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2020年8月7日
2020年08月07日(金)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(6)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(6)-
校長 林 匡
今回は,創立50周年記念誌記載の文章を中心に紹介します。
一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。
III 出典:『創立五十周年記念誌』(昭和56(1981)年2月発行)
1 学校長式辞(安田善内第14代校長,昭和54(1979)年12月1日~昭和59(1984)年3月31日在職)
(前略)本校は昭和5(1930)年村立頴娃高等公民学校として設立が認可され,翌昭和6(1931)年5月5日第一期生の入学式が挙行されましてから,五十周年となります。(中略)大頴娃村の村長樋渡盛広先生が,つとに南薩子弟の教育の重要性を看破され,昭和初頭の不況の時代に青少年に職を与え,海外雄飛を期待して,財政難のため多くの反対もあったそうでありますが,私事を顧みず,ご尽力説得して下さいました先見によるものであります。(中略)
更に,初代校長多田茂先生(※1)をはじめ,創立当時の先生方及び生徒の皆さんが,開学の主旨にのっとり,校舎,校具など不充分な悪条件を乗り越え,実学に徹した教育がなされたと承っております。本校校是であります開拓精神が培われたゆえんであります。爾来,学科の改廃,統合分離,校名の変更,県立移管,施設設備の拡充など,長い波乱に満ちた幾多の曲折を経て,現在普通科及び機械,電気,建築を含む工業科の二十三学級,生徒数九百三十四名,常勤教職員七十一名を擁する南薩における伝統ある総合的高等学校として発展して参った次第であります。
思うに,本校がたどって参りました五十年は,昭和の激動の時代であります。戦前の卒業生は工業技術者として中国大陸その他海外に雄飛される方が多かったのが本校の特徴でありました。また,学徒動員として,県外各地の工場に徴集された方々もおられます(※2・3)。戦後は,食糧難のため,食糧増産をしながら学習に励んだ時代もありましたが,その後,我が国が平和国家の建設のため,産業立国を目指して,産業教育の振興や技術革新を行い世界の経済大国として目覚ましい発展をなしとげてきました近年においても,私達の先輩は大いに貢献の一翼をになって参られたのであります(後略)。
2 回想(久保政司第9代校長,昭和37(1962)年4月1日~昭和42(1967)年3月31日在職)
私が頴娃高校に勤務した昭和37(1962)年からの5年間は,高校生徒の急増期に当たり,学校は拡張を急ぎ活気に満ちていました。設置課程も校舎も新旧交代の時期でありました。定時制農業科は廃止して機械科を新設。家庭科は普通科に吸収しました(※4)。古い歴史をもつ木造の老朽校舎は解体して姿を消し,新に鉄筋三階建の工業科普通教室と理科室や,工業四科の実験実習室を新築しました。旧本館に家庭科実習室と社会科教室の増築など,毎年古校舎を取壊しては新築工事の連続でした。この県費事業と併行して,PTAが単独で行った学校造りへの協力は忘れることができません(※5)。予算750万円で図書館,柔剣道場,卓球場,職員住宅の建築と,9,200【機種依存文字】の農地を買収して運動場の拡張をしました。正門の移動,東門の改造,校内造園等は経費をPTAが負担して,職員・生徒の奉仕作業で立派にできました。(中略)新旧交代期はとかく混乱するものですが順調に進行したのはPTAと,教職員・生徒の和合協力によるものでした。(中略)この地域には海外移民の多いこと(※6)も知りました。こんな歴史と環境の中にある頴娃高校の教育精神として,開拓精神の強い生徒を育成したいと思いました。(後略)
3 ある回想(安田新駒第13代校長,昭和52(1977)年4月1日~昭和54(1979)年11月30日在職)
(前略。突然の鹿屋高校への異動となり,50周年記念事業の推進や生徒指導研究推進等のことなど後任に託さざるをえなかったことなど記載)土木科の廃止(※7)に伴う施設・設備の転用と整理,危険校舎の取壊し作業と玄関前のロータリー・庭園跡地への視聴覚室や音楽室等の特別教室の建設工事,運動場の排水工事,弓道場の建設等,いずれも着工したばかりで,最後まで見届けることはできなかった。一方,運動場の整地や第二体育館の建設,散在した工業科関係の施設・設備等のそれぞれの学科への集中整備計画,自転車置場や部室等の整備,図書館・礼法室・同窓会館・PTA会館食堂等を含む特別会館の建築構想の青写真と将来への展望は,すべて机上のプランのままであった。
(中略。生徒指導上のことなど記載)校内指導態勢の確立を図り,学級PTA,学年PTA,特に地区PTAの活動を促進して,家庭との深い連帯のもとで,これらの指導を図るべく微力を尽した。(中略)会則の一部改正や,組織・機構の見直し等が行なわれ,研修するPTA,活動するPTAへの脱皮が図られた。特に,地区PTAの活動は次第に活発化し,郡内4高校(注・頴娃,山川,指宿,指宿商の4高校)の合同地区会の開催や高校生クラブの結成等もみられ,ご父兄の関心もいよいよ高まってきた。また,この時期に,婦人部も結成されて,母親たちの研修会や文化祭への参加もあった。一方,「PTAだより」も発刊され(中略)これらの活動の基礎基盤には,役員や評議員の方々の,学校教育への理解と協力並びに,係の先生方の骨身惜しまぬご尽力に負うところが大であった。(中略。昭和54(1979)・55年に文部省指定生徒指導研究推進校となったことなどを記載)
正面玄関上の,西満州雄氏(注・昭和34(1959)年3月普通科卒)寄贈の「光の大時計」は,いまもコツコツ時を刻んでいるだろうか・・。在学中はほとんど視力を失い,学業の継続が困難な状況の中で,よく忍苦に耐え,時の校長先生や先生方の暖かい指導と激励を受け,優秀な成績で卒業。その後,大阪の針灸師学校に学び,いまでは,奈良県生駒で療院を経営しているという。西氏の善意と不屈の精神は,本校創立の建学の精神であり,このことについて一文を,県高校長会の会誌にも掲載してもらった。
また,県当局わけても頴娃町当局の特別のご理解とご配慮により,中村部落の樫子山の地に,1,724【機種依存文字】の教職員住宅用地を確保することができ(中略)条件整備をしていただいたことは,まことに有難く,ここに衷心からお礼申し上げます。(後略)
4 亡師亡友の碑の建立
創立50周年記念事業として,記念式典のほか,校旗の新調,校内庭園の整備,楽器の購入等学校内容の充実とともに,亡師亡友の碑の建立がなされ,記念式典当日には,除幕式及び慰霊祭が執り行なわれた。
当時の同窓会副会長新留直光氏の経過報告(『創立五十周年記念誌』所収)によれば,この碑文は鎌田要人県知事の揮毫,ブロンズ像の設計制作は,頴娃高等学校美術担当西俣敏弘教諭,碑の背面文は,書道担当馬場正則教諭が書かれたものとある。
亡師亡友の碑文
「すぎ行し 時の流れに 師よ友よ 逝きて還らず
祈りもて 心に聞かん しず行くも 君が御声を
創立五十周年を記念し建立す
昭和五十五年十一月八日
鹿児島県立頴娃高等学校 PTA 同窓会
碑文 鹿児島県知事 鎌田要人 書
創案 像制作 西俣敏広 」
※1 『創立五十周年記念誌』所収の卒業生代表田原武雄氏(高等公民学校第1回卒業生,昭和8(1933)年卒)の祝辞(要旨)には,「何とか頴娃に,外地に雄飛する学校を作りたいということで,マレーシアで苦労する多田先生を見込んで呼ばれたのです。多田先生は静岡県三島の出身で,無類の努力家でありました。(中略)多田校長先生は,授業開始の時刻がくると,我々がまだ立っている間に教室に入って来る,すぐ入ってくる。私どもはガソリンポンプと名付けておりました。大変な努力家でした。毎日,地下足袋をはいて,脚絆をまいてこられたのです。(後略。戦争で多くの級友が応召し従軍して大部分が死去されたことなど記載)」と,初代多田校長の在りし日を記されている。
なお,当時の生徒も「ゲートルに地下足袋が校則であったけれども,生徒は熱くて窮屈な地下足袋よりか,親にも負担を掛けないただのハダシで登校する者が大部分だった。足袋は旅行か儀式のみ履いた」とは井上正己氏(昭和8(1933)年土木科卒)の言である(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行所収「胸像・村長と校長と学生」)。
※2 動員に関して
【機種依存文字】 馬場岩雄氏(昭和16(1941)年頴娃工業学校電気科1年入学,同18年12月卒)「恩師・級友」(『同窓会誌 創立30周年記念号』1960年12月発行)から抜粋
「電気科の2年の終り頃になると同級生の中から現役で入営するし,3年頃になると恩師も応召して何となく落着かない毎日が続いたようです。現在は応召され,入営した恩師,級友の大半が戦争のために還えらぬ師となり友となったことを思うと(中略)心から懐故の念に堪えない。私は恩師応召の後約1年間母校の電気科に手伝いとして残ったが,この頃は戦争も一段と烈しく電気科3年生を連れて佐世保の海軍工廠や土木科の青戸飛行場と学徒動員に必死の努力を続けたり,職場動員で福岡の飛行機会社に動員されたりで母校をせわしく通り去った感が深い。」
【機種依存文字】 川野次男氏(昭和19(1944)年から同31(1956)年在職)「頴娃工業の歩み」(『創立五十周年記念誌』)から抜粋
「19年の秋,時は敗色濃い戦争の真唯中,工場技術者養成が叫ばれ,私は富士の麓の静岡工業に奉職が内定していましたが,熊本の私のところにはるばる村上校長(注・第3代)が来られて,小笠原先生が応召し電気の先生がいないので,ぜひ郷里の後輩の育成に帰ってきて欲しいと説得され,富士ならぬサツマ富士の懐に方向を転ずることになりました。
当時の頴娃工業は1棟の2階建がカライモ畠の中に聳(そび)えているだけの一見,兵舎風でもあり,施設設備は貧弱そのものでした。(中略)校外の民家も瀬川文具店の他1,2軒ぐらいでしたか。時々,校舎の上空を敵機が飛来しては校舎をめがけて機銃弾の掃射をしてゆき,その都度,生徒たちと一生懸命電気計器類をイモ畠の中に運び出しました。私は独身のせいもあって既に佐世保の海軍工廠の動員に行っている生徒たち(一回も顔を合わせたこともない)のもとへ引率者として赴くはめになり,日夜工廠内での作業と宿舎でのシラミ・空腹と戦場そのものでしたが,遂に最悪の日がきました。工場は勿論,多数の学徒の中でわが校の生徒数名が爆死と重傷という悲惨さに生徒と共になす術もなく,その夜は宿舎には帰らず残り全員でお通夜で明かしました。今も生々しく蘇って悪夢でもみている感じです。心からご冥福を祈っています。
佐世保の苦難の要務を終えて帰任すると,間もなく斬込隊の隊長訓練とかで熊本に武装して赴きましたが,ここでまたまた空襲を受け市内5割以上の被災に辛うじて帰校した頃でした。わが唯一の学び舎が機銃掃射で全焼し茫然,(中略)以後は例の講堂(雨の時は室外同然)を借りて鋭意授業を続行しましたがここでまた電気3年生1人が投下された爆弾で重傷を受け,応急手当の甲斐もなく昇天してしまいました。痛魂の極みでした。」
なお,川野氏は校章案の制作者でもある。上記文章中,校章改制の際に御自身の案が採択されたことにふれ,「端麗にして静かなる開聞岳は女子の,黒汐の躍動を男子のそれぞれ理想像といたしました」と書かれている。
※3 青戸飛行場(※2【機種依存文字】馬場岩雄氏の記述にもみえる。)について
頴娃町上別府の青戸周辺には,かつて知覧飛行場の補助として秘密裏に2,000m級2本のV字形滑走路を持つ飛行場が建設されていた(現在の県道頴娃川辺線、南九州市頴娃町青戸と加治佐の間の台地、通称加治佐原(かっちゃばい))。「ち(知覧の知)のひ(飛)」の暗号を持つ知覧に対して,当初この補助飛行場の建設予定地が枕崎だったため「ま(枕崎)のひ」と呼ばれた。九州には本土防衛のため多くの臨時飛行場が建設され,青戸飛行場もその一つである。この飛行場は,昭和18(1943)年春に航空写真による現地調査がされ,間もなく着工される。「軍,土木業者,朝鮮人労働者のほか,南薩一帯の男女,国民学校六年以上の少年たちも駆り出され」(『記憶の証人 かごしま戦争遺跡』)動員は一日一万人といわれた。この時代の青戸一帯は固いコラ層が覆い,水に恵まれない土地で衛生状態は最悪だったという。1944年秋ごろには芝張りの滑走路の形が整ったとはいえ,1945年3月には頴娃でも空襲が始まり工事は中断が続き,遂に未完成のまま終戦を迎えた。竹筋コンクリートのトーチカ(防御陣地)や簡易型掩体壕(えんたいごう),貯水槽がわずかに残されている。
(参考文献 『記憶の証人 かごしま戦争遺跡』(南日本新聞社,2006年),西俊寛「幻の旧陸軍まのひ(青戸飛行場)-平成七年八月 戦後五十年に寄せて-」(『薩南文化』第3号,南九州市,2011年)
※4 昭和38(1963)年4月1日,機械科新設
迫田雅人氏(昭和38年から同42年3月在職)「機械科創設当時の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)によれば「県立高校で機械科を設置してある学校は,昭和三十三(1955)年では,わずかに三校であった。(中略)昭和三十四年からあちこちの県立高校で設置科の改廃,新設がさかんに行なわれ,昭和三十八年には県立の十一校に機械科が設置された。頴娃高校でも時代の要請に従って,長年,地域産業振興に貢献した農業科の代わりに,昭和三十八年四月から機械科二学級が新しく募集されて,希望に満ちあふれた若人,八十八名が機械科第一回生として,ほかの科の生徒約三百三十名と共に入学した。
