側に樋渡校長像が示されており,現在と左右反対になっています。

  この後,昭和45(1970)年の創立40周年記念の際に,現在の場所に移築されました。多田校長像の左手前に「創立四十周年記念 胸像移築 庭園造成 昭和四十五年六月 県立頴娃高等学校同窓会」の石碑があります。この胸像移築・庭園造成は,プール(この年10月に完成,平成26(2014)年解体)建設とともに40周年事業の中心でした。

 

 『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の回顧座談会の中で,多田先生は自身の学校経営方針を尋ねられ,「私,マライ半島で長く働いており,開拓精神の必要性を痛感致しておりました。それで生徒にパイオニアの精神,欠乏に耐える精神,無から有を生み出す精神を教えることを念願としていました。」と話されています。

 校是「開拓精神」の基がここにあります。

 また,同座談会において,多田先生は学校経営で重きを置いたものとして,「立場をかえて考えよ」と「燃ゆる者のみが他を燃やす」の,2つの信条を挙げておられます。前者は「職員は生徒の立場に立ってものを考える,生徒は父兄や職員の立場で考えよ」という意味,後者は「自分が本当に燃える心でしなければ,周囲は動かない。燃ゆるもののみが人を動かす」という意味です。 

 次回は,創立30周年記念号の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を予定しています。お楽しみに。