(中略)機械科教室は敷地の端に近く,二教室続きの平家建一棟であり,新築当初はモデル建築といわれていたそうだが,最近の建物に比べると,明るさが足りなかった。しかし,当時,それ以外には普通教室として使用可能の教室はなかった。機械科研究室(職員室)は,建築科の先輩達が実習時間に丹精こめて作った施工実習室の一部,約三十三平方メートルが使われた。(中略)
工業各科にとっては,実習と製図が大切な科目である。まず製図については,建築科製図室を機械科生徒にも使用させてもらったので,非常に助かった。生徒は真面目に精進を続けて,二年生になってからユニ製図コンクールで銀賞を受賞する生徒もいた。その後,新館三階建が竣工したので,製図室は現在では食堂に使っている建物に移転した。
つぎに,実習は週三時間ずつで,苦肉の策として手仕上とスケッチの二班に編成され(中略)スケッチの場所は,塩蔵室の二階の一部が使われた。二階の一部といっても,そこは屋根裏に等しい状況であった。しかし頴娃高校の場合は当時,農業科の建物が残っていたのだから,他の新設校に比べると,まだよかった。手仕上実習室としては製茶工場あとが使われた。(中略)その後,新しく機械工場ができたので,製茶工場の建物は,不必要でもあり,また白蟻の被害がひどくなっていたので,取り壊し,その跡に前記の二教室を移転することになった。」(以下,機械科生徒が分担することとなった,白蟻の巣探しの顛末が記されている。)
回顧座談会(『創立四十周年記念誌』所収)において,白尾満氏(昭和38(1963)年4月から同47年在職)によれば,当時,実習工場がなく,農業科の後片づけ,土運び,白蟻さがしを実習時間に行ったこと,旋盤は当初7台だけ,万力を15台ほど入れ,農業科の三輪車で土運びや分解組み立てを行ったこと,翌年工場ができ,紅茶工場に入れてあった機械を移転し,現在の機械工場ができたという。また同座談会で,当時の機械科1期生,和田英夫氏(昭和40(1965)年3月機械科卒)は「鎌を持ったりスコップで土運びなどをしたりした時,機械科に来てなんでこんなことをしなければならないのかと,何回も思ったことです。しかし一期生でもあるし,学校のモットーでありました開拓精神ということもあって,これから機械科を育てて行かねばならないと思っていました。一期生で,責任を痛感し,皆が向学心に燃えてやっていました。」と話されている。
また,同じく機械科1期生の田之脇勇氏「懐しき思い出」(『創立五十周年記念誌』所収)には,「私たちは戦後の第1次ベビーブームの時に生まれた世代で,小学校に入学しても,中学校へ入学しても大幅に学級が増加していきました。」と記され,高度成長期の社会情勢を背景に1期生としてかなり気概をもって入学したものの,当初,機械らしきものは一つもなく新設機械科のために建てられたものも全くない中でスタートしたこと,1年次1学期の授業は「2学級しかない老朽木造校舎の中で授業を受け,実習の時間になると(中略)実習服だけ身につけ,これまた,もと農業科が養豚舎として使っていた古い木造建物を機械科の実習室にかえるべく,カナヅチとタガネを持って豚の糞尿で汚れた石壁を削ったり,槌やツルハシで不要な石壁や床などをたたきこわしたり,整地等をしておりました。(中略)自分は本当に機械科に入ったのだろうかと疑いたくなるほどでしたが,2学期に入るころには,その木造建物の中に万力ややすり,ボール盤,グラインダーなど簡単な道具や機械が入り,何とか機械科らしい体裁を整えてきました。(中略)その後,学年が進むにつれ,教室も新築なった鉄筋4階建の4階に移り,実習工場もできて,旋盤や型削り盤,小型の溶鉱炉等が逐次整備され,それに伴って,ねじ切りや溶接,鋳型を作っての鋳造,鍛造等の実習も次第にできるようになりました。3年生になると,水力学の実習室も整備されて,こっちの方の実習もできるようになりました。」と当時のことを振り返っておられる。
※5 回顧座談会『創立四十周年記念誌』において,久保政司氏は,生徒数の膨張期(1,200名)に校舎の拡張が追いつかず,まず最初に狭さを感じたのは図書館(三十周年記念に作られた)だったこと,体育館でも多くの部活動生が活動していたため,柔剣道場と卓球場建設を決意したこと,当時古い木造校舎が次々に解体されていたため,その古材を再利用することとして校舎を無償払下げにしてもらい,PTAの協力をいただいて,図書館,二棟の柔剣道場,卓球場を五か年計画で建てた経緯を話されている。なお,その際に「あとで第一本館に接続して家庭科の二つの実習室,その上に,三階に社会科教室を作ったんですが,その時,惜しいと思ったのは,その敷地が松林で,青年学校時代奉安殿のあった所で一段高く,松の木の下に芝生があって生徒の憩の場所であったんですが,そこをつぶしてしまったことです。」とも語っておられる。(青年学校の面影をそのまま止めていた場所だったという。)
※6 海外移民の多さ
『頴娃町郷土誌』改訂版(1990年発行)によれば,旧頴娃町内の出移民の約90%は摺木・耳原・石垣・大川・水成川出身の人たちであり,成功者を「アメリカどん」と呼んで尊敬したという。「別府地区は海運業が盛んで,進取の気性に富み,情報を得やすかったこともあり,移民先駆者の強い愛郷心と移民希望者の精神的安定感から同郷同族による移民が主であった。」
最初の移民は,明治27(1894)年,摺木の摺木寅吉,前村松之助氏以降とされ,大正13(1924)年,頴娃・知覧の出身者が相互扶助をはかるため,「頴・知同志会」が結成され,昭和30(1955)年9月,難民救済法による契約移民が始まり,鹿児島県から第一次移民として96人がカリフォルニア州に出発した時には,頴娃町から1/3の30人が渡米したという。31年4月には26人。同年5月には52人の多数が渡米した。
この他,中南米やフィリピンへの移民も出している。
※7 土木科廃止
昭和6(1931)年の高等公民学校,同10(1935)年の青年学校,同16(1941)年の頴娃工業学校,戦後の昭和23(1948)年の全日制頴娃高等学校と,その歴史を紡いだ学科であった。
『創立六十周年記念誌』(平成3(1991)年3月発行)所収の堀之内優氏(頴娃工業学校土木科一期生)「思い出すがままに」によれば,2年生・3年生の夏休み,夏期実習に「県内はもちろん県外の各事業場に出かけて約一か月間土木の専門を実施に勉強した」という。堀之内氏は,山口県の国道ルート測量に従事され,「トランシットやレベルを担ぎながら延々と続く田圃の中でヒルに足を喰われ,夏の炎天下に汗を流しながら測量をしたことは終生忘れ得ない思い出である。」と振り返っておられる。また,3年生2学期には担任(加藤教諭)から,「同級生四人で頴娃村牧之内飯山の農道の設計をするように申し渡され,四人でセンター・縦横断・平板の各測量を行い幅員三メートルの道路を八百メートル設計した」こと,何とか設計図面を完成できた時の感激を記されている。
この『創立六十周年記念誌』に転載された,『わが青春の母校・青春有情』(鹿児島新報社,昭和53(1978)年4月発行)「頴娃高校沿革」には「創立以来続いている土木科は優秀な人材を次々に世に送り出した。とくに土木科の生徒が水不足のために始めた水道工事は,すばらしい成果をおさめ“頴娃高校に土木科あり”と有名になった。この土木科も五十一年三月には募集停止となり,卒業生を寂しがらせている」とあるように,昭和51(1976)年春に土木科は募集停止とされた。
今回は,土木科の募集停止,電気科の新設に関して取り上げるとともに,創立50周年記念事業として行われた亡師亡友の碑の建立も踏まえて,これまでに記載できなかった,戦時中の生徒・職員の動員などについても触れました。
次回は,平成3(1991)年3月に発行された,創立60周年記念誌を基に紹介する予定です。平成に入り,昭和期の頴娃高校を関係者の皆さんがどのように振り返っておられるのか,お楽しみに。
2020年8月6日
2020年08月06日(木)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(5)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(5)-
校長 林 匡
今回は,創立40周年記念誌などから,かつての定時制の学科,特に農業科のことなどを紹介します。一部抜粋になること,表記についてなどは,これまでと同様です。
II 出典:『創立四十周年記念誌』(昭和46(1971)年3月発行)
3 併設定時制の思い出(宮田己之助氏,昭和24(1949)年から同30(1955)年在職。本文の一部は第2回注7にも引用)
私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立(注:昭和24年4月村立)として併設され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)
定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設(※1)で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)・桶器(タンコ)・木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。その収益は生徒に還元して食費や学資に充当していたので,父兄からも喜ばれ,働きながら学ぶ制度になっていた。
家庭科は,町立家政女学校として地域の信頼を集め,女子教育の伝統があり,専門の女教師から教育されていたのをそのまま吸収して,三課程をあわせて,定時制高校として設立され,全日制高校に併設されたのでした。農業科は新設(※2)で,設備としては青年学校の古校舎があり,実習地は荒廃された谷場茶園あるのみで,校庭の一部は戦時中,食糧難時代に掘り起こされて甘藷野菜畠に転じ,職員の耕作地に利用され,当時も尚,その名残りを止めていた。ある日農業科の乳牛(※3)が芋畑を荒し廻り,先生方から大目玉を喰ったことは今も面白おかしい思い出の一つです。
町当局は,設立後年々財政的な援助と熱意を表わして,設備も年々増加し,振興が計られたが,当時は定時制高校には魅力が乏しく,毎年の生徒募集には苦労したものだった。時には県の指導による公開研究など催すなどして,地域の関心を高め,やっと生徒数も確保されるようになり,三年目に県立に移管されたが,運営の面で建築科の複雑な各分科は認められず,単純化せざるを得なくなり,それに伴い技術指導の講師の先生方が多くて(中略)一応落着いたようなものの気の毒なことも多かった。
やがて建築科も別科から本科に昇格(※4)するなど,一応軌道に乗った形になって,(中略。宮田氏は昭和30(1955)年4月枕崎高校に転勤)農業科は,後に山川高校に合併する形になって,頴娃高校から消えたことは,卒業生はことさら寂しいでしょう。振興し得なかったことが残念でならない。(後略)
4 思い出すことなど(錨綱男氏,昭和34(1959)年から同39(1964)年在職)
(前略)頴娃高校に赴任したのは昭和三十四(1959)年4月4日であった。当時汽車はなく,鹿交通バスに荷物と共に揺られて,未知の任地への不安感を抱きながら車窓より眺めた菜の花のあざやかさが,今だに印象に刻みこまれている。(中略)
新任式は古い木造の講堂(※5)で行われたが床がきしんで崩れ落ちはしないかと心配したことを覚えている。(中略)主な担当は特作(茶)と加工。入料先生より製茶(紅茶)の手ほどきを受けて,どうにか一本立ち出来るようになったのは,二番茶か三番茶にかかる頃であったろうか。当時町内で紅茶の施設があるのは学校だけ(※6)だったので,谷場・粟ヶ窪・飯山の部落よりの委託加工が多く,製茶時期になると夜半に及ぶことがしばしばであった。
二学期に入ると関係町村の学校案内。夜に入ってから三輪車を駆って部落ごとに家庭訪問をして,来年度の生徒募集を行ったが山川高校の農業科と競い合い開聞町が関ヶ原となっていた。当初はこのような生徒募集に対して批判的であったが,家庭に入って話し合ううちに生徒本人の進学の手助けとなり,かつ父兄の教育に対する啓蒙の役割りも果たすことになると悟って,今まで東奔西走された農業科の先生方のご労苦に対し,頭の下がる思いであった。このような苦労の甲斐あって三十五(1960)年四月の新入生は五十名を突破し将来明るい見通しをお互い抱き合ったが,それもつかのまで三十六(1961)年度は県教育庁の方針により農業科は募集停止。代わりに機械科が新設。(中略)三十九(1964)年三月には農業科の最後の卒業生四十五名をめでたく送り出すことが出来て心おきなくその年の春には山川高校に転任して今日に及んでいる。
(中略)農業科生徒全員をあげての谷場茶園の終日実習。家庭科の別科(二年)のある頃は,年に一度は茶摘みの奉仕を気持ちよくしてくれたことも楽しい思い出として残っている。最後の農業科卒業生となった四十五名(※7)は「立つ鳥あとを濁さず」のことわざとおり,学習に実習に,運動によくがんばったものである。(後略)
※1 『創立四十周年記念誌』所収の「回顧座談会」に,宮田氏は「定時制は村立であって,予算は村のお世話になっていた次第でした(中略)農業科のごときは新設だったものですから,畜舎,作業場があるわけじゃないし,教室は養蚕室をなんとか雨が漏らないようにして授業をやりました。農業科のばあい,生徒がおらず,着任と同時に生徒募集に歩き回る有様でした。(中略)わずか8名の農業科の生徒で発足したわけです。(中略)経理面では財源がないものですから,生徒が仕事をし,その報酬で先生方の給料も払い,また生徒は全寮制でしたがその費用もまかなっていたわけです。一種の自活でした。」と発言されている。
※2 『創立四十周年記念誌』所収の「回顧座談会」の下赤謙治氏(昭和29(1954)年3月農業科卒,同年から昭和38(1963)まで農業科在職)によれば,当時の農業科が「施設設備が貧弱でありまして,生徒が週一回農家に働きに行き,その稼ぎで設備を整えてゆきました。その中で特に記憶にあるのは,生徒の稼ぎで四十二万円の温室をつくった時のことです。土曜日がホームプロジェクトの日で,家庭実習の日だったんですが,この日を稼ぎの日と決めて,日当二百五十円ぐらいで稼ぎに出て,その金を持ち寄って温室を作り上げました。」という。
さらに下赤謙治氏の「思い出」(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)所収)から一部を引用する。同誌には「昭和25年~27年頃の頴娃高校の様子」として平面図が挿入されており,農業科教室,紅茶工場,農業科教室,花壇,堆肥舎・畜舎・農具舎,実習地,塩蔵室など農業科関係の建物と,家庭科教室,建築家教室や木工科実習室などが,普通科,電気科関係の施設とともに見て取れる。
「(前略)頴娃高校に定時制が併設され(中略)施設といえば旧青年学校当時の煙草乾燥室,塩蔵室(漬物加工室),新築の農産加工室(紅茶工場),実習農場は,旧工業高校当時の実習地が現Aコープ前のパチンコ店のところに40aと現グラウンドの北側に実習農場がありました。グラウンドの拡張工事のたびに農場がつぶされ,校舎が新築するたびに農場が狭くなったことを記憶している。青年学校当時の荒廃された谷場の茶園と山林50aを開墾して農場を拡張した。そして八十八夜の頃農業科・家庭科の生徒全員による茶摘み作業で賑わったことが楽しい思い出として残っています。毎年11月23日の勤労感謝の日には,農業科全員終日実習で秋の取り入れ作業で年1回の試食会,大きな風呂釜で芋をふかし品種別の試食,豚の解剖実習,豚肉の販売,残りは家庭科の料理実習で豚骨料理,豚汁等で試食会で美味しかった。
(中略)昭和27(1952)年頃だったと記憶しておりますが畜舎,堆肥舎,倉庫が新築され真新しい畜舎に乳牛1頭,生産豚2頭,緬羊2頭が導入され,当番制で1週間泊り込みで家畜の世話,花壇の手入れ,製茶時期になると紅茶製造に職員・生徒ともども夜間作業で深夜まで及ぶこともしばしばあった。家畜当番は毎朝5時起床,お湯沸し,乳房の清掃,搾乳殺菌,牛乳配達と毎日忙しい家畜当番でありました。放課後は,家庭科の生徒まで動員して草刈をし,飼料の確保を図ったものです。」
※3 昭和34年度電気科卒業生の久保(当時)貢氏の「思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)にも「運動場の片隅にはいつも二・三頭の乳牛がつながれていた」とある。
※4 建築科について,『同窓会誌 創立30周年記念号』(1960年発行)所収の浜田彬甫第7代校長(昭和26(1951)年4月1日から同32(1957)年3月31日在職)の「思い出」には,「定時制建築科にありました5課程が家具,左官,構築の3課程となっておりましたものを,更に時代の変遷,地域の要望によりまして,構築のみを建築科として三カ年の別科を四カ年制の本科に変更しました」とある。
※5 久保貢氏の「思い出」(※3参照)によれば,当時「天然記念物」と言われていたという。
※6 頴娃は,鹿児島の茶業を支える,茶の栽培・生産・加工が極めて盛んな地域である。明治時代に発展し大正時代に入って経営合理化や機械製茶への転換が進んだ。昭和10(1935)年1月20日には,頴娃高等学校の前身である頴娃高等公民学校を会場として,茶業振興発展を図り,県下の茶業関係者が参加し,当時の早川知事も臨席した第6回茶業振興大会が開催されている。
昭和30(1955)年代には紅茶生産が推進されるようになり,鹿児島県でも紅茶産業化計画が立てられ優良品種の普及や紅茶品種改善,流通合理化等が図られた。
頴娃町(当時)では既に昭和24(1949)年に紅茶が奨励され始め,緑茶とともに長期振興計画が立てられた。紅茶の栽培製造は昭和26(1951)年に取り組まれ,同30年までに個人工場が3箇所建設されたという。生産面積拡大により昭和37(1962)年度には新農村建設事業で青戸農協に紅茶工場が建てられた。ただし紅茶は国際競争に圧迫され緑茶への転換が進められ衰微,昭和38(1963)年から育苗圃の苗木を焼却処分するなどの措置がとられて同42年に完了,紅茶栽培は行われなくなる。
(参考文献 『頴娃町茶業振興会沿革史』(頴娃町茶業振興会,2002年11月発行),『頴娃町商工業史』(頴娃町商工会,1990年発行))
※7 里中勝氏(昭和39(1964)年農業科卒)「良き時代を思う」(『創立七十周年記念誌』(2001年3月発行)所収)から以下掲載する。
「(前略)当時の農業科は東門を入って直ぐ右手にガラス温室や車庫があり,県道頴娃川辺線沿いに花壇や育苗床等がありました。県道から民有地境を運動場の方に向かうと製茶加工実習室や棟違いの校舎が続き,農業科職員室,農業科の教室,保健室,家畜当番室がありました。これらの前にコンクリート育苗施設などがありました。校舎をさらに西へ進むと鶏舎二階建ての畜舎があり,これらの前に農業科の三教室と家庭科の二教室がありました。
農業科では伝統的に施設の充実のため生徒が農業実習をかねて農家に出向きアルバイトを行いその益金の一部を学校に納入していました。(中略。飯山集落の芋掘り,摺木集落の菜種収穫,谷場集落近くの実習農場での終日実習などを記載されている。)夏休みには毎日のように先生に連れられて時には三年生の先輩に連れられて,家畜審査練習を希望する数人と自転車で町内はもとより指宿・山川・開聞へと牛や豚の審査練習に明け暮れました。(後略。先輩二名の家畜審査競技県大会優勝,全国大会優良四校に入った快挙,愛知県での県外実習などが記載されている。)」
次回は,昭和56(1981)年2月に発行された,創立50周年記念誌記載の文章を基に紹介する予定です。どうぞお楽しみに。
2020年8月5日
2020年08月05日(水)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(4)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(4)-
校長 林 匡
今回は,50年(半世紀)前の創立40周年記念誌から紹介します。一部抜粋になること,表記についてなどは,前回同様です。
II 出典:『創立四十周年記念誌』(昭和46(1971)年3月発行)
1 式辞(上妻芳助第10代校長,昭和42(1967)年4月1日~昭和46(1971)年3月31日在職)
(前略)県立頴娃高等学校は県立頴娃工業学校を母胎にして生まれ,高校としても既に二十三年の歴史をもち,この間にさえ複雑な変遷を経て来たのでありますがこの基になった県立頴娃工業学校は前身を村立頴娃工業学校に,更に村立頴娃青年学校,村立頴娃高等公民学校と遡るのであります。高等公民学校の創立は昭和六(1931)年であり,その第一期生の入学式の行われた五月五日を以て私どもは創立記念日といたしております。
高等公民学校を創立された時の村長樋渡護広先生は陸軍大学校を出て駐英大使館付武官をされた方でありますので,恐らく世界的視野の中で学校創設を企画されたのではなかろうかと推察いたされます。また当時の頴娃村は電気事業も経営されていて,それとの関連において公民学校に電気科・土木科を設置された(※1)もののようで,今のことばで言えば「産学協同」の実践であったと思われます。
ひるがえって本県における旧制中学校の設立を眺めますに,既に古く明治二十七(1894)年には一中が開設され,明治の末期には県立中学校は六校を数え,指導者層の育成に大きな役割を果たしております。がまだ実業の教育までには及んでおりません。
私どもの学校はそれらに比べて時代ははるかに下りますけれども創立の基を職能教育,実学においております。そして創立以来歴代の校長先生の苦心のご経営と多くの先生方野生との皆さんのご努力の結果が今日の発展を招き,現在では生徒数千二百余名,教職員数九十一名,卒業生八千四百余名を擁し,物的施設設備もまた充実するに至りました。これひとえに県ご当局の温かいご指導と地域内各界のご支援によるものでありまして,ここに衷心より厚くお礼申し上げます。
由来,頴娃の地は水に乏しいとされ,学校も創立以来高校発足の当初まで用水の確保には非常に難儀をして来た(※2)のでありますが科学の発達と技術の進歩は,この地に一日二千トンを超える湧水を掘り当て,四百トンに余る清水を満々と湛えるプールがつい先日完成いたしました(※3)。この一時は時代の進運と頴娃高校の発展を端的に象徴するものと信じます。(中略)
私どもは今日の記念日を機会に,人間にとって幸福とは何であるか,また我が校の伝統的精神である開拓精神を今の世に生かすにはどうしたらよいかを深く考えてみたいものであります。そして覚悟を新たにして頴娃高校の一層の発展を図りたいと存じます。(後略)
2 思い出すことなど(豊満ユキエ氏,昭和23(1948)年6月23日~昭和51(1976)年3月31日養護教諭として在職)
本校創立の昭和六(1931)年と申しますと,私は頴娃村立実科高等女学校(※4)一年生で,四月には二年生に進学する年でありましたが,女学校はその年の三月で廃校となり,新たに村立の公民学校が創立されることになることを聞かされ,何とも言えない情けない気持ちになったことを思いおこさずにはおられません。
転校出来ない者は来年の三月まで勉強を続けさせる,卒業だけはさせると言うことでしたが,私は,鹿児島の学校に転校しました。(中略。満洲から昭和21(1946)年に引き上げられたことなど記載。注・『創立六十周年記念誌』(1991年発行)の同氏「思い出」によれば鹿児島産婆看護学校に進学され,その後満洲から引き揚げ後,昭和22(1947)年9月から別府中学校に奉職され,翌年に頴娃工業学校が頴娃高等学校になった時に本校に勤められたとある。)本校に奉職することになろうとは,神ならぬ身の知る由もありませんでした。その赴任の日の私は,モンペ姿に運動靴で朝礼台に立って,挨拶をしたのですが,この時の格好は,ちょっと想像もつかないでしょう。その頃の生徒の皆さんも,わらぞうり,または下駄をはいていたものでしたが,中には,はだしの生徒も多数まじっていたことを思い出します。
当時は通学もたいへんで,川尻(※5)から毎日はだしで本を読みながら通学し,それを卒業まで通して,卒業式には表彰を受けた生徒もいたように記憶しています。(中略)その当時の本校は,下のグラウンドもせまく,運動会等も,今の第一本館と第二本館のあたりを使用していました。また下のグラウンドの北側では薩摩芋を植えたり,今の体育館(注・現在の正門右側駐車場の場所にあった屋内運動場)あたりは高台になっていましたが,そこでは野菜などを作っていたものです。その頃は今のように経済事情もよくありませんでしたので,資金カンパのため,いろんな労力奉仕もしました。
池田湖近くの烏帽子岳に,全校生徒職員で杉の木を植えに行ったり,また,示山(※6)に木材の引き出し作業のため,一晩泊りででかけたりしたものです。また二十六(1951)年のルース台風では,本校もひどい被害を受けました(※7)が,その後片づけに,汗水たらして頑張った生徒さんの姿が思い浮かんでまいります。
卒業前の奉仕作業(※8)は,その頃から毎年続けられていますが,このような苦しい時代の先輩の努力が,今の本校の発展を,もたらした基になったものだと思います。
楽しかった思い出も沢山ありますが,中でも毎年の行事として農業科の謝恩会が施行されるたびに私も呼ばれて,家庭科(※9)の皆さんの手作りで,ぶたとじゃがいも,こんにゃく等のおにしめや,おすし等をおいしく戴きながら,思い出話に花を咲かせたことも忘れえぬ思い出となっております。(後略)
※1 当時の頴娃村は電気事業も経営
頴娃町内を流れる高取川は,吉見山の南斜面の湧き水を水源として,河道流域の出水を集め豊かな水量を保つ。高さ18mの伊瀬知滝を流れ落ちて南流し,高取下で河道を大きく西に変えて馬渡川に合流。江戸時代から用水が造られ新田の灌漑用水となっている。大正9(1920)年に伊瀬知滝の水力を利用して薩南水電株式会社の発電所が建設されたが,昭和18(1943)年,九州配電会社に統合されて廃止された。(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版,頴娃町,1990年)
また『創立六十周年記念誌』(1991年3月発行)に転載された,昭和53(1978)年4月「わが青春の母校・青春有情」(鹿児島新報社)の中には「樋渡(注・頴娃村立高等公民学校創立に当たった当時の頴娃村長)はまた知覧の麓川発電を買収して,村営の「薩南水電株式会社」をつくり,全戸もれなく配線してランプ生活を追放した。発電所は電気科の技能教育に大いに役立った。日本広しと言えども発電所を持っていた学校は頴娃だけではなかろうか。学校に実習の設備が乏しかったため,電気科の生徒は夏休みになると自転車のペダルを踏んで,十二【機種依存文字】の山道を越え,知覧の発電所に出かけ,一週間から十日間泊まり込んで実習した。頴娃町上別府の里中新吉は電気科の一回卒(昭和8(1933)年)。「実習で鍛えられたので卒業と同時に日本水電に入社したが,おかげで困るようなことはなかった」という。卒業生の評判はどこの職場でもよかった。」と記載されている。井上政己氏(昭和8年土木科卒)も「電気科は村営の発電所で,土木科は辺木園先生や村土木課で測量をみっちり仕込まれた。県土木課出張員の手先にもなって技術をみがいた。」と記している(『創立四十周年記念誌』所収「胸像・村長と校長と学生」)。
薩南水電に関して,平成11(1999)年から同18(2006)年度に在職された福永勇二氏は,3年担任の時に「頴娃高校の電気科は鹿児島県で最も古い伝統を誇り,設立には頴娃村(現・南九州市)伊瀬知にあったといわれる水力発電所が大きく関わっている。これを調査して,ホームページにまとめて情報発信してみないか!」と,課題研究のテーマ設定の一つとして生徒に呼びかけ,これに3名の生徒が興味を持ち,発電所跡地の探索などを経て素晴らしい調査研究結果のページが作成されたことを記されている(『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。
※2 創立以来高校発足の当初まで用水の確保には非常に難儀
昭和6(1931)年から同23(1948)年まで在職された貴島テル氏「創立の頃の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)には「その頃の悩みの種は何と云っても水の無いことであった。料理の実習ともなると水汲当番は朝早くから汲んで教室の後ろに用意しておく心がけのよさ。可哀想なのは暑い盛り埃の立つグラウンドで教練を終り汗まみれになって我先にと水のみにかけ込んでくる男生徒が,からっぽになった水瓶をうらめしそうに見ながら小使室から出て行く姿はあわれであった。」とある。
現在,校内に行幸記念水道碑が残る(第1回注9参照)。「昭和10(1935)年秋には畏(かしこ)くも御使御差遣の光栄に浴し,記念事業として水道が布設され,水不足の学園も至る処に清水がカックより湧き」(松永友義氏「30周年を顧みて」『同窓会誌 30周年記念号』1960年12月発行)とみえるが,この時もやはり水での苦労は続いていた。先の貴島氏の文を続ける。
「やがて新しい校舎も次々と建ち,学校運営も軌道に乗ると村外からの入学志願者も多く,県内は勿論県外からの参観者もひんぱんに訪れ遂には勅使御差遣と云う大変なお客様をお迎えするまでになった。しかし当時三俣には旅館も食堂もなく,校内での宴会は絶対禁止されてはいたが,来客の昼食接待などは引受けねばならなかった。その度に女生徒は水桶をかついで水之元に走」たとある。その後,「水の問題も飯山部落の自然湧水を水源とする簡易水道が,戦死された辺木園先生と土木科の生徒のなみなみならぬ苦心と努力によって完成し,始めて水道の蛇口から水が出た瞬間の歓声。水に苦労した者のみの知るよろこびの叫びでもあった。」と記されている。
土木科の辺木園氏と生徒の活躍に関して『創立六十周年記念誌』に転載された「わが青春の母校・青春有情」(鹿児島新報社)によれば「学校で一番の悩みは水の問題だった。学校には水道も井戸もなかった。(中略)多田校長は後援会長の鶴留盛衛村会議員と相談,水道施設をつくってくれるよう村長にたのんだ。だが,村政が苦しいのでとてもそんな財源はないという返事。思い余った多田は材料代だけなんとかしてくれたら,学校で水道工事を引受けるからともちかけ,農工銀行から一万八千円を引き出すことに成功した。飯山部落に水源を見つけ,早速工事用のエタニットパイプを購入,土木科担任の辺木園保が工事の設計,監督にあたり,土木科の生徒が学校の裁縫室に泊まり込み,昼間は野外作業,夜は図面書きと昼夜兼行の工事が進められた。」とある。
この作業と図面書きは,新吉義則氏(昭和11(1936)年土木課卒)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』所収)による。「当時の学校は水が乏しく,飲用は中村部落のもらい水,用水はタンクの雨水であった。飯山の川から取水して水道を敷設する事となり,その測量・設計を土木二年の者が学校に泊まりこみ,昼間は野外作業をし,夜は図面を書いたのですが,その内業が終らぬ内に夜が明けることもあった。当番制で家事室で炊飯し,弁当持ちで出かけていた」と記述されている。
ただ以後も,水の確保には相当難儀されたことが分かる。野添ヲサワ氏(昭和12(1937)年家政科卒,同23(1948)年4月から同56(1981)年3月まで用務員として在職)の「思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)には「昭和十五年(1940)頃水道は敷設されてはいたものの,(昭和23年頃は)くる日も断水,また断水,生徒数は今の半数ぐらい(注・昭和45年度の生徒数は,『学校要覧』によれば普通科437人,機械科287人,電気科246人,建築科119人,土木科123人の計1,212人)だったと思います。約600名の飲料水を確保するのに,松虫のジイジイなく真夏の太陽をあびながら額の汗を拭き拭き部落の方々と列をなしての中村までの水汲み,(中略)私共の水タンゴをになった姿を見るや水桶をとりまき,われ先にとひしゃくをうばい合う生徒の輪,十分間の休みに見る見るうちに水桶はからっぽ。そのつどため息が出る始末。(中略)それから七年,昭和三十(1955)年頃だったと思います。第二水道工事がはじまり,水汲みからやっと解放された時の気持,書きますときりがありません。」と当時の苦労が記されている。なお,汲んできた水は,旧軍隊から払い下げられた十石入りの大きな瓶だったと,野沢氏は回顧座談会で話されている。
薩南台地は,四万十層や第三紀安山岩類を基盤に,阿多火砕流を主体とした溶結凝灰岩の台地で,姶良カルデラの入戸火砕流がシラス層を形成する。諸火山の活動で,火山灰や火山礫が風積して台地を覆っているが,頴娃町域を広く覆う土壌は,開聞岳の噴火による黒色火山灰(クロボク)とコラ層である。コラ層は透水性がなく,植物の毛根の発育を阻害する不良土壌のため,昭和27(1952)年から特殊土壌法の適用を受けて土地改良事業(コラ排除)が行われた。
旧頴娃町内には複数の河川があるが,水の確保は課題であった。江戸時代以降,灌漑用水路も開かれてはいたが例えば,示山から石垣浜まで全長9,500mの石垣川は,河川だが,途中から潜流となり谷壁の深い涸れ川となっているため,かつて周辺集落の人は,涸谷に堰を築いて水たまりを造り,雨水をためて日用水としていた。「水がなくては農業の近代化は考えられないという願いから,昭和45(1970)年,指宿市・山川町・開聞町を含めた6,072㏊の畑地灌漑事業が,国営・県営事業として始められた。集川・高取川・馬渡川の河水を自然流下によって池田湖に誘水し,池田湖を調整池として揚水して,各市町のファームポンド(農業用ため池)に導水するものである。」(『頴娃町郷土誌』改訂版,頴娃町,1990年)とあるように,生活・産業の上で必要な土壌改良や用水確保が進められて現在に至る。
※3 プール建設,40周年事業
創立40周年事業として樋渡村長・多田校長胸像の移築,庭園造成とプール建設がなされた(第1回注6参照)。なおこの他に,元PTA会長祝迫敏男氏など関係者の尽力により,歴代校長写真9枚が校長室に掲げられている(『創立四十周年記念誌』)。
※4 頴娃村立実科高等女学校
昭和6(1931)年当時,「女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室とを借りて勉強していました。」(『創立四十周年記念誌』所収「回顧座談会」豊満ユキエ氏)とあるように,この女学校は大正12(1923)年5月,頴娃小学校に併置されていた。頴娃小学校は昭和6年に公民学校に統一される。
※5 西頴娃駅まで国鉄が延伸されたのは昭和35(1960)年である(第3回注4参照)。遠隔地からの登校について,例えば『創立五十周年記念誌』(1981年発行)に寄稿された福留善秀氏(昭和34(1959)年建築科卒,同37(1962)年から同54(1979)年在職)は「昭和31(1956)年頃指宿枕崎線は山川駅迄でしたので,身動きもできないほどすしづめにされ,舗装でもない凸凹の路面を南鉄,国鉄バスで通学するのはまだ良い方でした。遠くは指宿池田,川尻徳光,知覧青戸方面から,炎天下に石コロの坂道をオンボロの自転車を押しながら又,雨の日ハンドルをとられて転倒したり,カーブの多い下り坂で土手に突こんだりしながらの通学は忘れられない思い出でもある。」と記されている。
また,それ以前の状況について,例えば昭和24(1949)4月に入学された浜島幸盛氏(普通科三回卒。昭和42(1967)年から同44年度数学科在職)によれば,「大学進学を目標に,片道十五粁(km)余りを毎日先輩や,友人達と自転車で通学しました。雨の日も風の日も,瀬平の七曲では曲芸をやり,時には自動車と競争し,真夏の下校時には道路わきの木陰に休み,アイスキャンデー売りを待ったり,秋の天気の良い時には,四時頃から開聞岳に挑戦したり,楽しく通学したものでした。道路も,今のように整備されておらず,考えてみれば通学だけでも大変だったろうと,もし今だったらと思うくらいです。しかし(中略)先輩や同級生の中には,開聞からはもちろん,川尻からも教科書を片手にひろげ,勉強しながら徒歩で通学する人が何人もありました。先輩の中には,クラブ活動をやりながら,現役で東大・京大・九大に合格し,後輩達は,さらにいろいろな方面に進んでいったようです。」と記されている。
※6 示山
標高460m,頴娃町北に位置し薩南山地の一部を形成。昭和44年3月,示山から指宿市大迫まで千貫平など尾根伝いに指宿スカイラインが開通した。
※7 ルース台風被害
10月14日にあったこの台風被害については,周年記念誌に度々記載されている。例えば,『創立五十周年記念誌』所収の牛垣卓郎氏(昭和22(1947)年から同36(1961)度年在職)「青春の譜」には「われわれの眼前で工業科の校舎を吹き倒し,実験室,本館の屋根を吹き飛ばす猛威をふるって去っていった。浜田校長は職場開拓のため上京不在中の出来事であった。翌日から全校あげての復旧作業に汗を流す日が続いた。(中略)PTAは資金づくりとして「カライモ」を集めた。そして県内でも珍しい鉄筋二階建ての白亜の殿堂(現在の本館)が実現したのである。本館にアクセントをつけるため村田教頭は山水の池を設計し自らスコップを握って作業を進めた。」と記す。同氏の回顧談(『創立四十周年記念誌』)には「一部地元負担ということで,PTAも甘藷を出し合ったりして協力して下さいました。県下でも戦後鉄筋が作られたのは,佐多の小学校に次いで二番目ではなかったかと思います。」とある。災害復旧工事でこの本館が完工したのは昭和28(1953)年10月だった。
当時のことについて,浜田彬甫第7代校長(昭和26(1951)年4月1日~同32(1957)年3月31日在職)は「職場開拓のため,九州の官庁,会社歴訪中ルース台風の被害を熊本放送局で聞き,急いで帰途についたのですが,鉄道,道路の破損で3日後帰校出来ました。無残に倒壊した2棟の教室,半壊した電気実験室,現在の電気実験室,農業科教室,寄宿舎,校内住宅等その他全棟の屋根の大被害には目を蔽(おお)いたく茫然自失の策無きを嘆きましたが(中略。関係者の善後策等記載)校舎の被害後片づけ,応急修理は生徒職員の手で2日間で終え,翌日から正規の授業に復し得たことは感謝であり,又幸甚」と述べ,以下鉄筋校舎新築の運動を記載されている。
※8 卒業前の奉仕作業
久保政司第9代校長(昭和37(1962)年4月1日~同42(1967)年3月31日在職)の「高校急増期五ヶ年間の思い出」(『創立四十周年記念誌』所収)に「毎年卒業生諸君が,卒業記念の奉仕作業で整備してくれたものがあります。校門の移動と旧校門跡地の造園。前庭の芝生庭園の造成。運動場の樟並木植栽。東校門の改造等でありました。卒業間近の二月,生徒と教師が一緒になってよく動いてくれました。」とある。
この東門について,小原争時氏(昭和34(1959)年土木科卒,同36(1961)年から47(1971)年在職)は「先生方の指揮の元,東門工事の施行実習は,大きな思い出である。今思い返すと,後輩達は寒い中良くやったものだと心が熱くなる。」と記している(『創立七十周年記念誌』平成13(2001)年3月発行)。
※9 定時制家庭科
村立頴娃高等家政学校は,昭和24(1949)年4月,村立定時制高等学校別科とされ,同25年4月,県立に移管された。昭和31(1956)年4月,定時制本科前期課程となり,女子教育での実績を重ねたが,同36(1961)年4月,定時制農業科とともに募集停止となる。昭和37年3月までの定時制家庭科卒業生は533名。
なお,家政学校卒業生は昭和24年3月までで1,295名。昭和18(1943)年3月卒業の第2回生福吉ツギ子氏が『創立五十周年記念誌』に「思い出の記」として,戦時中の興亜奉公日(5月1日)や農作業,労働奉仕日,毎月8日の代用食の日のことなどを記されている。
次回は,創立40周年記念誌などから,上記の家庭科をはじめ,かつての定時制農業科,建築科のことなどを紹介する予定です。お楽しみに。
2020年8月4日
2020年08月04日(火)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(3)-
校長 林 匡
今回は,創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次,第5代久木田実,第6代武政治先生の回顧録を紹介します。アジア太平洋戦争直後の困難な状況,関係者の方々の苦労や熱意などが伝わります。
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
3 頴娃工業時代の思い出(榎田栄次校長,昭和21(1946)年1月31日~昭和22(1947)年3月30日在職)
(前略)私は昭和21(1946)年1月末で頴娃工業学校長(※1)として赴任を命ぜられたのですが(中略)赴任してみると教室は戦災で焼け土台のみ,乾蚕倉庫だった3階の建築は白蟻の巣,台風で瓦はふきとばされ青天井の見える講堂を区切って仮の教室,隣りの講義が聞こえて生徒も大迷惑だった筈,職員室は3階建物付属の廊下(※2),全く惨憺たるものです。そのような惨状のもとに生徒諸君は何か知ら戦後の不安を感じつつ勉強したものです。しかし復興は急がねばなりません。
仮の校舎を建てるため頴娃町(※3)から間伐材を貰い受け数里の山奥まで全員切り出しに行って平木を作ってかついで来たこともある。食糧増産にため藷作りもやった。焼校舎の土台のあい間あい間に南瓜を作ったのもその頃である。そのように働きつつ学ぶという学校の姿も悪いものではないと考えます。(中略)あの時代の頴娃工業の先生は本当によく協力してくれました。ただ校舎も校具もないあの時代は学校の一致結束のみでその苦難を切り抜ける以外に途はないのですから仕方ないようなものの私常に感謝するのみでした。(後略)
4 思い出(久木田実校長,昭和22(1947)年3月31日~昭和23(1948)年3月31日在職)
私は昭和21(1946)年4月頴娃工業学校に転任を命ぜられ,終戦直後のこんとんたる世相の中を家族は加治木に残して(中略)加治木駅から汽車に乗った。山川駅(※4)につくと人々が一生懸命走るので自分も走ってみると,トラックは既に満員,仕方がないので次のトラックを待ちようやく乗車,荒むしろを敷いた木炭車で上り坂になると,乗客はみな降りてトラックの後押しをせねばならぬボロ自動車で,お客か人夫かわからないような仕事を何回かくり返し,ようやく頴娃に着いた。終戦の年の秋,薩摩半島に上陸した台風の被害は余りにも甚大で,その復旧作業は殆んど出来ておらず,倒壊家屋の残骸がいたる所に転がっていた。
牧の内の頴娃工業学校に着いてみると,ここも同様で校舎は空襲と台風のため,見るかげもなく,職員室は建物の横に取り付けた,さしかけ屋根で,硝子窓もなく吹き通しで,その中に板の長腰掛に十数人の職員が雑居しているという状態であった。生徒は頴娃を中心として近隣の町村から集まり,純朴で非常に元気のある生徒たちばかりでたのもしい限りであった。(中略)榎田校長を中心として授業の傍ら倒壊校舎の片付けや,バラック校舎の新築等目まぐるしいうちに一年が過ぎ,昭和22(1947)年4月,新制中学校発足(※5)に伴い,榎田校長は川内北中学校に転任され,私がその後任校長を命ぜられて責任の重さを感じた次第であった。(中略)愈々(いよいよ)校舎本建築の計画が進み(中略)焼失校舎の基礎の上にそのまま新築され,竣工式も無事終わったと思う間もなく,今度は昭和23(1948)年4月から新制高等学校として発足することになり,高校設立準備の仕事が始まった。
(中略)工業学校と女学校を統合して全日制とし,青年学校を定時制とする新制高校を設立し,設置学科としては普通科,電気,土木科の外に家庭科,農業科を置くこととに村当局とも意見の一致を得て着々と準備を進めていたが,県の設置科に対する方針が変更になり,普通科の外に実業科は二科しか設置出来ないことになった。
村当局は土木科を廃止して農業科を設置したいとの希望であった。(中略)私は終戦後のわが国の復旧や,その他の面から考え,どうしても土木科は設置すべきである,今ここで土木科を廃止したら土木科の備品は他の同科設置校に保管転換となり,将来再び本校に土木科を設置することは困難であることを思い,万難を排して土木科存置を主張し(中略)県における最終審議の結果,全日制には普通科,電気,土木科をおき,青年学校の設置科を定時制とし,農業科は必要ならば後日設置することに決定した時は中村後援会長と手を取り合って喜んだ。そして愈々昭和23(1948)年4月から鹿児島県立頴娃高等学校として開校することになり(※6),ここに画期的学制改革が行われることになった。(後略)
5 回顧(武政治校長,昭和23(1948)年4月1日~昭和26(1951)年3月31日在職)
(前略)当時の憶い出として,最も印象に残っていることは,卒業生の職場開拓と,電気主任技術者第三種免状を獲得した運動である。
現今では電気主任技術者の資格は国家資格に合格しなければ得られないが,当時は商工省(※7)の指定学校であり,我が頴娃工業の卒業生には資格が認められていなかった。この不合理は就職に大きなハンディキャップとなっていたので,何とかして指定学校に昇格させねばならないと思った。色々苦心をし(※8),鹿児島工業に協力を求めて1年がかりで目的を達成し,(中略)盛大に祝賀大運動会を催したものだった。
当時の職員,生徒は校舎こそ貧弱であったが,協力一致しよく働らき,よく勉強し,真に学校が一丸となって向上の意気に燃えていた。(中略)現役から毎年東大や一橋大などに合格者を出したことも,本人の素質のよさもさることながら,やはり学校の意気が旺んであったことにもよると思う。
又,本校の前身である高等公民学校や,頴娃工業の卒業生は戦時中に巣立ったために,その大部分が満洲に就職したものである。従って内地に同窓生の地盤を全くもっていない。それらの関係から北九州,阪神,京浜工業地帯への就職開拓には並々ならぬ苦労があった。頴娃高校に工業課程があることをほとんどの会社が知らない,それよりも頴娃という字をそのまま読める人事課長が一人もいなかったのである。殊に朝鮮戦争前までは,我が国の会社工場は殆ど戦災で壊滅に瀕したまま虚脱状態にあって,復員者の受入れもままならず,新規採用など全く考えてもいなかった時代であった。大阪の桜島にある住友電気で断られ,あの巨大な工場の残骸を見ながら日立造船所に向って炎天下をトボトボと歩いて行ったことを思うと,昨今の工業界の好況(※9)と思い合わせ全く隔世の感がする。
就職斡旋の旅費もなかった。(中略)三週間の就職運動日程に,村当局に融資してもらった2万円を懐にして出かけていったが,宿費が足りなく駅のベンチを野宿みたいにして歩き廻ったことを憶い出す。北九州,阪神をまわって漸く東京までたどりつき,当時好況にあった郷土の大先輩アポロ商会の大迫社長の御厚意に接した時は,今考えても涙が出るほど嬉しかった。 色々次々に追憶の種はつきないが,日本の目醒しい復興と共に,本校もその面目を一新し,現在では,内容外観共に県下の高校中屈指の高校に発展したことは誠に喜びに堪えない。(後略)
※1 頴娃工業学校
昭和16(1941)年4月1日に村立頴娃青年学校から電気科・土木科が村立鹿児島県頴娃工業学校として独立。昭和19(1944)年4月県立移管。
平川常彦第2代校長(昭和16年6月14日~昭和18年12月9日在職)の「思い出すことなど」(『創立四十周年記念誌』1971年3月発行)には,「当時村立の甲種工業学校はおそらく全国で始めてのこと」とある。当時の状況は「青年学校の二三教室を拝借して職員数名,第一回生徒電気,土木各四十名位というわけでした。(中略)物資は大変窮屈で実習設備など不十分であり,職員組織も不完全でした。土木科には青年学校時代使用した測量機械が若干ありましたが,電気科においてはモーター一台さえもないという有様」だったという。
頴娃工業学校の本館は,昭和16年12月起工,同17年12月上棟式を行う。平川校長によれば「青年学校の西隣りに敷地が定められ,その地ならしに取りかかることとなり,われらの校舎はわれらの手でとの気構えから生徒諸君は毎日モッコで土を運びました。青年学校の諸君,さては村役場の皆さん達までこれに参加して下さいました。」とある。昭和19(1944)年5月12日,新校舎で授業が開始されるが,翌年戦災に遭う。県立頴娃工業学校は昭和23(1948)年3月閉校。同年4月,電気・土木・普通科の全日制鹿児島県頴娃高等学校が開校認可される。
※2 戦災,青天井の見える講堂
昭和20(1945)年8月8日,空襲によって本館全焼。8月31日に寄宿舎を教室に利用して授業を開始することとなったが,9月17日の枕崎台風で乾繭倉庫と講堂の他は全壊した。この空襲前後や枕崎台風について,昭和22(1947)年3月土木科卒の中村三郎氏の「ありし日の学舎」【機種依存文字】と田中瑞穂氏の「「頴娃工業」の思い出」【機種依存文字】(『創立五十周年記念誌』(1981年2月発行)記載),鶴田周文氏の「思い出」【機種依存文字】(『創立四十周年記念誌』記載)から以下引用する。
(1) (昭和19(1944)年入学)「今運動場の国道沿いで知覧街道の松の木で建設した木造2階建の素晴らしい校舎に入校出来た。(中略)2年生になってからは同級生も動員にかり出され学校には宮脇,頴娃,九玉校出身の生徒だけが学校に残り,本校の備品,大切な書類測量器械等何事でも背負って出られるように待機の日々が続いた。(中略。1度目の機銃掃射,2度目の爆撃で電気科生徒1名と校舎前に畑仕事に来ていた女児が亡くなったことなど記載)3回目の空襲を受けその時は,2人か3人位の生徒と女の先生が残っていた。たまたま事務室には,非常持出の書類等を置いてあることを先生が思いつき,2階は炎で燃え盛る中を生徒が勇敢にもその書類を持出した事を今でも覚えています。(中略)枕崎台風の襲来で校舎は雨もりし,隙間から入いる木枯の風は冷たく,それに教科書はお粗末なもの,字を書くにもノートはないし寄せ集め紙でノートを作ったものでした。」
(2) 「昭和19年4月県立頴娃工業学校土木科1年へ53名が,新築新装の木造2回建校舎に県立移管初の一期生として入学した。(中略,戦時下の状況,学徒動員などを記載されている。)忘れもしない8月8日,我々は2回目の学徒動員で赤崎部落(牧之内区)の県道沿いで兵隊とともに防空壕を掘さく中,異様な爆音と機銃の音とともに敵機来襲,その間7~8分位と思う。壕の中からようやく外に出ると,附近部落民より「頴娃工業が燃えている」との情報,急ぎ赤崎の岡の上に登る。確かに学校が燃えている。(中略)作業を終え急ぎ学校にたどり着くと,後片もなく全焼で同僚の留守班約10名が教職員とともに茫然と立ちすくんでいたことを記憶している。終戦とともに学徒動員の上級生も帰校し全校生徒はなお学校の後片付け等の作業が続く,頴娃村有林の示山で炭火(や)き,仮校舎建築用材の切出し,屋根葺用平木の原木を新牧の製材工場へ運搬,そして平木の製品を学校まで人肩運搬,又薩南工業建築科より授業用机,椅子の人肩運搬,そして仮校舎焼残りの旧講堂,倉庫等で戦時から戦後の学生生活が始まった。教科書はなく,正常な授業はできない毎日でした。そして昭和22(1947)年3月43名が土木科を卒業した。卒業時担任の先生が言われた。「皆さんは今,土木科3年を卒業するが戦時中のため2年の1学期課程の程度しか不幸にしてできていない。社会で努力してもらいたい」との言葉を覚えている。」
(3) 「昭和十九年大陸への就職を夢みて進学を立志,運よく入学出来ましたが(中略)戦雲急を告げる頃とあって,先輩諸氏の土木科は長崎川棚へ,電気科は佐世保へと学徒動員され,一年生の我々のみが留守番役として学校に残った。(中略)青戸飛行場の整地作業,そして赤崎高峰山での陣地構築へとすぐに動員された。(中略)この頃は,殆ど,授業らしき授業はなく軍事教練が主であった。そして二年の一学期終戦を迎え,二学期より,再び,学校生活が始まった。しかし,木造二階建の新校舎は,戦火のため灰と化し,基礎コンクリートの残がいだけが,見るも哀れな姿で残っていた。(中略)これからの授業が大変であった。幸いにして,隣接の旧青年学校の講堂が戦火から焼残り,全校生徒が衝立仕切りの仮教室で,授業が始まったのである。隣教室での授業が騒ぞうしく,とても落着いて勉強が出来るものではなかった。また,雨の日等は,雨漏りがひどく,授業中止の時もあった。
やっと三年の卒業年次に落着いた教室が町立乾繭倉庫のボイラー室である。これがまたひどい,土ほこりのする土間教室で,教室の中央には大きなボイラー管が突き出ており,時折り頭を打つ人もいた。机は,四・五名宛の長机であった。また実習用の測量器械は戦火で焼け,古びた器械が,二・三台しか残っていなかった。(中略。鹿児島市復興部に就職され連日測量をされたことなど記載)このような学校生活を送った私等に社会人として何が出来るであろうか何も解らなかった。基礎知識の足りない私は,只々一生懸命頑張った。校訓であった「誠と熱」をもって…。」
枕崎台風後の講堂の状況については,昭和21(1946)年から36(1961)年まで在職された土木科担当の鮫島宗起氏も「講堂は倒れなかったが,屋根瓦が吹き飛んでいても,教室がないので,それを四つに仕切って教室に使用していた。雨の時には漏るので机を移動してしのいでいた。」(『創立四十周年記念誌』)と記されている。
また,薩南工業からの机・椅子の提供一件は,中村一平元PTA会長によれば「(榎田)校長と私が机を作ってもらうつもりで,薩南工業に相談にまいりましたところ,幸いに枕崎水産のために作ってあった机,いすがありました。その机といすを懇望して譲ってもらいました。それで全生徒を徒歩で知覧までやり,知覧から机,いすをかつがせて持ってきました。」という。(回顧座談会『創立四十周年記念誌』昭和46(1971)年3月発行)
※3 昭和25(1950)年に頴娃村から町制施行し頴娃町となる。
※4 国鉄指宿線は,昭和5(1930)年に西鹿児島(現鹿児島中央)駅-五位野駅間で開業,同9年(1934)年12月に指宿駅まで延伸され,翌年に指宿-枕崎間の国鉄バスが運行された。鉄道が昭和11(1936)年3月に山川駅まで延伸されると,バスも山川港-枕崎間となる。昭和32(1957)年に枕崎線起工,翌年に成川トンネルが開通し,同35(1960)年3月に指宿線山川駅-西頴娃駅間が開通した。昭和37(1962)年3月には水成川まで完成,山川から枕崎駅まで全線開通したのは昭和38(1963)年10月である(西鹿児島-枕崎駅,指宿枕崎線と線名改称)。
頴娃村(町)では,大正末から期成同盟会も結成されたように,早くから鉄道敷設の要望は強かった。全面開通の祝賀会は頴娃高校体育館で行われている。
(参考文献『目で見る南薩の100年』(郷土出版社,2004年),『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年))
※5 新制中学校発足
山内廣行氏(昭和27(1952)年4月頴娃高校入学,昭和31(1956)年普通科卒)によれば「入学式のため正門をくぐったのは2回目です。(中略)最初は,昭和24(1949)年に頴娃中学校に入学した時でした。当時は新制中学校として発足間もない頃で校舎が整備されていなかったため,我々1年生は頴娃高校の校舎を借りて授業が始まったからです。当時の高校は,学制改革等で旧制中学からの編入生も多く,我々中学生も加わり,とても賑やかな学校風景でありました。そして,二度目は晴れて頴娃高校生として正門をくぐりました。」とのこと(「80年の歴史に光を!」『創立80周年記念誌』2011年3月発行)。頴娃中学校は,昭和22(1947)年5月,開校式を行い頴娃・宮脇・九玉・粟ヶ窪(一部)の各小学校を校区として分校授業を行い,同年10月,用地買収を始め,同23年10月から順次校舎が落成していく。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※6 昭和23(1948)年4月,普通科・電気科・土木科3科の全日制県立頴娃高等学校として開校,県立頴娃工業学校と村立頴娃高等家政女学校(昭和15(1940)年4月,村立頴娃青年学校家庭科が村立頴娃青年学校から独立)の敷地を合併。青年学校は昭和22(1947)年度末をもって完全廃止となったが,頴娃青年学校の設置科は定時制とされ,昭和24(1949)年4月,農業科を本科,家庭科・建築科を別科とする村立(翌年県立移管)定時制高等学校が併置された。全日制を第1部,定時制を第2部と称した。
※7 商工省は大正14(1925)年設立。商工業の奨励や統制を担う。昭和18(1943)年,軍需省・農商省に改組,戦後間もない昭和20(1945)年8月,商工省再設置。昭和24(1949)年,通商産業省改組,平成13(2001)年に現在の経済産業省へ移行した。
(参考文献 百瀬孝著『事典昭和戦後の日本』(吉川弘文館,1995年)等)
※8 昭和23(1948)年に電気科教職員として赴任された京田薩男氏は「電気科の実習室は乾繭倉庫跡で焼け残った計器とモーターが少々というあわれな状態だった。しかし電気科は鹿児島県で最も歴史が古く,県下に鹿児島工業高校と二校しかなく,優秀な人材が集まり,戦場より復員してきた年配者もいたが,みなファイト満々で,先生と生徒の間も兄弟のような仲で,(中略)職員,生徒,父兄が一体となって学校を建設するのだという意気と連帯感があったからだと思う。(中略)24年4月に電気科卒業生に電気事業主任技術者資格第三種免許が下附されたが,それまでが大変で設備を規準にあうよう充実するため,父兄に寄附をお願いするとともに,生徒も青戸の先の「しめじ山」の町有林を伐採して薪にして資金作りをしたが,電気科職員生徒全員が山に泊りこんで汗みどろになって働いたことなど懐かしく思い出される」と当時のことを記されている(『創立五十周年記念誌』)。
※9 昨今の工業界の好況
敗戦後戦前の1935年までに到達していた状況からはるかに後退した工業化について,朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)の特需を経て50年代半ばに高度成長が始まる。1930(昭和5)年代後半から1970(昭和45)年代初頭に至る時期の,日本の産業化の王者は機械器具産業であったこと,戦時を超えて高度成長期を経過する時期において,機械産業と金属産業が全産出額中上位を占めることが多かったこと,しかもその趨勢は時とともに増す勢いにあり、これら2者のリーダーシップを握ったのが機械産業であったこと,また建築・土木もこれら両産業ほどではないが,占有率の上昇が目立ったことなどが指摘されている。
(参考文献 深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座日本経済の歴史5 現代1 日中戦争期から高度成長期(1937-1972)』岩波書店,2018年)
次回は,注でも引用してきました,創立40周年記念誌から紹介します。今から50年(半世紀)前のものです。南薩特有の土壌で水に苦労されたお話なども関連して掲載予定です。お楽しみに。
2020年8月3日
2020年08月03日(月)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(2)-
校長 林 匡
今回は,同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を掲載します。
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
2 開校当時の思出(多田茂校長,昭和6(1931)年4月1日~昭和16(1941)年6月13日,頴娃村立高等公民学校,頴娃村立青年学校,村立鹿児島県頴娃工業学校在職)
頴娃の公民学校が全村民の殿堂として創設されたのは昭和6(1931)年(※1)4月のことでした。それに先だって当時の頴娃村長樋渡盛広氏は学校長の推薦を鹿児島農林専門学校(※2)長吉村清尚先生に委嘱された。それで私の母校では何人を其の初代校長として推薦するかにつき種々と協議された。と云うのは当時母校としては従来農業学校方面の校長は多数あり経験済みであるが,公民学校長として男女共学(※3)の学校経営者としての校長に就いては実のところ未経験で,しかも当時の状勢からして日本の将来の教育上此の教育を重視せねばならぬ事情にあったため,其の詮考には相当慎重であった様である。
当時私は山口県小郡農業学校に在職中で教員としての経験もまだ僅に六年半の一平教員でありましたが,其の私に吉村校長先生から其の大任を引き受けるよう御懇切なる御書翰を頂いた。(中略)遂に私も意を決して御引受けする事として兎に角発令に先だって母校並に頴娃村(※4)御当局と事前に協議するため,現地視察を兼ねて遙々(はるばる)頴娃に赴いた。
ところで頴娃に行って驚いた事は学校の敷地は全村民挙(こぞ)っての涙ぐましき御奉仕によって略(ほ)ぼ完成されて居ったが,あと1カ月を待たずして開校されると云うのに校舎とて一棟も完成されて居らず僅に村内の久玉小学校の古るき校舎一棟が移転される事となって其の移転改築中で他に数棟と附属建物が新築される計画で其の木取り等に多忙を極めて居る時であった。
(中略)
此の全村統一の公民学校が建設せられる前の公民学校の教育の実状はどうであったかと云うと,当時は村内各小学校に併設せられた公民学校とは名ばかりの所謂(いわゆる)補習教育で専任職員は各校とも只一人他は全部小学校教員の兼任で其の場ふさぎの教育が実施されて居ったのである。只女子の教育は中央の頴娃小学校に実科高等女学校が併設せられて居って頴娃村女子教育の根幹をなして居った様な実状であった。
それが昭和6(1931)年を限りとして実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止(※5)せらるる事となり,前期の通り中央なる三俣原頭に全村統一の公民学校が創設される事となり,毎日登校する通年生と仕事の都合を計って教育せらる期間生とが設置せられ通学生こは実科女学校と代るべき女学部と男子学部には電気,土木,家具,農業の各専門科と普通科が設置せられ,職員組織は(中略)其の数も専任20名兼任15名と云う膨大な公民学校が出来上がったのである。
(中略)役場の食堂を学校の臨時事務室として開校に先だって通年生の募集を開始する事となり役場と学校と一体となり,早朝より夜間に及ぶ涙ぐましき奮斗が毎日の様に繰り返され,漸く昭和6(1931)年4月10日開校の運びとなり,当日は乾繭(かんけん)組合の集繭所を開校式場として(中略)霊峰薩摩富士を眼前にして盛大裏に行われた(※6)。開校後も総ゆる苦難を克服して,開校前に劣らぬ涙ぐましき奮闘は村御当局,学校職員,生徒打って一丸となって建設の歩が続けられたのである。即ち校庭の一木一草に至るまで否村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて(※7)建設の魂が打ち込まれていった。従って職員と生徒との間は全く魂と魂の接触其のもので打てば響くと云う教育であった。
(中略)
越えて昭和8(1933)年には第1回卒業の電気科,土木科生は大陸発展の先駆として大陸に渡り,彼等の何れもが中国語の教育を受けると共に当時,ややもすると軽視せられ勝ちであった徳育教育を重んじ智徳体三位一体の教育を受けた結果,大陸に於いては卒業生の一挙手一投足に至るまで目を見張るに至り,満州国からは留学生の派遣(※8)となり,年と共に学校の名声は国の内外にまで知られ,(中略)昭和9(1934)年実業教育40周年の記念大会が東都に於いて開催されるに当り私は鹿児島県代表として学校経営に就いて全国学校長の前に立って其の実状発表の機会を恵まれ学校の実状は漸く国の内外から注視の的となり,昭和10(1935)年の鹿児島,宮崎両県下に股がる陸海軍特別大演習の砌(みぎり)には畏くも勅使御差遣(※9)の光栄に浴し得たのである。
(中略)女子部は家政女学校(※10)として,男子部の電気科,土木科,家具科,採鉱科,農業科は其の内容益々充実せられ,創立満10年を記念して工業科は発展的解消して,村立工業学校として独立し,続いて県立となり(※11)遂に今日の頴娃高等学校として名実共に県内は勿論,国内に其の名を歌わるに至った次第で,頴娃の公民学校こそ今日の高等学校の卵であり種子であった事に思いを致す時,往事を顧みて感慨無量なるものがあります。(後略)
※1 昭和6(1931)年当時,日本は昭和恐慌の影響下にあった。鹿児島県教育界の状況は,例えば「中学校でも志願者が減少し,郡部の中学校では定員を下回る学校もあった。女子中等教育機関である高等女学校へのしわよせはもっとひどかった。郡部の女学校では定員を半減させたりしたが,廃校に追い込まれた高等女学校や実科高等女学校は四校を数えた。」(原口泉・宮下満郎・向山勝貞『鹿児島県の近現代』山川出版社,2015年)というものだった。なお同年9月,満州事変が起こる。
※2 鹿児島農林専門学校明治41(1908)年設立の鹿児島高等農林学校が,昭和19(1944)年鹿児島農林専門学校となる。(現鹿児島大学農学部の母体)
※3 男女共学 『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の多田校長回顧「創立当時の思い出」によれば,「(樋渡村長から)村民の一部には年頃の男女生徒を同じ学校で教育する事には相当強い反対があったが,校長は此の問題をどう考えるかとの御尋ねがあった。村長殿は嘗て英国の大使館付武官をなされた経験者故彼地には男女を一つの学校に収容して教育する学校は無いのかと反問したところ,勿論英国にも同じ学校に男女を収容する所(今日の日本の様に)男女を同一の一教室で同一の科目に就て教育して居るとの御返事に先方で実現して居る事に,日本でも出来ない事は無い筈だと御返事しましたところ,私の手を固く握り締め「その意気,その意気」と非常に喜ばれ」たと記されている。
※4 頴娃村 明治22(1889)年,市制町村制が施行され,頴娃郷は頴娃村に改められ,旧頴娃郷7か村(別府・上別府・御領・牧之内・郡・十町・仙田)は頴娃村の大字となる。明治29(1896)年,郡区画法改正により指宿郡に所属した。
昭和25(1950)年,頴娃村に町制を施行し頴娃町となる。昭和26(1951)年に東南部の仙田・十町・川尻地区が開聞村として分村した。
※5 実科高等女学校を始め併設公民学校は廃止
『創立四十周年記念誌』の回顧座談会で豊満ユキヱ氏(昭和23(1948)年6月から保健科職員として12年間在職)は実科高等女学校について「当時女学校は頴娃小学校の西側の校舎二教室と,家事室,裁縫室を借りて勉強していました」と話されている。
※6 『創立四十周年記念誌』の多田校長回顧
「創立当時の思い出」によれば,職員室も当初はなく,村長の好意で役場(頴娃村郡(こおり)の麓に明治42(1909)年建てられた旧役場庁舎。昭和44(1969)年に現在の場所(頴娃町牧之内)に新築移転)の職員食堂で職員組織を整えたこと,5月1日に男女合計約100名の生徒を確保し,5月5日に開校式(入学式)を挙げたこと,開校したものの職員室も校舎もなく,授業は敷地に近い(頴娃中学校下の)松林で行ったという。
第一校舎となる九玉小学校の一部移築は6月半ばで4教室,職員室もようやく役場から移転,9月には第二の校舎が落成,6教室となったことなどが記されている。
※7 村の電気,土木事業の如き建設事業まで学校の手は伸びて
以下は,『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での岩崎友二氏(電気科卒,電気科職員)による。
「一番思い出深いのは昭和十七(1942)年だったと思いますが,台風がやってきまして,当時は村で村内の電気を管理していたのですが,村内が全部停電しました。私達二年生は実習という形で,二か月間ほど授業はやらなくて,復旧作業を続けました。村内の全ての地域で,二か月間,小笠原先生と復旧作業をやりました」
この伝統は,アジア太平洋戦争後の新制高等学校にも引き継がれた,例えば『創立四十周年記念誌』所収の宮田己之助氏(昭和24(1949)年4月~昭和30(1955)年3月在職)の「併設定時制の思い出」には次のように記されている。
「私が就任したのは終戦後三年余新制高校制度二年目の四月でした。その時県立頴娃高校に定時制高校が新しく頴娃町立として併設(注:昭和24年4月村立,同25年4月県立移管)され,発足初年度初代主事に任命されて着任しました。(中略)定時制(当校では第二部と呼ぶ)その内容は,農業科(本科),建築科(別科)・家庭科(別科)三科によって編成され,農業科だけが新設で,建築科は青年学校当時から長い伝統をもち,実技を主体とした教育がなされ,生徒は全寮制度をとっていた。その編成内容も複雑で,表面は建築科でも,内容は大工・木工・左官(造作)桶器(タンコ)木挽に分れ,各々(おのおの)分科され,それぞれ専門の教師から教育されていた。
従って,家の建築の依頼をされると,山から材木の切り出しから,製材加工・屋根・建具・家具まで,全てが生徒の手で工作され完成して渡すというしくみであって,部落父兄の間から信頼も高かった。」
また,『創立50周年記念誌』(1981年2月発行)所収の福留善秀氏(建築科昭和34(1959)年卒,昭和37(1962)年~昭和54(1979)年本校在職)「思い出」によれば以下のとおり。
「建築科(注:昭和35(1960)年に定時制募集停止,全日制募集。昭和61(1986)年募集停止,設備工業科新設)は町内の民家を請負い工具箱を自転車の荷台に載せ週に12時間は校外実習に取り組み,遣方実習から墨つけ,加工建方と内部仕上まですべて生徒の手で行われました。」
※8 留学生
昭和9(1934)に中国からの留学生写真が残されている。(『写真アルバム南薩の昭和』(樹林舎発行,2013年)
※9 陸海軍特別大演習と勅使御差遣
昭和10(1935)年11月8日に鹿児島港に到着した昭和天皇は,鹿児島県の隼人野外,宮崎県都城で行われた陸軍特別大演習を視察され,宮崎方面をまわり15日に再び鹿児島に戻り照国神社など諸社や鹿児島高等農林学校など諸学校,鹿児島地方裁判所など,その他県内各地を巡幸して19日に鹿児島を出発された。この間に天皇の言葉を伝える使者(勅使)が派遣されたことを示すもの。(9日に予定されていた鹿児島湾での海軍大演習は,天皇が体調を崩したので中止されている。)
本校正門を入って右側に,昭和11(1936)年11月30日付の「行幸記念水道碑」がある。この石碑と,樋渡・多田先生両胸像の間に,「御使御差遣」記念碑が設置されている。碑の正面には「御使御差遣記念碑 従二位勲二等功四級侯爵西郷従徳」とある。西郷従徳氏は従道の次男で西郷隆盛の甥に当たる。背面の碑文は摩滅して判読しがたいが,「昭和十二(1937)年十一月九日建之」と,当時の濱田森七村長・多田茂校長の連名がかろうじて確認できる。この石碑を後ろにして修養団修了式記念の写真が残されている(『目で見る南薩の100年』郷土出版社発行,2004年)。
行幸記念水道碑には,牧之内水道組合長鶴留盛衛氏ほか関係者・団体の名が四面に刻まれている。寄附者の中には「頴娃青年校後援会」「頴娃青年校卒業生」,奉仕者の中には「頴娃青年学校全員」も確認できる。
(参考文献 南日本新聞社編『鹿児島百年(下)』(春苑堂書店,1968年),『写真アルバム南薩の昭和』,『鹿児島県の近現代』等)
※10 村立頴娃高等家政女学校
村立頴娃青年学校から,家政科が昭和15(1940)年4月1日独立。昭和17(1942)年の裁縫授業風景や運動会での集団写真演技の写真が残されている(『写真アルバム南薩の昭和』掲載)。
※11 村立頴娃工業学校
村立頴娃青年学校から,電気科・土木科が昭和16(1941)年4月1日独立,同19(1944)年4月1日県立移管(県立頴娃工業学校)。
以下は『創立四十周年記念誌』の回顧座談会での田畑実幸氏(土木科卒,土木科職員)による。
「青年学校の中に電気科,土木科があり,電気科は二学級,土木科は一学級でしたが,十回生で終わりということになり,私はその十回生で,一旦青年学校を卒業してから工業学校の二年に編入しました。(中略)校舎そのものはなくて,下の今のグランドになっているあそこに整地がなされていただけのことでした。先生方も,青年学校としての先生,工業学校としての先生とあったわけです。電気科,土木科とも四十名が定員で,一学級ずつでした。学校生活のことですが,太平洋戦争勃発の頃でありまして,戦時態勢によって全てが動いていました。授業そのものよりも勤労奉仕が大部分でした。今の生徒は充実した授業が受けられるわけですが,私どもは奉仕作業や実践農場での作業が毎日の生活でした。しかしそれが,開拓精神や根性の養成につながり,簡単にはへこたれない粘りを私どもに植えつけたのではないかと思います。(中略)卒業も繰り上げ卒業で,前年の十二月に卒業させられて職場にやられたのでありました。」
次回は,同じく創立30周年記念号の回顧編から,第4代校長榎田栄次先生,第5代久木田実先生,第6代武政治先生の回顧録を予定しています。お楽しみに。
2020年7月31日
2020年07月31日(金)
既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(1)
鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念
-既刊周年記念誌記事から振り返る頴娃高等学校(1)-
校長 林 匡
令和2(2020)年,鹿児島県立頴娃高等学校は,創立90周年を迎えました。この記念すべき年に当たり,本校の歴史とこ こに息づく様々な関係者の想いなどを振り返り,今本校で学ぶ生徒の皆さんをはじめ,保護者や地域の方々にも改めて本校の培ってきたこと,創立以来の本校の歴史を知っていただきたいと考え,ここに紹介いたします。
今回は,今から60年前に発行された同窓会誌・創立30周年記念号(1960年12月発行)から抜粋します。
なお,原則として記念誌記載の文言に従い記載しますが,明らかな誤字・脱字等は適宜改めています。また,元号表記については,西暦表示が原文にない場合,( )で示しました。記載文中,補足説明の箇所には※印・番号を付しています。(以下同様)
I 出典:『同窓会誌 創立30周年記念号』(昭和35(1960)年3月発行)
1 式辞(寺崎豊志校長,昭和32(1957)年4月1日~昭和37(1962)年3月31日在職)
本日ここに本校創立30周年記念式典並に講堂の落成式(※1)を挙行致しましたところ雨天の中遠近を問わず県御当局をはじめ沢山の来賓の方々並同窓会PTA等多数の御参加を得まして厳粛にして然も盛大なる式典をあげ得ますことは本校の無上の光栄とし深く感謝する所であります。
本校は昭和6(1931)年本月この牧之原原頭に頴娃村立高等公民学校(※2)として発足し昭和19(1944)年には頴娃工業学校となり同23(1948)年には学制改革により普通科を増設して電気科建築科の三課程の全日制高等学校となりました。一方青年学校(※3)を主流とし家庭科農業科建築科の三課程の頴娃村立定時制高等学校は昭和25年県立となり全日制と合体して六課程を持つ県下にも稀な綜合制高等学校として今日に及んでおります。
此の間数々の試練を経て着たのでありますが中でも昭和20(1945)年8月8日終戦を目の前にして講堂のみを残して戦災により全焼加ふるに昭和26(1951)年10月14日のルース台風により再度の大災害を被り(※4)一時は学校の存廃問題になる程の大災害の記録も持っています。
今ここに白亜の本館の大殿堂と今回落成せるこの講堂を今日まのあたり見る時参列の皆様も私共一同も感涙無量なるものがあると思います。
(中略)本講堂の左後方の森の中にみかげ石の二つの石像が並んで立っています。碑面には樋渡盛広村長の像(※5)多田茂校長の像(※6)ときざんであります。(中略)この地の青年諸君はすべて海外雄飛の大志を抱くべきとの卓見をいだき凡ゆる困難を克服して敢然としてこの地にこの学びやを建設された方々を代表する記念の石像だと思います。爾来敗戦によりその職場は幾分限定されたとは云え建学の精神を深く身に体し質実剛健の校風を樹立しながら本校に学んだ青年は四千数百名にも及び到る所で活躍して頴娃青年の名を天下にとどろかしつつあります。
地元民による地元民の学校としてスタートした本校は一種独特の雰囲気と校風をかもし出し今や県立学校としても十指に屈せられる大規模な学校となりました。
今や私共は並々ならぬこの皆様の御高恩にむくいるべく責任の重大さを痛感しながら一致団結日夜御期待に副う様努力いたす覚悟であります(後略)
※1 講堂の落成式
体育館兼講堂(214坪)。昭和35(1970)年3月25日竣工。場所は,現在の正門右側,駐車場等の場所に建てられた。(本校学校要覧の建物配置図によれば,前年度まで正門左側に講堂があった。付属して音楽室があった(昭和53(1978)年に音楽室が竣工したため,器具室,倉庫となる)。
この講堂は,昭和40(1965)年度以降の学校要覧では屋内運動場と表記される。平成18(2006)年3月に撤去され,作業倉庫・駐車場が新設された。
※2 頴娃村立公民学校・高等公民学校
明治時代に創立された頴娃村内の小学校に実業補習学校が併設され,昭和5(1930)年以降公民学校と改称された。昭和6(1931)年に各校併設の公民学校を統一して開設。また,大正12(1923)年に,頴娃尋常小学校に併設して村立頴娃実科高等女学校が設置されていたが,頴娃高等公民学校家政科ができて廃止された。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※3 青年学校
昭和10(1935)年青年学校令による,戦前の教育機関の一つ。尋常小学校6年卒業後勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う。実業補習学校と,大正15(1926)年施行の青年訓練所令に基づく青年訓練所が統合されたもの。頴娃村立青年学校は,家政科が昭和15(1930)年に村立頴娃高等女学校として独立。電気,土木科が翌年村立頴娃工業学校として独立(昭和19(1944)年に県立移管)する。
(参考文献『頴娃町郷土誌』改訂版(頴娃町発行,1990年))
※4 ルース台風により再度の大災害を被り
昭和26(1951)年10月14日,電気科・土木科教室や製図室・配線室,その他諸施設全壊,大破。被害状況は22日付けの「ルース台風による災害状況調書」(本校保管)に記録されており,壊滅的打撃を受けたことが図面からも分かる。
※5 樋渡盛広村長の像
(正面)
「樋渡盛廣村長之像」
(背面)
「樋渡盛廣先生は明治十年四月五日旧頴娃村郡に生まれ長じて後鹿児島高等中学校を経て陸軍士官学校陸軍大学校へ進み大正八年陸軍大佐をもって退役された 又昭和二年から昭和九年まで頴娃村長を勤めその間昭和六年に村立頴娃高等公民学校を設置して職業教育青少年教育の振興に努められ
これが後の工業学校高等学校の母胎となったのである 昭和二十一年三月二十一日満洲瀋陽市で死去された」
※6 多田茂校長の像
(正面)
「多田茂校長之像」
(背面)
「多田校長は静岡県の生まれで大正二年七月鹿児島高等農林学校を卒業しマライ半島ゴム園生活十年の後帰国して山口県立小郡農業学校勤務を経て昭和六年四月本校の前身である頴娃村立高等公民学校の初代校長として来任された以後十年間行学一体開拓者精神の養成等を通じて堅実な校風の樹立と有為な青少年の育成に努められそして昭和十六年三月兵庫県豊岡農業学校へ転出された」
補足して,この樋渡盛広村長・多田茂校長の胸像は,昭和19(1944)年3月に「多数の卒業生の篤志寄附を仰いで建立し除幕式を挙げ」(『創立30周年記念号』回顧録中,2部電1卒の松永友義氏「30周年を顧みて」)たものです。
両胸像は,寺崎校長式辞に「本講堂の左後方の森の中」と示されたとおり,現在より東側に建立されました。「昭和25~昭和27年頃の頴娃高校の様子」図(『創立50周年記念誌』(昭和56(1981)年2月発行)』所収)によれば,正門側から見て右側に多田校長,左側に樋渡校長像が示されており,現在と左右反対になっています。
この後,昭和45(1970)年の創立40周年記念の際に,現在の場所に移築されました。多田校長像の左手前に「創立四十周年記念 胸像移築 庭園造成 昭和四十五年六月 県立頴娃高等学校同窓会」の石碑があります。この胸像移築・庭園造成は,プール(この年10月に完成,平成26(2014)年解体)建設とともに40周年事業の中心でした。
『創立四十周年記念誌』(1971年3月発行)の回顧座談会の中で,多田先生は自身の学校経営方針を尋ねられ,「私,マライ半島で長く働いており,開拓精神の必要性を痛感致しておりました。それで生徒にパイオニアの精神,欠乏に耐える精神,無から有を生み出す精神を教えることを念願としていました。」と話されています。
校是「開拓精神」の基がここにあります。
また,同座談会において,多田先生は学校経営で重きを置いたものとして,「立場をかえて考えよ」と「燃ゆる者のみが他を燃やす」の,2つの信条を挙げておられます。前者は「職員は生徒の立場に立ってものを考える,生徒は父兄や職員の立場で考えよ」という意味,後者は「自分が本当に燃える心でしなければ,周囲は動かない。燃ゆるもののみが人を動かす」という意味です。
次回は,創立30周年記念号の回顧編から,初代校長多田茂先生の「開校当時の思出」を予定しています。お楽しみに。
2020年7月27日
2020年07月27日(月)
令和2年7月25日土曜日の愛校作業について(御礼)
令和2年7月25日土曜日の愛校作業を,作業の時間帯には天候にも恵まれて無事終了することができました。
参加いただいた保護者の皆さま方,生徒の皆さん,学校職員の方々,ありがとうございました。例年以上の参加者数と,草刈り機を持参いただいた方が多く,午前8時30分終了予定が午前8時に終了することできました。おかげでこの夏を生徒たちは整備された環境で過ごすことができそうです。
また,一日体験入学に参加する中学生たちも快適な環境で体験することが適いそうです。ほんとうにありがとうございました。
2020年07月27日(月)
頴娃高校創立90周年記念式典等の延期のお知らせ
本校は,創立90周年の記念すべき年を迎え,令和2年11月7日(土)に鹿児島県立頴娃高等学校創立90周年記念式典・祝賀会等の開催を予定しておりました。ところが,新型コロナウィルス感染症の拡大防止のため,今後も様々な対応を取らなければならない状況を鑑みて,実行委員会で検討の結果,やむなく来年 令和3年11月6日(土)に延期することといたしました。関係の方々へお知らせいたします。
また,創立90周年記念事業に対する募金は,継続して令和2年12月28日まで集める予定です。その募金を用いて次年度に,予定しておりました各種記念事業を実施する方向で調整中でございます。
全国の同窓生の皆さまには,8月中に延期の御案内等をお届けできるように発送作業を進めております。
なお,今後の新型コロナウィルス感染症の状況によっては,変動もあり得ますことをご了解ください。
2020年7月18日
2020年07月18日(土)
第19回ものづくりコンテスト鹿児島県大会
毎年,県内の工業系の生徒が技術と技能を競う,ものづくりコンテスト鹿児島県大会が鹿児島工業高校で開催されました。本校からは,電気工事部門に機械電気科2年藏薗一太君と電子回路組立部門に稲田政哉君が出場しました。
電気工事部門
機械電気科2年 藏 薗 一 太 君
電子回路組立部門
機械電気科2年 稲 田 政 哉 君
今年は,コロナウイルスの影響で開催が危ぶまれたり,時期が大幅にずれ込むなど,十分な練習時間の確保や調整に頭を悩ませました。しかし,電気工事部門の藏薗君は日頃の練習の成果を十分に発揮し,見事優秀賞を勝ち取ることが出来ました。惜しくも入賞とはならなかった稲田君も,最後まで諦めない姿勢を見せ,来年に繋がる取り組みをしてくれました。藏薗君おめでとうございました。稲田君来年入賞目指して頑張って下さい。
優秀賞を勝ち取った藏薗君と指導にあたった本間先生
2020年7月17日
2020年07月17日(金)
1学期クラスマッチ
本日クラスマッチが開催されました。心配された天気も回復し,蒸し暑い中での開催となりました。今学期のクラスマッチは,男子がソフトボール,女子はバレー,男女とも一種目の開催となりました。
生徒たちは久々の学校行事となったクラスマッチを,存分に楽しんでいました。今学期のクラスマッチは,コロナウイルスの影響で競技を縮小する形での開催でしたが,2学期は通常開催できることを願っています。生徒の皆さんお疲れ様でした。
2020年7月16日
2020年07月16日(木)
弁論大会
本日6限目に,弁論大会が行われました。体育館で行われていた例年とは異なり,今年はコロナウイルスの影響により放送による弁論大会となりました。各クラスの代表者が,約3分間に思いを込め堂々と弁論していました。
生徒会の皆さんが例年とは違った運営に戸惑いながらも全員で協力し,素晴らしい弁論大会となりました。
普通科1年生の上 村 妃 莉 さんが「一人ひとりの意識を高める」というテーマで最優秀賞,機械電気科3年の森 満 荘 太 君が「今を楽しみましょう」というテーマで優秀賞となりました。弁士の皆さん,原稿の考案から発表まで大変お疲れ様でした。この経験を今後の様々な活動に生かして欲しいと思います。
2020年7月15日
2020年07月15日(水)
情報モラル講演会
本日,NPO法人ネットポリス鹿児島の戸高成人様を講師としてお招きし,全校生徒を対象とした情報モラル講演会を行いました。今年度は,コロナ渦での講演となったため,1・2年生は体育館にて,3年生は各教室でリモート受講という形をとりました。
NPO法人ネットポリス鹿児島 戸 高 成 人 理事長
今回の内容は,軽はずみなSNSによる投稿で自殺やいじめに発展した事例や,名誉毀損罪という犯罪として検挙され,多額の損害賠償を請求された事案などを中心にご講演いただきました。また,自分の使用しているスマートフォンの情報は,セキュリティー対策を万全にしないと簡単に抜き取られ,最終的には位置情報により自宅まで特定される怖さも教えていただきました。
日頃から使用しているLINEやインスタグラム等で,軽はずみな言葉を送ったり,相手が気にしていることを取り上げたりしていませんか。不適切な写真や本人の承諾も得られてないのに個人情報を掲載したりしていませんか。戸高様がおっしゃられたインターネットリテラシーを再度学ぶとともに,自分がされて嫌なことは相手にもしない。自分の行動(投稿や送信)がふさわしいのかを判断できる力を身につけて欲しいと思います。送信は一瞬,後悔は一生です。戸高様ありがとうございました。
2020年5月29日
2020年05月29日(金)
学校訪問を予定されている外部の方へ
頴娃高校の訪問を計画されている企業,学校,諸機関の方々へお知らせとお願いになります。
頴娃高校では現在,新型コロナウィルスの感染予防に細心の注意を払い,努めている状況です。
本校を訪問される方々へ次の点についてご協力をお願いいたします。
・6月18日木曜日までは,特定警戒都道府県(東京,神奈川,千葉,埼玉,北海道)及び福岡県からの訪問はお断りしています。ただし,感染状況によって,地域,期間に変更が生じることもあります。
・必ず事前にご連絡お願いいたします。予約なしのご来校は対応が難しくなっております。
・事前の検温,体調確認,手洗い,マスク着用等,感染防止対策をお願いいたします。
・1回の面談時間は10分程度でお願いします。
・資料配布,資料説明等,送付や電話で可能な要件はご活用をお願いします。
・進路関係でWeb面談を希望される方は進路室までお伝えください。
・感染防止の観点から湯茶接待を行っていません。必要な時はご自身の水筒,ペットボトル等ご持参ください。
・面談場所,待機場所等通常とは異なる状況があります。ご了承ください。
・「コロナに負けるな」の心意気で頑張る頴娃高生にエールをお願いします。
今後ともご協力とご厚情を賜りますようお願いいたします。
参考:頴娃高校電話番号 0993-36-1141
頴娃高校FAX番号 0993-36-1142
進路室メールアドレス ei-sh161@edu.pref.kagoshima.jp
2020年5月28日
2020年05月28日(木)
主権者教育が行われました
本日5・6限目に主権者教育が行われました。選挙権年齢が満18歳以上に引き下げられたことにより,これまで以上に,国家・社会の形成者としての意識を醸成するとともに,課題を多面的・多角的に考え,自分なりの考えを作っていく力を育むことを目的として行われました。南九州市選挙管理委員会の門園委員長をはじめ8名の方々を講師に招き,2・3年生を対象にご指導いただきました。
南九州市選挙管理委員長 門 園 博 德 様
南九州市選挙管理委員会の方々
生徒たちは今回の主権者教育で,選挙の仕組みや意義,また,若い人が選挙に行かないと起こる悪循環などを学ぶことが出来ました。本校では数名の生徒が18歳を迎えており,早速7月12日の鹿児島県知事選挙に投票することができます。未来の鹿児島県に興味を抱きながら選挙日を迎え,清き一票を投じてほしいと思います。
2020年4月16日
2020年04月16日(木)
令和2年度警察署講話
昨年に引き続き,南九州警察署の福里様をはじめ,スクールサポーターの野添様,南九州地区防犯協会の平木場様を講師に招き講話をしていただきました。本来なら全校生徒を対象にすべき講話でしたが,コロナウイルス感染症対策のため,1・2年生を対象に行いました。
南九州警察署 生活安全刑事課長代理 福 里 寛 人 様
冒頭から視聴した30分のDVDは,チケット詐欺やフィッシングなどのネット犯罪についての内容でした。便利なインターネットだからこそ危険が潜んでいる,セキュリティーの甘さから情報が抜き取られるといったことを認識させられました。また,講話の中では,ある高校生の事例を教えていただきました。チャットやSNSの使い方によって,不特定な人物と交際に発展し,最終的に様々な被害に遭ってしまう怖さも再認識させられました。1・2年生の皆さん,今回の講話で学んだことを今日から生かしていきましょう。
2020年4月10日
2020年04月10日(金)
新型コロナウィルスに関する当面の対応について
在校生の保護者の皆さまへ
脅威の存在となっております新型コロナウィルスに対する本校の対応についてお知らせです。
4月10日生徒便にて,「新型コロナウィルス感染症に関するお知らせ」を配布しています。
対応の詳細について記述しておりますので,必ずご確認をお願いいたします。
当面はプリントのような対応となりますが,今後については,
国,県,所在自治体からの新しい指示を踏まえての対応となります。ご了解ください。
プリントにもありますように,必ず,毎朝検温をしてから登校させてください。
子どもたちの安心,安全のため学校と保護者が連携して取り組むことができればと思っています。
常にも増して,ご協力方よろしくお願い致します。
2020年4月8日
2020年04月08日(水)
対面式および新入生オリエンテーション
例年は体育館後方から新入生が入場し,2・3年生に拍手で歓迎されていた対面式ですが,今年はコロナウイルス感染症対策のため生徒会執行部と各科代表の生徒が参加する式となりました。生徒会長の普通科3年 有 馬 花さんが「分からないことや不安な事もあると思いますが,先生方や先輩を頼ってください」と頼もしい挨拶をしてくれました。
新入生に激励の挨拶をする生徒会長の 有 馬 花さん
新入生代表の折 尾 香 花 さんが「未熟な私たちではありますが、どうぞよろしくお願いします」と力強い挨拶をしてくれました。3学年顔を揃える日を楽しみしたいと思います。
明日は部活動紹介が予定されています。
2020年4月7日
2020年04月07日(火)
令和2年度 新任式・始業式
例年より6日遅れて開花し,ようやく本校の桜も見頃をむかえた本日,令和2年度新任式・始業式が行われ林校長先生をはじめ6名の先生方がご挨拶されました。
式辞を述べられる校長先生
事務長先生
地歴公民科
理 科
英語科
保健体育科
6名の先生方,学校に慣れるまで色々とご不安な点や分からない事などあると思いますが,どうそよろしくお願いいたします。
明日は,46名の新入生を迎える第73回入学式です。
2020年3月26日
2020年03月26日(木)
修了式・離任式
3月2日から休校となり,久々に登校した昨日,修了式と離任式が行われました。
校長先生は今年度で定年退職されます。
離任式の様子です。それぞれの場所でご活躍されることを願っております。
2020年3月2日
2020年03月02日(月)
卒業式
3月2日(月)
鹿児島県立頴娃高等学校 第72回卒業式が行われました。
今年度は感染症予防のため卒業生,
本校教職員のみの短縮形式での式典となりましたが,
3年生は堂々とした表情と態度でこの日を迎えていました。
普通科代表
機械電気科代表
学校長式辞
卒業生代表挨拶
校歌静聴
普通科11名,機械電気科37名
合計48名の卒業生の皆さん
ご卒業おめでとうございます!!
皆さんのこれからの人生が
光り輝くものでありますように
心からお祈りしています。
2020年03月02日(月)
表彰式
2月28日(金)
表彰式が行われました。
県教育委員会賞
産業教育振興中央会賞
県産業教育振興会賞
3ヶ年皆勤賞
全国工業高等学校長協会ジュニアマイスター
特別表彰
ゴールド
シルバー
ブロンズ
危険物取扱者乙種全類取得
日本漢字能力検定
2級
準2級
実用英語技能検定
準2級
日本語ワープロ検定
情報処理技能検定
表計算2級
受賞された皆さんおめでとうございます!!
2020年2月5日
2020年02月05日(水)
消費者教室
2/5(水)
「消費者教室」
3年生を対象に
鹿児島県司法書士会の先生をお招きし
消費者教室がおこなわれました。
主に, 契約についてお話いただき
クレジットカード
クーリングオフ
悪徳商法
などについて学びました。
お忙しい中, ありがとうございました。